六文銭記44 真田の赤備え

文聞亭笑一

先週は「いよいよか…」と張り切り過ぎて一回分フライングしてしまいましたね。よく考えてみれば、まだ7回もありますからスローペースで進むでしょう。大阪城内のゴタゴタ、家康の思惑、信之の心配事など・・・、更には幸村の家族のことなど、戦国ホームドラマで描かなくてはならないことが山積みです。

ここからは後追いで行った方が良いかもしれませんねぇ。

織田有楽斎

先週から織田有楽斎が出てきました。井上順のニヤケ顔では少々イメージに合いませんが、有楽は織田家の生き残りとして豊臣・徳川の間で暗躍します。兄の常信入道(織田信雄)と共に、茶々を陰に陽に、誘導していきます。

有楽斎にしてみれば、兄・信長が手に入れた天下を秀吉に簒奪(さんだつ)され、窓際族に追いやられていたものが復活、織田家再興のチャンス到来です。姪の茶々が握っている豊臣の地位、利権を最大限利用して、織田家が「別格大名」として徳川政権の中で重きをなす存在になろうと画策します。

織田家・・・、秀吉政権下で一時期は清州百万石の太守だったものが、北条征伐後の転勤拒否で、5万石程度の捨扶持の身分に格下げになりました。捨扶持というのは一代限りで、子孫に受け継がせることはできません。なんとかして永続可能な大名に復活し、あわよくば豊臣家を乗っ取って大大名に復活することを狙っていました。

そのためには…大阪城が難攻不落であることを家康に知らしめ、頃合いを見計らって和睦する道を選びます。そのプランで行けば・・・

先ずは籠城。仕掛けてくる徳川勢を各個撃破することです。難攻不落を思い知らせる。

次に和睦交渉。大阪城を退去する代わりに秀頼に50万石、自分にも50万石程度を要求する策略ですね。50+50でなくとも、20+20でも良いと考えていたでしょう。秀頼や茶々は交渉の道具であって、豊臣が潰れても一向に構いません。兄・信長の残した資産を取り返したいのです。それは常信入道(織田信雄)も同じ穴の狢(むじな)だったでしょう。

この策略・・・途中までは成功します。冬の陣の後の和睦です。が、思惑が外れたのは茶々が大阪退去を受け入れず、自分自身が逃げ出すしかなくなったことです。

それは後の話として、ドラマに出て来ない余話を書いておきます。

織田常信(信雄)は有楽斎と同心しています。大阪の陣では上手く逃げ出して、戦後5万石の大名になりました。碌高は少ないですが、「別格」として大大名並みの待遇を受けます。領地は、山形県の天童。天童は将棋の駒で有名ですが、これは財政難に陥った織田藩武士の内職仕事でした。この種のアルバイトで何とか江戸時代を乗り切り、明治維新まで天童2万石の大名で残ります。

その子孫・・・末裔が、フィギャースケートの織田信成選手です。

織田有楽斎の方も何とか生き残り、茶人、数寄者として名を残します。

東京の中心・有楽町は織田有楽斎の屋敷のあった跡地です。

有楽町、数寄屋橋・・・遊び人有楽にあやかった地名が残ります。その意味で有楽斎は江戸期の人気者、芸能人だったのかもしれません。

そう考えれば井上順もミスキャストとは言えないかもしれませんね(笑)

木村重成(長門守)

大坂方にはいろいろな元・武将が混在しています。先週の放送で、彼らの「想い」を語らせましたが、後藤又兵衛同様に「死に場所を求めてやってきた」者たちが随分といました。勝ち負けはどうでも良い、名を残す、カッコよく死ぬという思いの持ち主ですから、テロリストですねぇ。こういう連中が大将格でいますから、幸村のように「勝つんだ!」という深慮遠謀の戦略は嫌われます。

塙団衛門などもその一人ですし、大阪城に集まった10万人のうち、1割はそのタイプではなかったでしょうか。「浪人して細々と生き延びるくらいなら、カッコよく死んだ方がマシ」という厭世(えんせい)観(かん)の持ち主です。

薄田隼人正などもその一人で、城外の砦を任されるほどに能力のある人でしたが、冬の陣の最中に、砦が攻撃される直前に遊女屋に出かけていて、指揮が採れなかったという逸話を残しました。彼のことを「橙武者」と呼んで敵味方ともにバカにしました。ダイダイは「飾り物にはなるが食えぬ、役に立たぬ」という意味です。このタイプ・・・今でもいます。現役の皆さんはダイダイ社員とか、ダイダイ部長とか言われないように…、せいぜいおきばりやす(笑)

さて、主題の木村重成は、大阪城の女性たちから絶大な人気のイケメンだったようですね。キムタクみたいなものでしょうか。秀頼の小姓頭ですから、親衛隊の隊長です。

彼の父・木村常陸介は豊臣秀次の筆頭家老でした。秀吉と秀次の確執の中で処刑されています。にもかかわらず、秀頼の側近No1になったということは、秀吉も自らの間違いを詫びる意味で子供の頃から目を掛けていたのでしょう。彼が豊臣家の中枢にいながらも、結局は大蔵卿の息子・大野三兄弟(治長・治房・治胤)が主導権を握ります。所詮は母の意見に逆らえなかった秀頼の弱さでしょうね。

女は弱し、されど母は強し…と言いますが、強すぎる母は息子をダメにします。

現代の母親は、多かれ少なかれ淀君・茶々的で、マザコン男を量産しています。可愛い子には旅をさせよ・・・こう言う教訓は死語に近くなりましたかねぇ。

真田の赤備え

幸村の預かった5千人は真田丸の普請に没頭しています。長曾我部盛親の預かった兵も協力したようで、最大1万人、近在の百姓も高額日当で動員したでしょう。僅か、ひと月弱で砦の形を仕上げますから、相当卓越した土木技術者が采配を振るったと思われます。棟梁は多分、上田から脱藩してきた者の誰かでしょうね。

真田丸と真田の赤備えはセットで語られます。しかし、不思議です。わずか1か月、いや2か月あったとしても、鎧兜の製造が間に合ったのでしょうか。当時の工業はすべて手作業です。結論から言って無理ですね。5000領もの鎧を一か月で製造することはできません。しかし、軍記物では「真田丸は赤備えで埋まっていた」と記します。誇張にしても・・・千領近い鎧兜が揃ったのでしょう。

どうしたらそれが実現できるのか。ここが文聞亭の技術屋根性です。考えます。

現代なら、赤のスプレーを買って来て吹き付けます。ペンキを塗ります。が、当時はそういう便利な物はありません。当時の塗料は膠(にかわ)です。赤色を出すのは紅花(べにばな)か茜(あかね)です。これらの染料を膠に混ぜて中古品の鎧兜に塗るしか方法はなかったでしょう。

膠…漆(うるし)のことです。漆は大半の人がカブレます。しっかりと乾燥していればまだしも、反乾きの状態だったら体中が痒くなり、アレルギー体質の人はショック死するかもしれません。漆のカブレはひどいですからねぇ。戦争などしている余裕はありません。

それが可能になったということは・・・幸村は九度山にいる間に、赤備えの鎧兜を注文していたということになります。カブレ成分が蒸発してしまった古い膠を大量に準備させていたと推察できます。真田の軍備を担ったのは堺の商人・何某ですが、真田紐の商いの元締めの男であったと、小説家たちは書きます。ありうる話でしょう。徳川勢に包囲される前に、大阪城に納入されたのでしょう。

赤備えのルーツは武田信玄です。武田家の重鎮、山県昌景が日本初の赤備え軍団を編成しました。信玄が三方ヶ原で家康と戦った折、武田の赤備えは目覚ましい働きをしました。家康は逃げるのに必死で、失禁してしまうほどの恐怖を味わったと言います。

幸村が戦闘具を赤で揃えたのは、一つは家康に対する脅し、示威でしょう。

もう一つは味方の結束です。部下たちの逃げ場を封じるためです。赤軍団、目立ちます。真田であることは一目瞭然、情勢が「ヤバい」と逃げ出そうにも真田兵であることは隠しようがありません。従って、味方同士が固まって、敵に突き進むしかありません。

戦国の戦は、敵味方が伯仲した接近戦になると、敵か味方かわかりません。普通は腕に目印をつけます。合言葉を決めます。忠臣蔵に出てくる「山」「川」のようにサインで確認して同士討ちを避けますが、赤軍団にはその必要がありません。敵から見たら赤いのは敵なのです。真田兵からすれば赤いのは味方です。赤い集団の中にいれば安全ですが、集団から離れたらアウト。そうなれば集団活動になりますねぇ。抜け駆けなどはしません。指揮官の采配通りに動くしかないのです。

よく考えましたねぇ。戦争をスポーツ化してはいけませんが、野球やラグビーなどの団体競技ではユニホームを揃えます。それにイメージを植えこみます。これが、相手にプレッシャーを与えます。ゲートボールなどのマイナーな競技でも、相手が揃いのユニホームですと「強そうだな」と腰が引けます。そうすると作戦が委縮して、相手の罠にはまりやすいのです。

赤ヘル軍団・・・今年は日本一になれませんでしたが、赤備えの後継者でしょう。

真田丸の赤備えは井伊家に伝わり、江戸期は「井伊の赤備え」として勇名を馳せました。その井伊家が来年の大河ドラマの主役のようです。主役は井伊直虎・・・強そうな名前ですが、女です。戦乱で男が死に絶えて、仕方なしに一門を率いて戦った女丈夫の物語のようですねぇ。今から関連情報の仕入れにかかっております。

真田信尹(のぶただ)が再登場か?

真田昌幸の弟・信尹が家康の密命を受けて幸村の説得に掛かります。家康としては六文銭とは戦いたくありません。三方が原、上田での一次、二次合戦と三連敗中です。苦手意識というか、相性が悪いのです。「信濃で10万石」を餌に説得に掛からせます。

幸村は鼻先でせせら笑ったと…軍記物は書きますが、本当なら…幸村にとっては魅力的な提案だったでしょうね。だだ、空手形ということは重々承知ですから、請けません。

信尹は、一旦は徳川の旗本になりますが、家康のケチさに愛想を尽かし、浪人して会津の蒲生氏郷に仕えます。氏郷が亡くなって、また浪人し、徳川に再入社します。結局は大名になれず、甲斐に3千石をもらって、旗本家として87歳まで生きました。真田の系統は長生きですねぇ。

「叔父上、ご自身も家康に騙されたのではないですか」が、幸村の返事だったでしょう。

真田ばかりではなく、籠城の諸将にはいろいろな誘惑、勧誘が届けられていました。

(次号に続く)