六文銭記 45 日本一の兵(つわもの)

文聞亭笑一

六文銭記は何度もフライングを繰り返しましたが、いよいよ戦闘開始です。真田丸の攻防戦を三谷脚本は「完封」とタイトルをつけました。そうです。真田丸の誘いに乗った徳川勢は、物の見事に完封されました。家康も言い訳のしようがありません。完封され、完敗です。上田での第一次、第二次に続き三連敗・・・なんとも腹立たしい負けですねぇ。家康にしてみれば、四連敗の気持ちであったかもしれません。

家康が今川から独立して、織田信長の支援を受けて浜松に居を移し、東海の雄として「さぁ、これから」という時に武田信玄の上洛作戦が始まります。長篠、二股と国境の城が落とされ、浜松城を無視した武田軍は、浜松の目と鼻の先である三方が原を悠々と西上して行きます。これに腹を立てた家康は討って出るのですが、それを誘い込んで完膚なきまでに叩きつけたのが「信玄の目」と言われた武藤喜兵衛の作戦です。そうです、武藤喜兵衛とは、その後の長篠の戦で真田の家を継ぐ兄たちが死んでしまったために、真田の家を継いだ真田昌幸のことです。

そう考えると四連敗になります。なんとも、腹立たしいでしょうね。

しかし、それを心の中に封じ込めて、幸村に「日本一の兵」との称号を与え、真田の命脈を明治まで残したのは家康の度量でしょう。勿論、「忠義」と言う価値観を根付かせるために政治的に使ったものですが、実のところは「八つ裂きにして、火あぶりにしてやりたい」ほどの・・・遺恨だったと思います。

人生は重い荷を背負いて坂道を上るが如し

家康の遺訓と伝わるものには「忍耐」の文字が随所に残ります。この我慢強さ、自己制御、並の者には至難の業です。徳川260年を支えた、神君と呼ばれるにふさわしい人物であったと思います。

昨今の経営者、政治家には、これが消えましたねぇ。我々の世代では一時期、山岡荘八の「徳川家康」が、経営者の必須教科書になりましたが、「ゴーン」と鐘が鳴って以来は全く顧みられません。即物的、功利的、効率の世界にどっぷり浸かっています。ついでに経営者の賃金ばかりが上がって、格差を広げる方向に走り、下々の「改善活動」「提案活動」が無視されるようになりました。これでは労働者も「何でも反対」と抵抗主義に走るでしょうね。それが現在の民進党でしょう。外国人雇われ経営者に対する報酬は常軌を逸しています。

家康は、今回の物語では悪玉ですが、昭和の日本の高度成長を実現させたのは家康かもしれません。

「欲しがりません 勝つまでは」「昨日より今日、今日より明日は良い日にしよう。それには我慢、我慢」これは家康的な標語なのです。そういう世代の我々には、栗金団(クリントン)と花札(トランプ)の争いなどは今後の参考にしてほしくないですねぇ。日本の政治家に真似をしてほしくありません。

余計なことを書いていてはいけませんね。スペースを無駄遣いします。

木津川口の戦

冬の陣は、まず11月19日の木津川口の戦から始まります。皆さんには、できれば#43で紹介した布陣図を見てほしいのですが、大阪城の西側(左側)に水路で囲まれた島があります。現在の大阪の中心、中の島、船場から心斎橋、難波に亙る大阪の中心部ですが、ここには大坂方の薄田隼人正を指揮官とする兵たちが陣地を構えて守っていました。いわば前線基地です。

徳川軍はそれよりも西側に陣取っていたのですが、ここで徳川軍側に先陣争いが起きます。姫路の池田と、徳島の蜂須賀、この池田輝政の2世、蜂須賀小六の3世の若者たちが功を競います。どちらも徳川家とは縁戚で家康の孫に当たる連中です。「軍令違反をしても、結果が良ければ爺ちゃんは許してくれるだろう」と言った感じで、豊臣陣に夜襲をかけます。先ずは池田が、遅れじと蜂須賀が続き、無許可の戦争を始めます。

こういう場合は、たいてい失敗するのですが、「布陣が終わるまでは仕掛けて来ない」と高をくくっていた大坂方指揮官の薄田は、砦の外の遊郭で女と寝ていました。攻撃を受けた豊臣方には司令官がいません。砦に依って籠城戦をすればどうということはなかったのですが、寄せ集めの浪人ですから大混乱を起こし、大阪城内へと逃げ戻ってしまいます。あっけなく、島全体・・・御堂筋…が徳川軍に占領されてしまいました。占領された後が、#43の布陣図です。

これは戦略的に豊臣方の大失敗です。木津川口を抑えられてしまっては、堺をはじめとする各地からの物流が遮断されてしまいます。城内に備蓄する兵糧、弾薬だけで戦うしかなくなりました。

真田丸の攻防

真田丸に何人の、どういう人たちが詰めていたのか、私にはすごく興味のあることなのですが、史料がありません。「浪人者」としか書いてありませんが、長曾我部の兵の半数近くがいたという資料があります。中心になるのは、堀田佐久兵衛や十勇士に名の上がる海野、根津、望月などの旧上田兵で、それに加えて改易になった深志、安曇の石川家の残党などの信濃兵だったでしょう。火薬の爆発事故で元・北安曇1,5万石の大名・石川康勝が負傷したとありますから、信濃兵で1千人弱でしょう。それに、大幅減俸になった上杉の残党、蒲生の残党など東国兵が中心に3千弱でしょうか。土佐兵と合わせて5千ほどだと思われます。

私の経験からすると、土佐の海坊主と中部山岳地帯の山猿・・・意外に気が合うのです。それに良いリーダがつけば、意外な力を発揮します。共に縄文人の血が濃いですからねぇ。戦いには強くなります。

11月1日、将軍秀忠が前線を視察します。真田丸の陣立てを見て、「指示があるまでは決して攻撃するな」と娘婿の前田利常に厳命します。利常は秀忠の二女・珠姫を嫁にもらっています。

11月2日、前田軍の前にある小橋山に真田軍が現れ、前田軍に鉄砲を撃ちかけ挑発します。

11月3日も真田兵が現れ、鉄砲だけでなく、悪口雑言で、先代利長以来の前田の弱腰を非難します。これをやったのは真田の猿飛、霧隠といった乱破部隊でしょうね。動きが素早くないとできない巧妙で迅速な進退です。小橋山、篠山など、前田陣の前を自在に動き回ります。

11月4日未明、ついにたまりかねた前田方は篠山に朝駆けを仕掛けます。が、篠山はもぬけの殻です。そのうえ前田家を愚弄する落書きが溢れていました。これに腹を立てた前田利常は、家康、秀忠双方から来ていた軍令を無視して攻撃を開始してしまいます。前田の将兵が激高してしまうほどの、相当えげつない文句が書き連ねてあったと思われます。

夜が明けきっていないこと、靄が立ち込めていていることなどから、真田丸側からも見えないと判断して前田軍は次々と空堀に侵入します。空堀に大勢を待機させ、夜が白むと同時に一気に堀をよじ登って先制攻撃を仕掛けようという作戦でした。

が、それこそ真田幸村が狙っていた罠でした。前田が篠山に兵を出した時から、刻々と情報が入っています。堀端に来た、堀に侵入した、堀に何人が入った…克明に情報を把握しています。が、物音一つ立てさせません。「豚は肥やして食う」と、前田軍が崖をよじ登り始めるのを待ちます。

前田が攻撃に入ります。十分射程距離に引きつけてから、真田丸の鉄砲が一斉に火を噴きます。

堀に密集していた前田兵は射撃場の的ですね。百発百中で鉄砲の餌食です。崖にとりついていた兵は投げ落とされる石や材木で叩き落されます。

この銃声に驚いたのが前田の隣に陣取っていた井伊直忠です。「徳川の先陣は井伊家が受け持つ」という面目を奪われて、徳川本陣に確認もせず、総攻撃に入ります。更に、越前の松平忠直も攻撃に加わってしまいます。これで・・・前線の兵を皆殺しにされて退却しようとしていた前田軍は、後ろから来た井伊、松平に押し出されるように堀に落ちます。落ちては撃たれ、又落ちて撃たれ、引くに引けず、逃げるに逃げられずの大混乱です。攻撃軍は突然の戦闘開始なので、弾除けの篠竹も盾も用意していません。防具なしですから、死者・負傷者続出の大混乱です。

そこへ、真田大助が率いる数百の兵が馬出から繰り出し、横槍を入れます。煙硝の煙が濛々と立ち込める中ですから、真田が攻撃軍を出したことすら松平、井伊の軍には見えません。突然現れた大坂方の大軍に、右往左往と逃げ回ります。「数百」と書いて「大軍」と書くのはおかしいのですが・・・井伊、松平にとっては大阪城から本隊が出撃してきたと思うほどの衝撃でした。

この時の逸話として、幸村が前線に取り残された松平忠直に「戦の仕方をよう心得ておきなされ」と、自らの軍扇を投げ授けたと言うものがあります。後に越前松平家の家宝となった物ですが、それはどうも怪しいですねぇ。真田兵が「若い、討ち取るのは気の毒」と忠直を見逃し、後に前田家臣の西尾何某が幸村を討ち取った折に、遺体から失敬したのではないでしょうか。真田幸村に日本一と称号が与えられてから、作り上げた伝説のようにも思えます。

ともかく、大混乱が続く中で真田丸の後方で火薬の大爆発があります。真田側の大失策ですが、これを南条某の裏切りの合図と勘違いしたのが藤堂高虎の軍です。南条の裏切りは前夜のうちに漏れていて、南条は既に処刑されていました。藤堂、寺沢など軍令を守っていた連中も、「将軍は身内にだけ功を立てさせるつもり」ではないかと疑い、大阪城の平野口に殺到します。

これまた餌食ですね。大阪城側から猛烈な鉄砲で攻撃を受けます。退けば、後ろから真田丸から狙い撃ちされます。狭い通路のような場所に誘い込まれたのですから逃げるしかありません。

命令を守って動かなかった伊達政宗を除き、家康、秀忠の前衛にいた将兵は皆、この攻撃に参加してしまいましたから本陣だけが取り残された格好ですね。伊達は「命令を守る」という大義名分を掲げて動かなかったのですが、実の所は全く戦意がなかったのです。戦に慣れた政宗の目からして、大阪城を力攻めするなどはナンセンスとしか思えません。ましてや誘いの城である真田丸に攻めかかるなどは常軌を逸した行為としてせせら笑っていたでしょう。それよりも・・・前衛が総ていなくなった家康本陣を奇襲攻撃して家康の首をとることを考えていたかもしれません。隣にいた藤堂勢が前進してしまいましたから、家康陣への道が開けました。大坂方に寝返り、家康の首をとり、秀忠を追い立ててしまえば情勢はどう転ぶかわかりません。嫌々ながらに参陣している外様大名たちは、伊達に同心して寝返るか、不戦・日和見の立場になるのが読み筋です。豊臣家の大老の地位に収まり、大坂方の浪人たちを引き連れて江戸に逃げ帰る秀忠を追う…こうすれば伊達政宗の野望、天下取りが実現できます。

なぜそうしなかったのか。家康、秀忠の旗本軍が分厚い陣を敷いていたのでしょう。伊達の、そういう動きを警戒して監視体制がとられていたのかもしれません。家康は真田にもそうですが、伊達にはそれ以上警戒していましたね。大久保長安事件にしても黒幕は伊達政宗だと見抜いていたようです。証拠がないから伊達家を取潰しできませんでしたが、警戒を怠ってはいなかったと思います。

戦場は徳川方伝令の「退け!」「退け!」の怒号と、大坂方の繰り出す銃声、銃弾に満ち溢れ、阿鼻叫喚の地獄絵が展開されていました。徳川方の戦死者、負傷者2万人という数字も、あながち誇張ではないようです。逃げることすらできない堀の中の兵は、玉砕、自決すらできず、銃弾の餌食でした。

(次号に続く)