六文銭記 48 束の間の和平

文聞亭笑一

いよいよ最終章に近づいてきました。大阪城、豊臣家が一丸となって玉砕突撃に打って出る幕が切り落とされます。それが果たして今回か、次回か、はたまた最終回かは分かりませんが、終わりが近づきつつあります。

ところで、一部読者の間では「織田有楽斎は善人か悪党か」という議論がなされています。

結論から言うと、相手の味方に成りすまし、敵方を有利に導くのですから「悪党」でしょうね。騙される方が悪い…という意見もありますが、高級なスパイほど見事な演技をします。一部の歴史家は「真田幸村こそ、家康が送りこんだ究極のスパイである」という説を唱える人がいます。徳川宗英さんの「徳川家が見た真田丸の真実」がそれで、真田親子を助命し、九度山に送り込む条件として寝返りを約束させていたというものですが、そのストーリに都合の良い情報だけを拾い集めると、確かに理屈はなり立ちます。

善人か、悪人かは、どちらの立場で物を言うかですね。豊臣方・真田幸村の立場で見れば、明らかに織田有楽斎は悪人です。獅子身中の虫でしょう。一方、徳川方から見れば反乱分子を思うが侭に操り、恒久平和、徳川政権の長期安定化を果たすことに貢献した功労者です。

スパイの話

ついでなのでスパイの話をしておきます。スパイ、間諜という存在は3千年前から戦に使われています。別に東西冷戦期の映画に登場する007ジェームスボンドだけではありません。戦国漫画のヒーローである忍者、乱破だけでもありません。間者とその用法は孫子の兵法・第13篇に「用間篇」としてわざわざ一章を割いています。孫子は全13篇からなりますから、最終章、まとめのような位置づけです。

有名な言葉だけ並べておきます

・爵碌百金を惜しみて 敵の情を知らざるものは 不仁の至りなり

名誉、地位の餌に乗る者はそれを与えて懐柔すべし、相手の欲しいものを与えて転向させるのが仁政というものだ。戦とは戦うばかりではない。戦わず勝つのが兵法だ

・動きて先に立ち、衆にいずる由縁の者は先知なり

先手必勝というが、先に動くには敵情を先に知らねばならぬ。情報の先取りこそ大切だ。

・聖賢にあらざれば間を用うること能わず 仁義にあらざれば間を使うこと能わず

聖人君子、神様ではないのだから、先のこと、敵のことは分からない。だから間者を使う。

間者として使う者に対しは、それなりの信頼と、それに見合う褒美を与えなくてはならぬ。

まぁ、要約すればこれが基本ポリシーでしょうか。そして、間者の使い方は5種あると言います。

・郷間・・・地元住民を使って情報を集める。戦地の住民を味方に牽き寄せよ

・内間・・・敵の重要人物を味方に引き入れよ 戦国武将が最も多用したのがこれです。秀吉がその名人

 今回の織田有楽斎もまさにこれでした。城は武力で落ちず、内側から崩れます。

・反間・・・敵の間者を味方にしてしまうこと  間者ほど、双方の情報を持っています

・死間・・・死を覚悟して敵陣に潜入し、情報を集める。ニセ情報を流す。

今回では小幡勘解由がその役ですね。地震のお陰で上手く逃げ出せました。

・生間・・・いわゆる忍者です。敵陣に忍び込み、盗聴、偵察、霍乱をして逃げ帰ります。

猿飛佐助、服部半蔵など、子供や若者に人気のキャラです。007もこれでしょうね。

ただ、今回の織田有楽斎は褒美に不満だったのでしょう。戦後は京都に隠棲してしまいます。

家康の首と千成瓢箪

幸村にとって、夏の陣は戦略的要素が実に限られた戦いでした。つまり、選択肢が少ない、少なすぎるのです。籠城戦は無理です。適当なところで和睦する、秀頼の身の安全だけ担保させるという手も…なさそうです。あるとすれば、家康か秀忠、または家康の子や孫を捕虜にして、条件交渉をすることですが、そのようなウルトラCは現実味がありません。

残る手は二つ。

一つは、家康の首を取り、徳川に従っている外様大名の寝返りを誘うこと

もう一つは、秀頼に自ら出陣してもらい、千成瓢箪の旗印を立てて堂々の進軍することです。

狙う敵は浅野、木下などの豊臣の親戚筋と、上杉、毛利、蜂須賀、黒田、福島、真田などの豊臣恩顧の大名の陣です。一種の踏絵ですねぇ。「やれるんなら、やってみろ」といった開き直りです。

どちらも賭けですね。ダメモトとも言える作戦です。

これしかない…と思いつつも、可能性が僅かにでもあればと、秀頼の生き残り策を考えます。

島津への亡命工作

島津は関が原の折、西軍の主将の一人であった宇喜多秀家の亡命を受け入れています。その後、徳川の要求に耐えきれず、身柄を引き渡しますが、命は助けられ、八丈島に流されました。

「最悪の場合、それでもいい」と考えたのではないでしょうか。

秀頼は島津を頼って鹿児島に落ち伸びた。その後ルソンに渡った…などと云う噂が流れましたが、何某かの動きがあったればこその噂だと思います。船舶関係の商人、例えば呂宋助左衛門などに話を持ち込んだかもしれません。真田物の小説ではこの説をとるものが幾つかあります。猿飛、霧隠など十勇士が活躍するタイプの本に多いですねぇ。

「おらが大阪の太閤はん」という庶民人気の賜物でしょうか。徳川に対抗できるカードは残しておきたいという大阪人の夢の結晶のような話です。勿論、真田大助が従い、再起を狙うというストーリですが、実際は無理な話です。

ところが江戸期はこの話が信じられていたようで、松代・真田藩主は部下を鹿児島に派遣して真偽を確かめたりもしています。指宿の近くに幸村か、大助家の墓のあるのを発見したと書いてあります。墓に残るのは間違いなく六文銭の紋所です。

しかも、この地で生き延びた秀頼の子が天草四郎で、島原に籠って徳川を苦しめた…という「おまけ」までついています。こうなると・・・アンチ徳川の怨念としか言いようがないですね。

伊達との交渉

これは・・・あったかもしれません。幸村の娘たち、それに息子の大八は仙台藩に引き取られ、お梅は伊達家の重鎮・片倉小十郎の妻になり、お田(でん)は東北の大名・岩城宣隆の正室に収まっています。また大八は片倉を名乗り、仙台藩士になっています。当初は真田を名乗ったようですが、幕府から詮議を受けて片倉にしたと言われています。

戦前になにがしかの話がなければ、伊達政宗、片倉小十郎も危ない橋は渡らないでしょう。

夏の陣が始まる前のこの時期、死を覚悟した幸村が家族の行き先をあれこれ考えていたのではないか、水面下での交渉をしていたのではないかという推察が成り立ちます。

更には、甥の信吉、信政と直接対決をしないように、自分の攻撃先を偽って、情報リークしていたことも考えられます。講和から再戦までの3か月余、双方ともに虚々実々の駆け引きだったでしょうね。

女たちの政治感覚

茶々、大蔵卿などは「講和した」と「二度と攻めて来ない」が同義語と理解していたようです。

ですから、講和条件を守ろうとします。この点では「政権交代」直後の総理大臣を思い浮かべますねぇ。フクシマさんから「最低でも県外」と言われればそのまんま、オザワさんから「埋蔵金が山ほどある」と聞けばそのまんま、カメイさんから「経済は任せなさい」と言われたらそのまんま、「五分前」に聞いた話をオウム返しに答えていました。いや、違いました。鳥は鳥でも鳩でした。

世間知らずが政治に口出しすると、相手の思いのままに、牛耳られます。大阪の作戦計画なども家康の耳に筒抜けです。家康にとって最も嫌なことは「千成瓢箪の旗印」です。これが戦場に立った時、果たして外様大名たちがどう反応するか、読めません。読めないほど怖いことはありません。

戦場というのは普通の感覚ではいられない場所です。功名を狙うものは前に前にと出てしまいますし、わが身大切と思うものは僅かな劣勢でも逃げ出します。10万とも20万とも言われる戦士たちを、意のままに統率するのは至難の業です。冬の陣ではあれだけ軍令を発したのに、自分の孫や信頼していた部下たちが真田丸に突進してしまいました。全国からかき集めた10万、20万の大軍勢なだけに、かえって不安が付きまといます。

漏れてくる情報をもとに、家康は大蔵卿を通じて甘言を垂れ流します。大阪を責める気など全くない…という振りをします。そのくせ、秀頼が千成瓢箪の旗印を掲げて戦場に出ることがないようにと、必死で工作します。煽て、脅し、手練手管の限りを尽くします。

まぁ、政治の分野では狸親父と、普通の主婦の掛け合いですから、勝負にはなりません。大坂冬の陣が方広寺の鐘銘の文字にあったと難癖をつけて、戦を仕掛けてきた家康の狡さ、したたかさのことはすっかり忘れています。家康の腹は豊臣を根絶やしにする・・・と決まっています。そのことに全く気付かないのですから極楽とんぼです。

だから、昨今の大衆迎合的政治家と、それを煽るマスコミの政治は怖いですねぇ。イギリスのEU離脱、アメリカのトランブ旋風、フランスも危ないようで、この先どうなりますか。主要国が軒並み内向き志向をすれば、世界のルールが空洞化してきます。その穴に共産中国が乗りだして来たらどうなりますかねぇ。選挙というのは投票率の最も高い層の意見が勝ちますから…大阪城がそうなっても不思議ではありません。そういう思いで、今週の大阪城内のドタバタを見るのも面白いかもしれません。

城内不穏

女たちと、その仲介者である大野治長はしきりに和睦条件の順守にこだわり、城内の不満分子を慰撫しようとします。また、財政がひっ迫してきたことと、二の丸、三の丸で住居を失った兵の解雇に掛かります。下層の足軽たちが標的ですね。一時は10万を越えた兵が、夏の陣では6万程度ですから4万人の大リストラです。

これに反対するのがリストラされる者たちで、現代の労働組合と同じく、政権批判が盛り上がります。更に、大野治長の弱腰外交には若手の旗本たちも猛反発します。そのリーダになったのが、皮肉なことに治長の弟・治房と治胤(道犬)です。彼らは幸村、又兵衛などの浪人衆が取り仕切る軍事にも不満です。自分らこそ豊臣の正規軍であって、作戦計画に参加できないことへの不満が燃え上がります。こうなると・・・対徳川というより、反執行部、反浪人指揮官の運動になり、大野治長暗殺計画、後藤又兵衛裏切り説、真田幸村闇取引説など、噂が飛び交います。それを煽る徳川方の間者も暗躍しますね。

大阪城は外ばかりでなく、内側からも崩れ始めていました。

(次号に続く)