六文銭記 50 家康の首

文聞亭笑一

NHK真田丸もいよいよ最終回です。ということは・・・六文銭記も最終回です。今年一年をお付き合い頂き誠にありがとうございました。

大坂の陣は、夏の陣も、冬の陣も、戦いに参加した当事者の記録があまり残っていません。手柄話や、評判を聞き知った者たちが書き残した資料がベースになりますから、幾つかの異説が混在します。それを、徳川に都合の良いように、または豊臣に都合の良いようにアレンジした戦記物が江戸中期以降に花開きました。戦闘参加者がこの世を去った後ですね。迷惑がかかりません。

茶臼山の陣

茶臼山は冬の陣で家康が本陣を置いた場所です。大阪城が見下ろせる場所で、大阪城内の動きが見える、つまり城内との連絡がとりやすい場所です。ここに真田隊と毛利勝永の兵が集結します。大阪は既に後藤、木村、長曾我部などの兵が壊滅してしまいましたから、戦らしい戦の出来る軍団はこの二隊しか残っていません。大阪城内には大野兄弟や秀頼の旗本兵がいますが、幸村にとっては補助戦力としてしか期待できなかったようです。

薩摩・島津藩の記録では「茶臼山に真田の赤旗と、毛利の白旗が林立するさまは壮観であった」とありますが、その島津藩はこの戦争に参加していません。大阪駐在の者が戦見物に来たのか、それとも評判を元にしたのか、定かではありません。

幸村が最後まで期待していたのは、秀頼自身の出馬でした。千成瓢箪の旗印を立て、大阪の旗本たちが城外に陣を張れば、寄せ手は「手柄を…」とそちらに注目します。目標が二つになって、注意力が散漫になる隙に、家康本陣への突進をしたかったのです。それもあって、息子の大助を大阪城との連絡に走らせました。それでも・・・旗本勢を握る大野治房は動きませんでした。真田幸村を信用していなかったのです。徳川と通じている・・・と疑っていたようですね。大助の説得は通じませんでした。

結局、最後の最後に毛利隊、真田隊が敵陣に突撃するのを見てから「真田の指揮に従え」と全軍に命令していますが、時すでに遅しです。何の役にも立ちません。

戦いは徳川方が先手を打ちます。真田・毛利の前に立ちはだかっていたのは、冬の陣の真田丸で幸村に手痛い大敗を喫した越前の松平忠直です。冬の陣のお返し、名誉ばん回に必死の兵たちでした。さらに、真田信幸の妻・イネの弟の本多忠朝、信幸の息子たちである信吉、信政の真田兵です。「真田に同士討ちさせよう」という家康の采配ですが、本多忠朝も真田信吉も「家康に疑われている」という恥を雪ごうと必死です。さらにその後方には信濃の小笠原隊が控えます。これまた「幸村の調略で信州深志を候補地にされた」ことを恥と感じ、必死の兵たちです。三隊の何れも徳川方で最も戦意の高い者たちばかりです。

戦いは松平軍の銃撃によって始まります。これに毛利隊が応戦し、松平軍に突撃を開始します。真田隊はそれを迂回しつつ、第二陣に控える真田隊、本多隊、小笠原隊に突進します。猛烈な激戦になったようで、この戦いで本多忠朝、小笠原秀政が戦死しています。真田幸村の突撃は、敵を討ち取るというよりも「敵中突破」が狙いで、鋭角の三角形のような陣形(魚鱗陣)で突き進みます。全員が死ぬ気ですから、こういう敵は防げませんね。鉄砲で討ち取るしかありませんが、騎馬突撃ですから弾を詰め替える暇がありません。第二陣も突破して第三陣に控えていた徳川の旗本勢と衝突します。

この戦で松平忠直の軍は3千を越える首を取り、真田信吉・信政隊も2千近い首を言挙げたと言います。突撃に遅れた兵たちは、大勢に取り囲まれて斬り死にするしかなかったでしょうね。

家康逃げる

家康を守っていた旗本隊、俗に旗本八万騎と言われた面々ですが、あっけないほど脆かったようです。その理由の一つは、戦国期の猛者たちが引退し、次世代に代替わりしていたことでした。大半が初陣で、戦場に立って直接敵と干戈を交えるのが初めてです。道場の剣術、槍術で真剣、真槍を振り回すのは初めてです。更に、指揮官も代替わりしていますから指揮命令も行き届かず、何をしたらよいのかもわかっていませんでした。身を挺してでも家康を守るという旗本の本分すらどこかに置き忘れたようです。

さらに、「敵もここまでは進めまい」という油断がありました。大軍の奢りというか、戦見物の気分でいた者たちが多かったようですね。

勢いに乗っている真田隊は、まっしぐらに家康の旗印を目指します。

「真田左衛門佐見参」と、幸村自身が3度、4度も家康本陣に突撃したと言われています。幸村と全く同じ武具を付けた影武者を数人用意していたようで、討ち取ったと安心していると、またしても「真田左衛門佐見参」と次が来るので、家康も相当慌てたようですね。家康以上に慌てたのが旗本たちで、逃げ支度というか、退却命令が出ないのを非難する者すらいたようです。

最初に飛び込んだ影武者は、真田家代々の重臣・望月宇左衛門ではないかと言われています。十勇士の物語では望月六郎と呼ばれる人物のモデルです。真田家は信州の名家・滋野一族の流れですが、この家系が枝分かれして真田、海野、望月、根津になりました。いずれも十勇士には海野六郎、根津甚八という名で登場します。真田が兄弟敵味方に分かれた時、それぞれの家でも兄弟が分かれ、信繁に従って生死を共にしていますね。

最初の突撃で家康は相当驚いたようです。「危ない」と直感し、並んで陣を張っていた秀忠に「陣を下げよ」と命令しています。家康にしてみれば、親子ともどもにやられないように…という安全策ですが、自分の身にまで危険が迫るとは思っていませんでした。

二度目の「真田左衛門佐見参」は影武者の穴山小助ではないかと言われています。穴山小助は武田信玄の血筋で、武田勝頼を裏切った穴山臣君の親族です。武田家再興を目指し、真田の陣に投じていた一人です。これには家康も腰を抜かすほど驚いたようで「先ほど討ち取ったといったではないか」などと周りを叱りまくったようですが、家康から見えるところまで接近したようですね。逃げ支度に掛かります。

この時の旗本たちの慌てぶりが異常で、家康を置き去りにして逃げ出すものが出たようで、それをケシカラン、軍法違反だと叫びながら、追いかけるふりをして…自分も逃げた者が随分いたようです。

家康のそばには側近の本多正純がいたのですが、軍事経験のない政治家です。指揮が取れません。そこで、旗本の中から大久保彦左衛門が戻り、家康退却の指揮を執ったようです。この経歴があればこそ、後々「神君の命の恩人」「天下のご意見番」として幕閣から一目置かれたのです。彦左衛門の自伝「三河物語」では「槍を使って大暴れした」ことになっていますが、それはなかったでしょうね。家康から離れず、護衛して退却したようです。余談になりますが、その後の徳川政権で本多正純が失脚する一因とされるのも、この時のうろたえぶりがあったようです。とりわけ武闘派からは「大御所の威を借りた狐」と、かつて石田三成が受けたと同じ評価をされています。

この退却に当たって、家康の旗印が置き去りにされました。旗奉行が恐怖にうろたえたあまり、自分の仕事、役割を忘れて旗印を忘れてしまったのです。秀吉の旗印は千成瓢箪ですが、家康の旗印は7本骨の金扇です。これが、影武者二番手の突撃隊に倒され、踏みにじられ、形の上では本陣が壊滅してしまいました。当然ですが・・・戦後、この旗奉行は改易(クビ)になっています。

幸村突撃

幸村が突撃します。が、すでに家康は逃げた後でした。

後方からは、一旦陣を破られた松平、真田、本多などの軍勢が追ってきます。

この辺りを絵にすれば、前方を家康が必死で逃げていく、それを守って旗本たちが逃げていく、それを幸村の決死隊が追う、さらにその後を松平勢が負うという展開でした。

この逃避行の途中で、家康が2度ほど「真田に首を取られるくらいなら切腹する」と叫んだなどと云う伝聞もありますが、そこまでの混乱はなかったと思います。逃げてくる旗本勢を見て、先に陣を下げていた秀忠軍から応援が駆けつけますから、家康はかなり早い時点で安全圏に脱出できていたと思われます。

前方から秀忠の派遣した軍、後方からは松平忠直の軍、これに挟まれて幸村は脱出するしかありません。大魚を逸しました。川中島戦で上杉謙信が武田信玄の本陣に討ち入り、二度、三度と刀を振るったことと重ねて「大魚を逸す」の頼山陽の詩を思い出します。

もはやこれまで・・・だったでしょうね。それでも幸村は安居神社の辺りまで脱出します。

そこで、越前松平の西尾久作に発見され、討ち取られます。享年50歳でした。

この西尾久作、元は武田の家臣で、高天神城の戦では真田昌幸と一緒に戦っています。武田家臣は越前松平に召し抱えられた者も多く、西尾もその生き残りでした。

大助・秀頼の最後

父の指示で大阪城に「秀頼出馬要請」に向かった大助ですが、大野たちの優柔不断に阻まれ目的は達成されませんでした。「もし、それが叶わなかったら、最後まで秀頼公のお供をせよ」という父の指示に従い、秀頼の近くに控えます。

まだ13歳の大助を道連れにしたくないと、明石全登などは逃散を勧めますが、頑として拒否したようです。結局、秀頼の自決を見届けてから切腹して果てます。

徳川方は雪崩を打って大阪城に攻めかかります。一番乗りを果たしたのは真田信吉の隊でした。幸村隊の逃げる兵を追いかけて、そのまま城内に駆けあがったようです。場内の混乱は目に余るばかりで、逃げ惑う兵士や女たちが次々に討たれ、乱取りされていきます。その様子を描いた図がありますが、悲惨ですね。女たちの殆どは裸で描かれています。

大野治長は、最後まで秀頼を助けようと、千姫を使者に立てて秀頼の助命と降伏を交渉しようとしますが、秀忠が頑として聞き入れません。結局は千姫を助けただけで、秀頼は切腹して果てるしかなくなりました。一度も戦場に立つことなく、千成瓢箪の旗印と共に世を去ります。秀頼の妾腹の子も発見されて処刑されています。豊臣の血筋は完全に消されました。とはいえ、秀頼の娘は命を助けられて鎌倉の寺で尼になります。この寺は後に、男と離縁したい女を助ける駆け込み寺で有名になります。

秀頼、大助共に遺体が発見、確認されなかったことから、両名が薩摩に逃れたという説があります。

逃れて生き延びたとされるのは薩摩半島の先端、指宿あたりで、そこには秀頼の墓や、真田の墓もあり、墓石にはご丁寧に六文銭が彫り込まれていると言います。さらに、秀頼が村娘に産ませた子が天草四郎で、島原の乱の反乱軍を率い、その参謀が明石全登だと来ては・・・話が出来過ぎです。

薩摩藩の「アンチ徳川」の気持ちが作りあげた虚構でしょうが、物語としては面白いですね。

ただ、この話を信じた松代真田藩8代目の殿様が、調査員を派遣し、「その通りだ、幸村は生きていた」という記録を残しているのも面白い所です。

(次号に続く)