六文銭記 40 九度山脱出

文聞亭笑一

信繁のもとに、ついに大阪城から迎えが来ました。秀頼としては徳川との戦いが避けて通れぬと、追い込まれたあげくの決断です。この決断に追い込まれた経緯を、今回はパスするのか、それとも回想形で扱うのか・・・、そこのところが分かりませんが、方広寺の鐘銘事件を含めておさらいしておきましょう。

豊臣家の立場

豊臣家は公家の中でも最も高位に当たる摂関家です。天皇の補佐として、摂政(天皇になり替わって業務を代行する立場・・・天皇代理)関白(天皇の意を受けて政治を行う)を務めることができる家柄です。ただ、家柄がそうであっても、摂関家の誰でもがその立場に就けるわけではありません。それなりの実績を積み、位階を上げて、天皇から任命してもらわなくてはなりません。

秀頼の立場は右大臣です。父親の秀吉が務めていた関白ではありません。つまり総理大臣ではなく、公家の中のNo2ということになります。

一方で、家康から将軍位を受け継いだ秀忠は征夷大将軍、つまり、天皇が「戦時下である」として政治を軍人に任せた場合の最高司令長官になります。この役職を任命するということは「軍政府一任」と言うことで、「公家の出る幕ではない」ということでもあります。

従って、豊臣家は将軍(軍政の長)から摂津、河内、和泉の70万石の経済を任された大名ということで、加賀百万石の前田家よりも経済規模の小さな大名の一人です。

こう言う立場を豊臣家の中枢がどれだけ理解していたか…この辺りが怪しいですね。

正しく理解していたと思われるのは片桐且元でしょう。ついで、大野治長が理屈では理解していたと思われます。さらに、茶々の叔父二人・織田有楽斎、織田常信(信雄)は分かっていたはずです。にもかかわらず・・・茶々を説得できずにいました。茶々の頭にあるのは「軍政は仮の姿で、秀頼が成人すれば関白位に就き、政権が戻ってくる」という信仰です。敢えて『信仰』という言葉を使いましたが、信じ込んでしまった価値観、思想は理屈では説得できません。オームにしても、ISにしても、信仰というものは言葉では転向させることができません。

豊臣家が70万石の大名であるとすれば、当然のことながら幕府の命令に従わなくてはなりません。江戸に人質を送らなければならないのですが、家康はそれを要求していませんでした。

むしろ、孫の千姫を人質に出すという逆のことをしていました。家康からすれば、これは経過処置で、豊臣シンパの大名たちの牙を抜くまでの暫定処置だったと思われます。関ヶ原から14年、加藤清正が消え、浅野幸長も消え、上杉、毛利なども従順になった今、特別法を撤回するには十分すぎるほどの時間が経過したという認識だったでしょう。

方広寺鐘銘事件

有名すぎるほどの「言いがかり」ですから、皆さんも良くご存知だと思います。

国家安康 君臣豊楽の8文字ですね。家康の文字を「安」の字で分断している。豊臣が君として楽しむ…云々。理屈にならない、まさに屁理屈の典型ですが、家康にとってはどうでも良いことです。要するに「徳川に従うか、それとも逆らうのか」と言う最後通牒です。

その意味を正しく理解していた片桐且元は、必死の対応に出ます。「母子を説得するしかない」と言うのが対応策で、そのための時間稼ぎに駿府との間を走り回ります。が…、大阪では且元と逆の行動をしていた者がいます。織田有楽斎と常信の兄弟、つまり、茶々の叔父たちです。この二人には、家康から闇の司令が飛んでいたと思われます。「徳川の非をなじって断固反対を煽れ」と。この扇動に大野治長、大蔵卿母子が乗り、茶々が乗り、秀頼を戦争に走らせます。

「戦争をするかしないか、戦争して勝てるか否か、計算してから戦え」と言うのが孫子の兵法の基本中の基本で、この当時の人は誰でもわかっていたと思うのですが、そのことに全く配慮したらしい形跡がありませんねぇ。大阪城には、信玄譲りの軍学者を自称する小幡勘解由という、得体の知れぬ男も紛れ込んでいましたが、これにも家康の息が掛かっていました。

家康の手のひらに載せられた・・・というのが大阪城の悲劇でした。

もう一つ、片桐且元が家康から提示された条件は「転封」「茶々を江戸へ」「秀頼の江戸城登城」の三つですが、家康と且元の間では「or条件」つまりどれか一つ…ということでしたが、それを聞いた大蔵卿局は「and条件」…全部やれ・・・と茶々に伝えます。

家康にしてみれば、千姫を取り返すのがまず先決ですからOR条件でよかったはずです。急ぐ必要は、さしてありません。じわじわと…3条件を達成したらよいのです。

この辺りの行き違い、情報伝達の不正確さが豊臣家の命取りになりました。

九度山脱出

 通説…というか、真田十勇士を産みだした江戸期の作家は「策士・幸村」を演出するために、村民を騙す話をこしらえました。曰く、

「真田紐の商いで生活が潤った。ついては礼がしたい・・・」と村人を招待して宴会を開いた。

村人を酔い潰すほどに飲ませ、喰わせ、寝込んだ隙に村人の馬を奪い、一気に紀見峠を越えた。

・・・というものですが、これは村人をかばうための方便でしょう。

村人が囚人脱出の手助けをしたとなれば謀反で、代表者は磔・獄門です。浅野家も管理不行き届きで罰せられます。アンチ徳川の作者がそのような事実は書きません。村人も、浅野家も、騙された被害者にする必要があります。

事実は、村人が支援して峠越えをやったと思われます。浅野家は目をつぶります。

馬を提供します。女子供のために輿と担ぎ手を用意します。村人の何人かは幸村の家来として大阪城に入城しています。その証拠に真田丸の戦で活躍した紀州人がいます。大阪落城の折に、幸村の正室を守って九度山に逃げた紀州人など、数名の九度山村民の名が記録に残っています。

さもないと、女子供連れでの脱出など、できるはずがありません。真田紐の商いは、九度山村に大きな産業と利益を産んでいたとみるべきでしょうね。危ない橋を渡ってでも支援するには、相応の理由があったはずです。正義だ、人気だなどというものだけで、命がけの橋は渡りません。

浅野家にとっても厄介払いができます。見てみぬふりで見逃したと思いますね。真田に大阪城と呼応して、自分の領国で事件を起こされたら困ります。紀州は元々、雑賀孫市など地方豪族の連合体が治めていた国ですから、真田が彼らをまとめ上げ、更に、高野山の僧兵を糾合して一揆でも起されたら堪ったものではありません。お家取潰しになる恐れがあります。

九度山脱出劇は真田幸村、九度山・村民、浅野家のWin-Win作戦だったと思います。

この作戦は大成功で、浅野家は大阪の陣の後に和歌山30万石から、広島50万石に栄転しています。家康、秀忠を見事に騙しましたね。

浅野家が九度山を通じて真田と親しかった証拠は、大阪城の真田丸の正確な絵図が、浅野家に残っていたことです。軍事機密が伝達されるというのは、関係の親密さを窺わせます。

余談ついでに、この事実に気が付いたのが5代将軍綱吉の側御用人、柳沢吉保です。

「浅野はケシカラン、何とか取潰してやろう」と仕掛けたのが忠臣蔵です。浅野の分家・赤穂藩と吉良上野介を喧嘩させ、吉良の息子の上杉と、赤穂の本家・浅野家を喧嘩させ、両方取潰そうと画策しましたが、浅野も上杉も誘いに乗らず、不発に終わります。柳沢吉保の領地は奈良・大和郡山ですから、山一つ越えた九度山の情報、昔話は手に入ったと思われます。

更に余談で、広島カープ・・・リーグ優勝おめでとうございます。福島正則が建てた鯉城がカープの由来ですが、その城で浅野家が250年間生き残りました。野球はカープ、サッカーはサンフレッチェ(三本の矢=毛利)と、広島市民は歴史好きのようです。

秀頼は木偶(でく)の棒、独活(うど)の大木か

 歴史上で、この人ほど影の薄い人はいません。大坂の陣では反政府軍の総大将ですから、もっと華々しい活躍をさせても良いと思うのですが、どの作家もマザコンで、女好きで、優柔不断なダメ男としか書きません。大阪城が灰燼に帰してしまいましたから、秀頼の業績を探すにも手掛かりは全くありませんからねぇ。徳川幕府が作ったイメージを踏襲するばかりです。

遺伝子学的に…と言うか、常識的に、秀吉の子ではなさそうです。突然変異と言うものがありますが、相当に確率の低い現象で子は親に似ます。六尺を越える美丈夫と言われますから、秀吉とは似ても似つきません。織田家、浅井家の血が濃い…と贔屓目に見ても、似ていません。現代と違って試験管ベイビーなどありませんから、茶々さんはどうしたんでしょうか。

それはともかく、秀頼は母親・茶々の言いなりになっていたというのは作り話であったと思われます。徳川と戦う…と決めたのは秀頼の意志だったと思いますね。20歳過ぎた体力の充満した男が、母の言いつけに「ヘーヘー」と従っていたとは思えません。若気の至り、世間知らずで、猪突猛進したのだろうと思います。二代目経営者によくあるパターンとみます。

取巻きに煽られて、重役連の叱言に逆らう…。自己主張すると云う形で、勇ましい方向に舵を切ったと思います。大野治長の弟・治胤(道犬)などがけしかけていたのでしょう。若者たちの感覚では、外様大名は皆、豊臣の味方くらいの計算だったのでしょう。加藤、福島、浅野、蜂須賀などは当然で、徳川に虐められている外様大名たち、伊達、上杉、前田、毛利、島津、それに家康から疎んじられている越前松平まで味方だと思っていた節があります。経験の浅い者たちが机上の計算で突っ走る…良くある話です。ホリエモン、村上ファンドと同類でしょう。

だから、秀頼は木偶の棒でも、独活の大木でもなかったと思います。

馬に乗れぬほど肥えていた・・・とも言われています。が、それは晩年の家康のことで、20歳そこそこの若者が身動きできぬほど肥えていたとは想像できません。ともかく、徳川時代に書かれた豊臣に関する書物は全く信用できませんね。石田三成と、茶々と、秀頼は、悪人の代表として記述されます。豊臣バブルの印象を消し去らないと「我慢」「倹約」の徳川緊縮財政は維持できないのです。これは戦中の「欲しがりません」と一緒ですし、現代の北朝鮮も同様と思われます。

NHKドラマの筋書きが全く読めませんので、周辺の無駄話ばかり綴りました。

大阪城には信繁(幸村)のほかに、後藤又兵衛、伴団右衛門と言った豪傑や、長曾我部、毛利などの元大名も集まってきます。「俺が」「俺が」の組織社会のあぶれ者ばかりですから、軍議など開いても答えが出るはずがありません。幸村も苦労したでしょうね。

(次号に続く)