六文銭記 42 安保に似て

文聞亭笑一

今週もだいぶスローペースで進みました。入城して秀頼と茶々に挨拶するところまででしたね。

大阪城の主流派との確執は今週のようです。その確執の原因を戦術論ではなく、戦略論として課題提起したところが面白いと思いました。幸村の献策か、他の者の献策かはわかりませんが、

「堺を抑えよ」

「大阪の大名屋敷を襲え」

という戦略は、実に重要です。堺は軍需物資の集積地です。そして、兵糧というのは現物でないと意味がありません。金が有り余っていても「米」という現物がなければ取引できませんからね。戦争経済というか、軍需物資の確保は戦争の決め手として実に重要で、太平洋戦争でも物量の不足で日本軍は追い詰められていきました。現代でも「経済封鎖」という名で、ISや北朝鮮のような、ならず者国家を追いこんでいくのが戦略面での常套手段になっています。

軍需物資・・・まずは食料です。籠城戦となれば10万人の兵士が食う米は一日一人一合としても、10万合=1万升=1千斗、=250俵近い米が消費されます。流通しているのは籾(もみ)(殻付の米)ですから精米すると7割から6割に減量します。エイヤ…と三百俵ですね。これが一日で消費されます。少なくとも百日は籠城しなくてはなりませんから三万俵は必要です。そういう点に気づいていたのかどうか、秀頼の経済官僚たちに平時と戦時の切り替えができていたのかどうか、三谷脚本は実に本質的なところをついています。

籠城戦というのは「援軍が来る」か、「攻撃側に大きな事件が発生する」以外に勝ち目はありません。軍需物資が尽きれば・・・野垂れ死、餓死するだけです。

秀頼の大阪城に援軍が来る可能性はゼロです。もう一つの事件の可能性は、外様大名の裏切りです。伊達、上杉、前田などの裏切りがあれば情勢に大きな展開が開けます。従って、長期籠城で攻撃側の疲労を待つしかありません。事実、幕府軍は20万の軍勢ですから、大坂方の二倍の兵糧を必要とします。長期戦はやりたくないでしょう。

次いで、武器弾薬です。とりわけ銃弾用の火薬と鉛ですね。もっと言えば、輸入に頼っていた火薬の原料の硝石です。硝石の輸入と、火薬への加工を担っていたのは堺の港です。従って堺を抑えるということは、何にも増して優先される戦略でした。

秀吉が「大阪城は難攻不落」と豪語していたのはまさにそのことで、全国の米はすべて大阪に集中させていました。武器の供給源・堺はしっかりと掌中にしていました。こういう戦略レベルのことを、大野以下の大阪城の官僚が分かっていたのかどうか、はなはだ怪しいですね。

やや先走りますが、冬の陣の後で大坂方が和議に応じたのは、軍需物資の不足、枯渇が原因かもしれません。10万人での籠城というのは経済的に無理な話です。幸村や又兵衛が城外野戦を主張したのは、そういう戦争経済の観点からだったようにも思います。

もう一つ、今回の放送で「?」と思ったのは情報スピードの話です。我々現代人は電波の利用で地球の裏側の話までリアルタイムで知ることができますが、大阪の陣の当時に家康の居る駿府と大阪の情報伝達には2日はかかったと思われます。家康が浅野に「九度山の監視を厳重にせよ」と指令しても、行動に移るのは早くて二日後です。浅野の家臣が訪ねてくるのも、忍者・服部半蔵が真田の宿所に忍び込むのも、ちょっと早すぎましたね(笑)物語としては緊迫感、スリルがあって面白いですけれど、情報の時差だけはなんとも仕方がありません。

信之の病気

信之が病気で寝込んだというストーリーでしたが、これは出陣命令を受け取ってからか、それとも事前に幸村からの知らせかで、大阪の異変を知ってからの仮病だと思います。

というのは,信之は健康優良爺で92歳までの長寿を全うしています。心臓、肺、消化器などの内臓疾患や、脳障害などがあったら、そこまでは生きられません。多分、40肩程度であったと思われます。あるいは心労による軽い神経障害程度でしょう。寝込むほどの事ではありません。

むしろ、最も気を使ったのは配下の者たちの脱藩でしょうね。幸村が大阪城に入ったと知って、藩士の立場にいた者、郷士(在郷軍人)の立場の者、藩内のあぶれ物などが大阪に向けて旅立って行ったでしょう。とりわけ、幸村が秀吉から与えられていた1,9万石の支配地の者たちの脱藩、大阪行きに神経を使ったと思います。こう言う内政面の複雑な思い、人情の機微は息子たちには任せられません。

事実、戦後のことですが「真田信之は幸村と内通していた」と本多正純から嫌疑をかけられて、その弁明に苦慮しています。脱藩した藩士、郷士、村人の数は半端な数ではなかったようですからね。一説では数百人に及んだと言います。堀田作兵衛はじめ、名の知れた藩士も数多くいます。根津甚八、穴山小助、望月六郎など、いわゆる十勇士の何人かも、この時に脱藩した者たちだとも言われています。

外様・大阪屋敷の犠牲者

歴史書には書かれていませんが、幸村の献策によって大名の蔵屋敷は一斉手入れを受けたと思われます。江戸幕府ができて、米の流通経路が変わったとはいえ、まだまだ米の集積地は大阪でした。とりわけ中国、四国の大名たちの米は大阪に集められ、そこで換金されて江戸や国元に送金されるという金融の流れでした。これは江戸末期まで続きますから金融市場としての大阪の存在感は大きかったと思います。なにせ江戸時代というのは米本位制ですからね。

その米が奪われる・・・となれば責任問題です。福島正則のように、大阪蔵屋敷の責任者が積極的に大坂方に協力してしまい、自らも大坂方についてしまえば謀反を疑われますが、黒田長政、池田輝政のような関が原の功臣までもが疑われて、大阪の陣から外され、江戸留守居に回されています。大阪の責任者や担当者は「お家を守るため」詰め腹を切らされたと思いますね。

とりわけ黒田長政の場合は、家老であった後藤又兵衛が大坂方の大将として活躍しますから、苦しい立場だったと思います。

家康の思惑と困惑

家康の狙いが不満分子の大掃除であったことは確実でしょう。まずは各地の大名に動員令を発し、参陣の状況(兵員数、参陣速度)などで大名家の忠誠度を計ります。

次に、各藩からの脱藩者や、大阪へ駆けつけた不満分子の動向を調べます。どのレベルの者がどの程度の人数を連れて大阪に馳せ参じたか…これで各大名家の豊臣への態度を知ろうとします。ですから徳川の諜報要員は全国に散り、人の動きを監視していたでしょう。伊賀者の元締め・服部半蔵や、柳生などの隠密部隊は大忙しだったと思われます。勿論、堺などの物流拠点には大勢の忍びが入り込み、大阪城への物資の流入状況を調査させていたでしょう。大阪城の兵糧、武器弾薬の量などはかなり正確に把握していたと思われます。

そういう下準備、調査がありますから、家康はゆるゆると行軍し、名古屋城で息子・家直の結婚式など開いています。急ぐ必要など全くなく、大坂方の手の内を十分に把握してからでいいのです。大阪に入城する不満分子は多ければ多いほど良い、一人残らず大掃除するつもりです。

が、将軍の秀忠が急ぎに急ぎ、家康を追い越して先に進んでしまいます。秀忠にしてみれば、関ヶ原の折の遅参という大失敗がありましたからねぇ。これがトラウマとなって、必要以上に焦っていたと思われます。家康にとっては思惑外れで、またしても「バカ息子め」と舌打ちしたことでしょう。使者を飛ばして追いかけさせ「俺が参陣するまで戦はするな」と念押ししています。

もう一つの懸念材料は秀頼に嫁いでいる千姫の救出です。大軍による包囲で威嚇して、和議に持ち込み秀頼、千姫、淀君などを脱出させることも考えていたと思います。勿論、大蔵卿や治長などの大野一族も抱き込む工作です。これをするために織田有楽斎、織田常真や、千姫付の柳生一族を大阪に潜り込ませていたのです。

大坂の陣と60年安保

この項を書きながら、ふと60年安保闘争を思い出しました。・・・似ている・・・と思いました。

大坂の陣は関が原から14年後です。安保闘争は終戦から15年後です。いや、闘争が盛り上がり始めたのは14年後からです。大戦争から15年というのは人間社会に何か共通点がありはしないか…などと余計なことを考えました。

戦争の傷は癒えてきています。戦争に参加した世代は落ち着きを取り戻し、生活再建に必死ですが、その息子世代は自由な活躍の場を求めます。

経済は復興景気に沸いて、商工業を中心に活気を帯びてきます。「成り金」と呼ばれる富裕層が生まれ、都市部中心に集まります。都市と地方の格差が広がって、地方に不満が貯まります。

江戸幕府の創成期も似ていました。江戸には仕事が「これでもか」というほどあります。新しい首都を開発するのですから、土木建築関係はまさにバブル景気でした。ハコモノを次々と建設しますから、産業のすそ野は広く、好循環に恵まれ、あらゆる業界が好景気に浮かれていたと思われます。知恵があって、手に匠の技があれば、活躍の場は至る所にありました。

一方、農民や武士たちにとっては失業状態です。年貢(税金)は、度重なる天下普請で増税、増税の嵐です。戦争が無くなって命の危険はなくなりましたが、生活は困窮するばかりだったでしょう。不満が爆発しますね。60年安保では若者たちが東京に押し寄せ、赤旗を振って警官隊と衝突しましたが、真田丸の時代は大阪城に集結しました。安保はプラカードと警棒での殴り合いでしたが、大阪の陣では鉄砲、刀槍での殺し合いです。乱暴さのレベルが違います。

安保の頃、私は高校生でした。大阪に出陣する真田信之の息子たち・信吉も信政も同じ年齢ですねぇ。真田丸で信繁(幸村)に翻弄される前田利常、松平忠直、井伊直孝なども同世代です。彼らにとって大阪に陣は学生運動のようなものだったか…と、自分に置き換えて苦笑いします。

真田丸の戦では、彼らの若気の至り…を幸村が手玉に取ったのかもしれません。

(次号に続く)