六文銭記 37 関が原の舞台裏

文聞亭笑一

何とまぁ、あっけない関が原の合戦でした。用意した資料、原稿はすべてボツ。

腹を立てても仕方がないので…(笑)資料だけ掲載しておきます。 徳川の動きは図の通りです。

6月16日に大阪を発ち9月27日に戻ります。

家康は東海道を往復、秀忠は9・15の合戦に間に合いません。10日間、真田に翻弄されました。

家康を困らせたのは福島正則、池田輝元の岐阜城攻撃で、あまりにも早い進撃、成果に驚き慌てます。更に、西軍の弱さですね。左下の図の通り、美濃の合戦では東軍が連戦連勝です。

このままでは徳川の立場がない。福島、池田など豊臣大名に功を奪われてしまいます。

9月1日に江戸を発して西上したのは、全くの予定外でした。秀忠にも「急げ」と指令を出しましたが、利根川の氾濫で情報が届かず、上田合戦になってしまいました。

「成り行きだ」と、臨んだのが関ヶ原合戦です。

地図を三つ挙げましたが、前の合戦図、全て東軍の勝です。

西軍にとって最大の誤算は岐阜城があっさり落城しまったことでしょう。織田秀信・・・戦国のエリート中のエリートがたった二日で落城します。岐阜城は落ちるはずのない城で、難攻不落のはずなのですが、あっさり落ちます。

織田秀信の作戦の失敗です。サザエは殻の蓋を閉じて防御に徹すればひと月、半年は優に籠城できます。が、織田秀信も初陣でした。戦争の仕方を知りません。織田秀信・・・幼名を「三法師」、織田信長の嫡孫です。戦国の覇者・信長の正統な後継者ですから、岐阜城でにらみを利かせているだけで威力がありますが、若気の至りでしょうね。チャンバラをやってみたくなったのでしょう。ノコノコと木曽川まで出かけていき、大負け、・・・逃げ帰るところを池田、細川に付け入られてあっさり落城です。戦争のやり方を全く知りませんでした。その点では上田を攻めた秀忠も同じ初陣でしたね。参謀の責任でもあります。

戦争、動乱の危機管理・・・言葉にすればわずか四文字ですが、これは経験勝負です。いかに机上で作戦を検討しても実戦の役には立ちません。出たとこ勝負…その場の判断で生死を決します。震災、洪水などいつ来るかわかりませんが、理屈ではなく勘の世界です。経験豊かな爺の出番なのです。国、県、市などの若い職員はあてになりませんので、読者の皆さんが采配を振るわなくてはなりません。北朝鮮から原爆を搭載したミサイルが飛んでくるかもしれません。その時は皆さんの出番です。どうせ長生きしてもあと10年。孫世代のために体を張りましょう。

神君家康を演出するために関ヶ原合戦の記述は、ウソ八百に満ち溢れているようです。

戦記物、軍記物という書物は3代将軍家光の時代から元禄バブルの頃に書かれているものが殆どです。「神君家康」「東照大権現」を神様に仕立てるために、大嘘を展開します。関が原軍記は、その最たるもので、家康の手のひらで戦局が展開したように書いてあります。

嘘その1、合戦は霧が晴れる瞬間を待って開始された

開戦時間は午前10時、2時間前に霧は晴れていました。

嘘その2、逡巡する小早川の寝返りを促すべく、松尾山に鉄砲を撃ちかけた

小早川は開戦と同時に大谷勢に攻めかかっています。逡巡などしていません。

嘘その3、10万の西軍を7万の東軍が打ち破った

西軍の数は3万しかいません。毛利の3万は前夜に休戦協定ができていました。4万の西軍は伊勢、大津、丹後、四国に分散していて関が原にいません。関が原の西軍とは、宇喜多、石田、小西、大谷、島津などです。従って、小早川や脇坂、朽木などの寝返り組を含めた、東軍9万Vs西軍3万の戦でした。半日で結果が出て当然です。

毛利に対する大嘘

関が原で勝つことは、家康にとって天下取りには全くなりません。大阪城には毛利輝元が「玉」秀頼を抱えて残っています。関ヶ原には参戦せず日和見していた吉川広家、毛利秀元、安国寺恵瓊の毛利軍3万は無傷です。仮に、毛利輝元が大阪城に籠って敵対したら、なおかつ、千成瓢箪の豊臣の旌旗を掲げたら…家康軍の半分は戦線から離脱します。

家康と毛利の休戦協定が成立したのは9月14日夜(決戦前夜)です。

「毛利家の本領安堵」 これを条件に休戦協定が成立しました。

「家康は毛利120万石と、動乱の間に毛利が侵略した四国、九州の領土を認める。

代わりに、毛利は関が原では戦わない、大阪城を明け渡す」

と言うものでした。この契約書は十数通やり取りされています。法治社会の現代ならば逃げ様のない証拠書類ですが、家康は大阪城に入城後、すべてチャラにしてしまいます。勝てば官軍、秀頼という玉を握れば、知らぬ顔の半兵衛、「策略である」と開き直ります。

家康も悪い奴ですが、毛利輝元も信じられないほど甘いですねぇ。天下を左右するような重要案件を、誓紙などで信じてはいけない…という教訓です。

現代でもそうですよね。中国は国際司法裁判所の判決を「紙きれ」と無視します。

北朝鮮は国連決議を無視して原爆を作り、ロケットを飛ばします。

その意味でも現代は戦国なのです。習近平の顔が家康に重なって、私の家康嫌いがますます強まります(笑) 安倍さんも長州のご出身、毛利のルーツをお持ちですが、輝元のように、悪党を信じてはいけません。したたかに外交を行ってください。

関が原戦は西軍の自滅

大谷吉継、石田三成の戦略を大きく狂わせたのは、第一に毛利と上杉でした。西軍の総帥として期待した毛利勢は、輝元と恵瓊の一派、吉川広家の一派、そして養子・秀元の一派、更に小早川秀秋の一派と4つに分かれ、思惑がバラバラでした。

総帥・毛利輝元は天下のことは二の次にして領土拡大を目指します。伊予、讃岐、阿波の四国3か国と、さらに九州の豊前までを掌中に入れようとします。

吉川広家は毛利が西軍の総帥を引き受けるにあたり、相談を受けていません。蚊帳の外に置かれたことに不満を持ち、政敵の安国寺恵瓊と対立します。家祖・毛利元就の「天下に覇を唱えるべからず」という家訓を守ろうと、東軍との講和の道を探ります。

毛利秀元は、若いだけに石田、宇喜多などと意気投合し、天下を狙います。

小早川秀秋は「なんとなく」西軍になってしまいましたが、叔母の寧々・北政所から「家康に就け」と指図されていて、西軍から抜け出すチャンスを狙っています。三成から伊勢方面進軍を指示されますが、近江で謎の駐留を続けます。そして関が原戦では、西軍の指揮を受けず勝手に松尾山に登ってしまいました。松尾山こそ、関が原を見渡す最高の陣地なのです。

三成、吉継にとって、更なる誤算は上杉です。

上杉が関東に攻め込む…という前提で戦略を立てていました。そうなれば、家康、秀忠の徳川勢本隊は関東に釘づけになります。戦闘をしないまでも関東を睨んでいるだけで、上杉の役割は果たせる・・・と想定していたのですが・・・景勝、兼続は領土拡張に向けて出羽の最上攻めに向かいます。動機は毛利輝元と同じですね。全体のことより自分のこと、先のことより目の前のこと、出羽、越後への進出を重視していました。

この辺りが戦国大名の性でしょうね。小大名の真田昌幸ですら信濃、甲斐の二か国を欲しがるのですから、上杉としては現在の山形、福島、新潟に加えて群馬、栃木くらいを手に入れようと画策していたのでしょう。関ヶ原が長引けば…それも可能です。

九州で暴れまわる黒田官兵衛。加藤清正を加え、殆んどの大名たちは、関が原で短期決戦が行われるとは想像していなかったと思います。その意味で、毛利を騙して短期決戦にしてしまった家康の戦略はお見事でした。

(次号に続く)