六文銭記 38 九度山生活

文聞亭笑一

真田昌幸、信繁の九度山生活は14年の長きにわたりますが、ドラマは一気に10年の月日を消化します。九度山での時間は中央政治とは無縁の暮らしですから、ドラマにはなりませんね。関ヶ原の戦の後、1600年の12月に幽閉されます。そして、昌幸が死去するのが1611年ですから、永い、永い10年間です。

生活費の補給は上田の信之からの仕送りしかありません。時折、和歌山の浅野幸長、長晨(ながあきら)が援助の手を差し伸べますが、幕府の目を憚(はばか)って定期的援助ではありません。真田親子はかなり金に困っていたようで、近在の百姓や商家から借金をしています。昌幸が「40両の借金を返すから至急、金送れ」という手紙を信之宛に書いた物が残っています。

信之はかなり援助をしたようですが、九度山に屋敷を建てたり、その屋敷が火事で炎上したりと、出費がかさみ、真田紐の売上程度では日々の生活費にも困っていたでしょうね。昌幸に従って九度山に来た家臣が16名います。信繁の妻妾が3人、その付き人が6,7人はいたと思われますし、出産ラッシュでこちら物入りです。その他に佐助のような情報要員の活動費も賄わなくてはなりません。30人以上の生活費ですから相当な額です。

関が原後の10年間

最初の3年間は戦後処理に終始します。家康の立場は「豊臣家大老」ですから、決定権はすべて家康にありますが、名目上は豊臣の名を以て政令を発します。この辺りが家康の家康らしいところで、慌てません。加藤清正、福島正則、細川忠興、浅野幸長など豊臣恩顧と言われる大名はじめ、黒田、藤堂、山内なども家康の直臣ではありません。何かきっかけになる事件があれば彼らが結束する可能性があります。名を挙げた大名たちだけで250万石近い軍事動員力がありますからね。それに、毛利、上杉、島津などの外様が加担すれば、関が原の再現にもなりかねないのです。3年かけて慎重に事を進めます。

1603年、天下が落ち着いたのを見計らって、征夷大将軍の宣下を受けます。

家康が名実ともに天下人として君臨し、幕府を開きます。この時間の掛け方、情勢判断の良さ、これこそ家康の政治家としての真骨頂です。福島、浅野などは「騙された」と不満だったようですが、もはや反抗できる情勢ではありません。

1605年、家康は将軍を秀忠に譲り、将軍は徳川が世襲する旨を天下に知らしめます。これで秀頼が政権を禅譲される期待が消えました。それはそうでしょう。政権を返上するなどと云うお伽噺など存在しえません。豊臣家とて、最初は信長の嫡孫三法師を立てて政権を奪取したのに、それを反故にして秀吉自らが関白に就いて天下を奪ったのです。同じことの繰り返しです。

家康は将軍位を秀忠に譲る機会に、秀頼の臣従を誘います。徳川家の別格大名として、朝廷を管理する役割を持たせようとしますが、淀君・茶々に一蹴されます。茶々は「秀頼成人の暁には政権禅譲」という誰かの作った嘘話を信じてしまっていたようです。茶々が信じるのですから、この話を創作したのは茶々に近い人でしょうね。しかし、篤実一路の片桐且元や、ゴマすり男の大野治長では大嘘をつく才覚はなかったでしょう。となれば…伯父さん二人のどちらかでしょうね。織田常信(信雄)か織田有楽斎といったところではないでしょうか。この二人が陰に陽に茶々を操ります。茶々を使って織田家の復活を夢見たのでしょうか。

大久保長安事件

ドラマには全く出てきませんが、江戸幕府創業期に幕府が転覆するほどの大事件が発覚します。大久保長安という家康の信任厚い財務官僚がいます。徳川家の金庫番とも言うべき男で、関東総奉行という立場で税収の総てを管理していました。そればかりではなく、佐渡金山の奉行も兼ねています。さらに、家康の5男・忠輝の筆頭家老でもありました。

松平忠輝・・・家康の愛妾・阿茶局の産んだ子です。この当時、3代家光は幼少でしたし、4男の信吉は関が原の怪我が元で病中でしたから、3代将軍に最も近い男、皇太子的存在です。

この、忠輝の愛妻が伊達政宗の娘・いろは姫です。この関係から野心家の政宗と野心家の長安の関係ができてきます。その二人に薫陶された忠輝も「次の将軍は俺だ」と野心を膨らませます。

徳川の資金は長安が握っています。問題は軍事力ですが、これは伊達政宗が「アッ!」と驚くウルトラCのアイディアを実行に移します。イスパニア海軍を味方にして江戸を攻撃するという案で、案だけではなしに支倉常長をイスパニアからローマに派遣する準備をしていました。援軍要請ですね。条件は日本をキリスト教国にしても良い…という内容だったようです。

この計画は事前に発覚します。大久保長安が金山の収入を誤魔化して、私財をため込んでいるという噂があり、長安の死後に捜査が入り、長安屋敷の床下から大量の金塊が見つかりました。

このクーデターというか謀反計画に賛同した者の連判状も出てきました。その中に、大物では豊臣秀頼、松平忠輝、石川康長(松本10万石)などが署名しています。さらに、署名はしていませんが、大老の大久保忠隣が絡んでいるとの噂もありました。

さあ大変、大粛清です。連判状に名のあった者は全員が改易、大久保忠隣も小田原城を追われます。忠輝も越後高田50万石を没収されます。ただ、黒幕の伊達政宗には証拠がありません。また、秀頼を叩くには時期尚早でした。加藤清正、福島正則、浅野幸長といった豊臣シンパの連中が暴れ出す危険性があります。しかもこの連判状に政権転覆とは書いてないのです。海外貿易促進期成同盟といった趣旨なのです。

この事件で、家康は「秀頼」「キリスト教」「陰謀家」という3つの危険要素を再確認しました。

九度山の真田昌幸・・・減刑願いが何度も出ていましたが、握りつぶします。陰謀を怖れます。

今回、証拠不十分で逃がしてしまった伊達政宗などと結びついたら、何をするかわかりません。秀頼も・・・存在そのものが謀反の種になります。この事件以後でしょうね、家康は豊臣家との共存という方策を捨てたと思われます。

二条城の会見

豊臣家の取り潰しに舵を切ったものの、家康は秀頼の幼い頃しか見ていません。しかも秀頼は愛孫・千姫の夫です。豊臣家は取潰しても、秀頼の命までは取らずに、人畜無害の立場に置くことも視野に入れていたのかもしれません。二条城に呼び出します。

この話、色々な脚色があります。加藤清正が毒饅頭を食わされたとか、浅野幸長も毒を盛られたとか、家康嫌いの大阪人がいろいろな噂話を残しますが、どれもウソでしょうね。ただ、秀頼が出された料理にほとんど手を付けず、家康の心証を大いに害したというのは事実でしょう。茶々・淀君が「毒を盛られる」ことを大いに心配して、最後まで上洛に反対していました。

「道中の護衛と毒見は我々が…」と清正と幸長が請け負って上洛しています。清正や幸長が「毒を盛られた」というのはここから来た話です。都合よく…というか、その後半年以内に加藤清正は癌で、浅野幸長は梅毒で世を去っています。

 余談ですが、秀頼は毒を怖れて料理に手を付けなかったのではなく、食膳に乗っていた大鯛に驚いて食欲がわかなかったのだという説もあります。魚を姿のまま食べたことはなかったようで、秀頼の大好物は蒲鉾だったと言われています。魚はすり身にしていたんですね。この辺りは嘘か誠か微妙ですが、茶々が三過ママであったことは事実のようです。三過とは・・・過保護、過管理、過干渉のことですが、現代はこういう母親が増えました。現代人が茶々を責めるわけにもいかないでしょう。これで育てたら間違いなくもやしっ子になります。

この会見で、家康は大阪討伐を決めたとも言われます。秀頼が予想外の偉丈夫で、立居振舞が立派だったからだと言います。その前の忠輝の事件のことがありますし、秀忠がイマイチ、リーダシップに欠けることなどと考え合わせ、「秀頼を難攻不落の大阪城においてはおけぬ」と決意したのではないでしょうか。

九度山での信繁

信繁にとって九度山での生活は種馬のようなものでした。3人の妻の元を、ほぼ均等に渡り歩きます。何も楽しみがありませんから、夜の部だけが楽しみだったかもしれません。

正妻の大谷吉嗣の娘(ハル)は屋敷内に住んでいます。高梨内記の娘(キリ)と豊臣秀次の娘は近在の農家の離れに住まわせています。三者三様の性格だったようですが、3人の妻たちは帰る家がありません。大谷家は関が原で敗れて以来、ハルの兄・当主はお尋ね者で行方不明です。キリの父・高梨内記は昌幸に従って九度山に来ていますが、屋敷はありません。秀次の娘は、三条河原で一族総てが処刑されての生き残りですから、行き場などありません。

やる事がない男と、寂しい女が三人・・・子だくさんになるでしょうね。

娘の出世頭は3女の梅で、伊達政宗の筆頭家老・片倉小十郎の正妻になって78歳の天寿を全うしました。

大阪落城の折、片倉小十郎に乱取り(強姦)され、仙台に拉致されますが、その後信繁が「日本一の兵(つわもの)」と評判になると、その娘であることが判明し、女奴隷の立場から正妻に迎えられます。

現金と言おうか…、人生いろいろ

その伝手で、妹たちは仙台藩関係者に嫁ぐことになります。


(次号に続く)