六文銭記 43 真田丸

文聞亭笑一

いよいよ・・・ですね。真田丸での攻防が始まります。

今度こそ本格的な戦闘シーンが見たいものです。上田城攻防戦、関が原の何れも肩透かしを食った感じですので、ラストチャンスとして期待しております。

両軍の布陣

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言葉で説明するより、絵の方が分かりやすいと思います。文字が小さくて申し訳ありませんが、紙面上これで精一杯です。

真田丸の位置ですが、大阪城惣堀の外側、平野口の南側に当たります。真田丸の辺りと、少し南側に池と小高い山がありますね。この配置が絶妙で、よくぞこういう場所を見つけたものだと感心します。多分、大阪城にいた14年前に、遠乗りなどでこの辺りの地形探索はしていたのでしょう。父・昌幸の遺言に書かれていたのかもしれません。さもないと、僅かな期間にあれだけの陣地の土木工事ができるはずがありません。

徳川方の本陣は城の南です。ここに本陣を置くのは当然で、大阪城の全体を見渡せる場所はここしかありません。それ以外の三方はいずれも湿地帯で、大阪城を見上げるような立地になります。

家康が茶臼山、秀忠が岡山に陣取りますが、家康の陣取った茶臼山の方が標高が高いですから、秀忠の意気込み、将軍という地位などのタテマエとはかかわりなく、作戦の主導権は家康が執っていたのでしょう。

その前衛に伊達と前田の名が見えます。一種の「踏絵」でしょうね。マジメにやるかどうかを後ろから徳川の親衛隊が睨んでいる陣形です。同じく前衛に松平忠直の名があります。家康の次男・結城秀康の子ですから家康の孫に当たります。井伊直孝も徳川四天王・井伊直政の息子で、前田利常を含めて20代の血気盛んな者たちを、真田丸の前面に揃えてしまったことが、家康の誤算であり、大失敗でした。

真田信幸の子・信吉、信政の陣は右上、平野川の外にあります。舟を使わないと大阪城に近づけませんから、手柄には縁遠いですが、安全な場所ですね。

大坂方では、長曾我部、木村重成、明石全登などが真田丸を支援する位置にいます。言ってみればこの辺りが大坂方の主力でしょうね。毛利勝永は北の守り、後藤又兵衛は友軍として本丸の近くに陣取っています。この位置に後藤を置くことで「秀頼の親衛隊長」という又兵衛の名誉心をくすぐったのでしょうね。

真田丸の築城工事

幸村の九度山脱出が10月9日で、真田丸の戦が始まったのは12月4日です。大坂方は主導権争いや出陣か、籠城かなどの軍議でモタモタしていますから、築城作業に掛かったのは早くて10月中旬ですね。ですから、工事期間は40日程度しかありません。しかも、重機などありませんからすべてが手作業です。大阪の市民、農民などが使えたとも思えません。彼らは戦となれば難を避けて逃散してしまいます。幸村の預かった手勢、5千人ほどでの手堀の工事だったと思われます。

下の図が広島浅野家に伝わる真田丸の絵図です。

三方が崖になっています。

南側に灰色に塗った部分がありますが、これが急造した空堀で、その内側に掘った土を運び上げて土塁を構築したのでしょう。

2m掘れば、それを積み上げた土塁が2mになりますから、合わせて4m

これだけでも随分高さがあります。が、その程度ではなかったようです。空堀の底から真田丸の城壁の上までは10m以上の高さがあったようです。この辺りは、工事の前は畑作地だったようですから、比較的工事がやりやすい地質だったかもしれません。

それにしても突貫工事です。よくやりましたねぇ。土の壁を作るだけでなく、逆茂木を植え、塀を立て、鉄砲陣地を作り、仮陣屋、物見やぐらまで建ててしまいますから大工事です。

真田丸の大きさですが、通説で言われていた丸馬出ではなかったことが、最近の調査で判明しています。浅野家文書にある通り、明らかな出城で、南北220m、東西140mとかなり大きいですねぇ。400mトラックを持つスタンド付き陸上競技場くらいなイメージでしょうか。

いや、甲子園球場を外から攻めるイメージかもしれません。

大阪城との距離は地図からの目分量で150m弱とみます。掘りあげた土で、この間に連絡通路のようなものも作っていたようです。

攻防戦

仕掛けたのは真田です。1pの図のある篠山に小部隊を出し、前田軍の前衛にちょっかいをかけ、「意気地なし」などと前田家が過去に家康に屈服したことをからかって囃し立てます。挑発します。これに若い利常が腹を立て、篠山に攻めかかります。が、もぬけの殻。益々腹を立てて、早暁に空堀に入り、夜陰に紛れて崖をよじ登り始めます。

これは幸村の読み通り、気づかぬふりをして敵勢が空堀に充満するのを待ち、一斉に攻撃を始めます。阿鼻叫喚というのはこう言う惨状を言うんでしょうね。上から降ってくる丸太、岩石、鉄砲玉で死骸の山を築きます。堀の中の狭いスペースですから逃げ場がありません。アウシュビッツのガス室に似たようなものです。空堀の対岸にいた兵士たちも同様で、温泉場の射的場に並んだ的のように、真田丸の射撃訓練の的にされてしまいます。前田軍は数千の死傷者を出します。

この戦闘を聞きつけた井伊直孝の軍勢が駆けつけます。井伊家は軍監、つまり軍規の監督役なのですから、命令違反で攻めかかった前田を退却させなくてはいけないのですが、直孝が若いだけに前田軍と一緒になって真田丸に攻めかかってしまいました。益々犠牲者が増えます。

この時、大坂方にもハプニングが起こります。火薬を輸送中の兵士が誤って大爆発を起こしてしまいます。これを徳川方が城内寝返りの合図と勘違いします。

実は、大坂方に参加していた南条何某と言うものが寝返って、平野口の城門を爆破するという約束がありました。この合図と勘違いしたのです。南条はその前日に裏切りがバレて処刑されていました。越前松平、寺沢、藤堂などの前衛隊がこぞって平野口に殺到します。これで益々被害を大きくしました。大阪城と真田丸の中間に兵が充満したところを両側から鉄砲が撃ち下ろします。大混乱を起こしたところに、真田大助が率いる5百の兵が真田丸から討って出て、斬りたてます。そして引き揚げると、それを追いかけて、また徳川の兵が射程圏内に溢れます。両側からの狙撃の餌食です。

戦記物は誇張が多いですが…、それでも徳川方には数千人の死者が出たようですね。

これにダムの放流があれば、上田合戦のデッドコピーですが、大阪にダムはありません。

「やめろ、やめろ」「退け、退け」家康本陣からの必死の司令で徳川軍は退却しますが、真田丸の周りは死骸で埋まったようです。若気の至り…前田利常、井伊直孝、松平忠直の3人は家康から大目玉を食います。テレビでは、どう描写するでしょうか。

(次号に続く)