六文銭記 49 霧の道明寺

文聞亭笑一

ドラマはもう一回ありますから、「まだ幸村は死なない」という前提で今週号を書きます。

ネタ本を立ち読み…と本屋に出かけましたが、売り場から消えておりました(笑)もう終わりですから売れなかったんでしょうね。仕方ないので、夏の陣を時系列で追ってみます。

大阪城内の派閥抗争

夏の陣の開戦を控えて内部抗争をしている暇はないのですが、家康からは大坂方の分断を狙った誘いが続きます。家康にしても、孫娘の千姫を自身の野望の犠牲にするのは忍びないわけで、できれば平和裏に秀頼に大阪から退居してもらい、格式ある大名家として処遇することも選択肢にあったでしょう。

大坂方では、こういう誘いに「乗ろう」という意見と、「断固拒否」という意見に分かれます。

「乗る」派の中でも、①家康を信頼し単純に乗るという派と、②担保を要求する派に分かれます.

拒絶派も③聞く耳持たず、徹底抗戦派と④自分たちの身分保障を求める派に分かれます。

いずれにせよ、10万人近い大阪城の者たちが全員、食っていけるだけの条件は期待できません。

①は茶々、大蔵、大野治長など、大阪城の主流派です。

②は秀頼と木村長門などの側近に、多分・・・真田、長曾我部が参謀のような形で付いていたでしょう。

③は大野治房を筆頭に、城内若手と、圧倒的多数派の浪人たちです。大阪城を捨てて、小規模の大名となったら間違いなくリストラされ、路頭に迷う面々です。

④は後藤又兵衛、毛利勝永などの、死に花を咲かせようという面々です。徳川体制の下での大名家で、事務官僚として武家勤めの出来る面々ではありません。

それぞれの派閥が、それぞれを猜疑し、非難し合い、まとまりがありません。「真田密約説」「後藤裏切り説」などなどが飛び交う中で、大野治長が刺客に襲われ、重傷を負うという事件まで起きます。

夏の陣、開戦までのやり取り

大坂夏の陣に至る経過を時間軸で追ってみます。

1月  埋め立て終了直後から、大野治長が二の丸、三の丸の堀埋め立てを「約定違反」と抗議

家康の名代として本多正純がのらりくらりと「総堀と惣堀」の理屈を展開

2月  大野治房が浪人たちを使嗾して、二の丸、三の丸の堀を掘り返し始める

3/12 京都所司代より「大阪不穏」の報告

4/1  秀忠が「落人捕縛令」を出す。  大阪城周辺の取り締まり強化

4/3  家康が息子の結婚式を理由に名古屋へ出馬(旗本を従えた出陣でもある)

大阪に宛て「浪人退去要求」     ・・・秀頼これを拒否

大和郡山、または伊勢への国替え要求 ・・・秀頼、茶々の名で拒否

4/5  家康が全国の大名に出陣命令 大阪夏の陣の宣戦布告

この経過の中で注目すべきは、4月3日の「国替え要求」です。家康は悪党である…とすれば、甘い言葉で誘い出し、いずれ取潰すための経費削減策とも思えますが、この案には裏があるように思えます。

風雲急を察した京都東山の高台院(秀吉の正妻・寧々)が朝廷にも働きかけて、調停案を提示したのではないでしょうか。家名だけは存続するように…と言うもので、家康もやむを得ず条件提示したものと思います。国替え案は、秀頼からも「四国のいずれかに」という案を条件提示し、家康はそれを拒否して、上総・安房(千葉県)を提示しています。それが大和郡山(奈良)か、伊勢だというのですから、条件を緩めています。歴史にIFはありませんが、豊臣が生き残るラストチャンスでしたね。

この条件に乗るか、蹴るか…城内では相当揉めたでしょう。こういう話はごく限られた者だけで極秘裏に進めるものなのですが、どうやらジャジャ漏れだった節があります。大蔵卿から息子の治房、治胤に漏れ、治房が吹聴し反対運動を焚き付けてしまったのではないでしょうか。大蔵卿にしてみれば「息子たちは3人とも大名家の家老として出世できる、よかった、よかった」という感覚で漏らしたのでしょうが、治房は「大阪城労組の委員長」のような立場に祀り上げられていました。

減俸、転居命令、従業員大量解雇…こんな話に乗れるはずがありません。赤旗を振り回します。

ところで、国替え要求拒否の書面に、茶々までサインしているのはなぜでしょうか。

多分、茶々の方が先に拒否を決め、その書状を作らせ、条件交渉などを慎重に検討していた秀頼に無理矢理サインさせた・・・のではないかと推測します。秀頼、幸村、木村などはむしろ、浪人たちの監視の目をかいくぐって、いかに大阪から秀頼、千姫、茶々を脱出させるか…その方策を練っていたのではないかとも思えます。その脱出計画が「秀頼・薩摩落ち伝説」ではないかと思ったりもします。

茶々が拒否したのは、家康の提案の裏に寧々の匂いや、千姫の匂いを嗅ぎつけたからだと思います。

寧々や千姫の情けに頼って生きる・・・こんな事は誇り高き茶々には許せぬ事ではなかったでしょうか。

戦闘開始

大坂方は大野治房の部隊が、幸村、後藤などの制止を振り切り、まず先制攻撃を仕掛けます。

4月26日 大和郡山城に攻めかかります。

4月28日 大和郡山城落城。大野隊は城を確保せず、堺へ転進し、堺の街を焼き払いました。

 どうやら、国替えの対象になった城が目障りだったのでしょう。秀頼・幸村の未練を絶つつもり??

この攻撃で、真田幸村の「脱出計画・豊臣家名存続の望み」は消えました。「やるっきゃない」

4月29日 大野治房、塙団衛門らが和歌山口に向かいます。浅野勢を迎え撃ち、徳川勢の出鼻をくじくという計画ですが、幸村からは「決して先に手を出すな。浅野の動向を見定めよ」とアドバイスしてありました。浅野は大坂方の作戦が成功したら、寝返ってくれる可能性がある一人です。

  ところが…功を焦った塙団衛門の隊が先に手を出してしまいました。塙は討ち死に、そのあおりで崩れ立った大野勢は大阪城に逃げ帰ります。こういう…命令を聞かない跳ね返り者が出ると、作戦になりませんね。寄せ集め軍隊の弱みです。

  もっとも、冬の陣では、そのおかげで真田丸の大勝利になりました。おあいこです。

幸村や長曾我部、後藤、毛利、明石の浪人五人衆が立てた作戦は「家康の首一つ」がターゲットです。徳川体勢盤石に見えますが、やはり家康の存在感が大きく、家康が死ねば島津、毛利の関ヶ原負組、伊達、上杉などの外様、さらに福島、浅野、黒田、細川、前田などの外様有力大名の動向は分かりません。

作戦ターゲットは、奈良盆地から大阪平野に出る隘路(あいろ)、道明寺(どうみょうじ)の一点に絞ります。大坂方の情報網は、佐助などの活躍で家康が奈良経由の大和路に向かったことを掴んでいました。孫子の兵法でも「地形篇」というのは重要要素として取り上げていますが、戦国史に残る戦いの場所には共通点があります。

織田信長が今川の大軍を破った桶狭間、明智光秀が秀吉の大軍を待ち受けた山﨑、石田三成が家康軍を迎え撃った関が原・・・どれも狭い谷あいの土地で、いかなる大軍も横には展開できません。狭い谷を通ろうとする軍隊を、迎え撃ち、山上から攻撃するにはこの立地しかありません。

道明寺は、そういう点で「ここしかない」という場所です。北から生駒山系が迫り、南には葛城山系が続きます。その谷を大和川が流れ下ります。従って、この地に先着し、両側の山々に陣取れば敵の側面を強襲できます。幸村はこの地に家康本隊を誘い込み、今川義元の二の舞をさせてやろうと目論みました。

先陣は後藤又兵衛隊、続いて薄田隼人隊と毛利勝永隊、その後ろに真田隊が続きます。更に、谷を抜けてきた敵を掃討すべく、木村長門隊と長曾我部隊を若江方面に展開させます。

 この通りに展開したら…かなり面白い展開になったでしょうね。作戦としては完璧です。

 ところが…天は大坂方に味方してくれませんでした。

5月6日未明、大坂方は道明寺に向けて出陣します。後藤隊を先頭に粛々と道明寺へと向かうのですが、朝方になって大阪平野を濃霧が襲います。後藤隊はかろうじて道明寺の手前に達していましたが、薄田、毛利は道に迷い、真田隊も方向を失います。夜明け前には布陣を終える…という作戦は、霧の中で立ち往生してしまいました。

大坂方が情報網を駆使して敵の動きを把握していたのと同様、 徳川方も、伊賀者たちが大阪の動きを見張っています。「大坂方出撃」「主力は大和路に向かう」といった情報は、後藤隊が大阪城を出た直後から頻々と伝わっています。徳川方の水野隊は直ちに行動を開始し、先に道明寺口を抑えようと動きます。続いて伊達勢、越後松平勢が動きますが・・・この二隊、なぜか動きがスローでした。伊達と越後の松平忠輝は政宗の愛娘・いろは姫を通じて義理の親子です。どうやら、伊達政宗には思惑があったようですね。その意味では、大坂方にもチャンスが残っていたのですが…。

後続が来ないと知った後藤又兵衛は死を決意します。水野隊に突っ込んで大暴れ、相当かく乱しますが討ち死にしてしまいます。主将を失った後藤隊は逃げます。それを追った水野勢を見て、伊達勢が進出してきました。どうやら政宗は、真田を含めた大規模の待ち伏せを警戒していたようです。

徳川勢に勢いがついてしまっては、後続部隊も防げません。薄田隊も主将が討ち死にし、崩れます。

毛利隊も勢いに抗しきれません、退却します。ようやく追いついた真田隊が水野、伊達勢に突撃をして、勢いを止め、体勢を立て直しましたが、その時すでに若江方面で木村隊、長曾我部隊が敗戦し、木村長門が討ち死にしたとの情報が入ります。

真田幸村は戦場に孤立するのを避けて、大坂方の敗残兵をまとめ、茶臼山まで退却するしかありませんでした。ここで体制を整えます。乾坤(けんこん)一擲(いってき)、最後の突撃に賭けます。

お梅

このころの時間帯か、それとも・・・もう少し後か、・・・長刀を小脇に抱え、武装した女が一人、従者に守られて騎馬姿で伊達政宗の重鎮・片倉小十郎の陣を訪れます。戦場ですから、斬り殺されても不思議ではありませんが、堂々としていて「淀君か千姫の使者か」と、誰も手を出さなかったようです。

真田幸村の二女、お梅です。事前に話が通っていたのか、それとも幸村の奇策か、「戦が始まったら父からこちらに参るように言われておりました」としか言いません。勿論、片倉小十郎と面識があったわけではないでしょう。「父とは誰か」語りません。ともかく、片倉小十郎の陣にとどめ置かれます。

戦後、このことは家康、秀忠の知るところとなり伊達家は詮議を受けますが「戦場にて乱取り(強姦)した女」と言い張って追及を避け、ほとぼりが冷めるまで下女にしたうえで、梅を後妻に迎えています。妻の身寄りと称して次男の大八や、娘たちも迎え入れます。こうなると・・・真田・伊達密約説もありそうな話に思えますねぇ。幸村ファンなら、道明寺作戦が成功していたら…などという「IF」を想いますね。

この頃、既に真田幸村には「日本一の兵(つわもの)」という評判が立っていましたから、そのご落胤というか、血統には人気が高かったと思います。女でもありますから、将軍も目をつぶったのでしょう。

大八も一時、真田を名乗りますが、幕府の詮議を受け、片倉に戻しています。

(次号に続く)