次郎坊伝 04 仏道修行

文聞亭笑一

第4話、ここまでが子役の出番のようです。何となく学芸会を見ている感じで微笑ましいですね。

今回までは時代背景や、井伊家の置かれている環境、人間関係の説明ですから、この先を楽しみにしたいと思います。

前回、浅丘ルリ子の演じる寿桂尼が出てきました。この人の説明をしていませんでしたね。

歴史上の女傑と言われる中に、必ずと言って良いほど出てくる人物の一人です。

今川家先々代・今川氏親の妻で、先代の氏輝、当代の義元の母です。氏親の母・北川殿も京都の伊勢氏から来ている縁で、寿桂尼も京の公家、中御門家の出身です。氏親が中風で寝込み、国政を担当できなくなってしまいましたから、幼少の氏輝を支えて今川家を盛り立て、武田、北条といった近隣の強敵から、今川本領を守り抜いた女城主とも言えます。

氏親が病気に倒れてから、氏輝が成人するまでの10年間は、寿桂尼が今川の実質上の城主でした。

次郎坊が井伊家を守ったとするならば、それより先に女城主として今川家を守ったのが寿桂尼ですね。

女性リーダとしての大先輩には、頼朝亡き後の北条政子がいます。実朝を支え、その亡き後は自ら采配を振るい、尼将軍と言われました。それもあってでしょうか、寿桂尼は「尼(あま)御台(みだい)」とか「女戦国大名」などの別称があります。

この寿桂尼を、政略面で支えてきたのが雪斎禅師です。今川義元にとっては、頭の上がらない二人でした。ですから、この二人から「井伊の姫を、出家を条件に返してやれ」と示唆されたら、嫌とは言えなかったのでしょう。こんなところから、今川義元はマザコン男ではなかったか…という推測も立ちますが、全てを寿桂尼や雪斎禅師に相談していたわけではありませんから、それなりに優秀な戦国武将・政治家であったと思われます。

おとわ(次郎坊)の出家

尼でなく法師として出家した理由、次郎の名の由来に関しては前回書きました。忘れた人は前号をご参照ください。ただ、在家の法師であったのか、それとも寺に入ったのかについては定かにわかりません。しかし、いかに便宜上とはいえ女の子を寺で寝泊まりさせたとは思えませんねぇ。ましてや禅宗は、そういう点に関しては戒律が厳しいのです。浄土系の寺院では、この時代でも妻帯を認めたりしていますから次郎坊の住み込み修行も考えられますが、禅寺では考えにくい設定です。しかも、出家したのが10歳ころとして、当時の女性は13歳から嫁入りの話が出ます。子どもではなく大人の扱いを受けます。結婚適齢期と言われたのが16歳、20歳を過ぎたら行き遅れでしたからねぇ。次郎坊は龍潭寺で9年間修業をしていますから、10歳から19歳までです。当時の女としての花盛りの時期を過ごすことになります。そういう女性を修行の場に寝泊まりさせて置いておくということがあり得たのか・・・不思議です。

私は、通いで修業したと思います。ただ、親と一緒にいたのでは修行になりませんから、井伊本城の城内に庵を結んで、そこから龍潭寺へと通ったのだと思いますね。

ただ、入門したばかりの10歳、11歳の子供の頃はドラマの通り、住み込み修行だったかもしれません。今川の目もありますから、寺の境内に入れてしまう方が隠密の目を隠せます。家老の小野政直などの目からも隠せます。

禅寺での修行は読経(どきょう)、座禅(ざぜん)、作(さ)務(む)、托鉢(たくはつ)が基本です。

先ずは読経・・・禅寺での読経は般若心経空だったでしょうね。魔訶般若波羅蜜汰時・・・と云う奴ですね。それほど長いお経ではありませんが、これでも覚えるのは大変です。私なども故郷の菩提寺が妙心寺派ですから、爺さん、親父と一緒に唱えたことがありますが、一向に覚えませんでした。写経などもしましたが、それでも覚えませんね。「覚える気がないからだ」…ご指摘の通りです(笑)

座禅は説明の必要がないと思います。瞑想の世界に入る訓練です。

作務・・・各種の労働を指します。寺でやるのは主として農作業ですね。こういう修行をする時に着るのが作務衣です。外国人の中には「これは便利だ」と、普段着やパジャマ代わりに使う人もいますが、修行用の野良着です。

托鉢・・・家々を回り、読経のお礼にお布施(金品)を頂くのが基本ですが、辻立ちなどもします。辻立ちというのは、人の集まるところで読経をし、金品を受け取ることです。辻芸人がもらう「おひねり」や喜捨、相撲の懸賞金などの原型でしょうね。

これらは修行僧としての基本ですから、次郎坊も当然のことながらやったでしょう。しかし、経も読めぬうちからでは托鉢以前のレベルです。10歳程度の小僧、小坊主では…苦労したでしょうね。何かの縛りか目標がないと、とても耐えきれません。私の勤めていた会社には管理職に3か月間のリフレッシュ休暇という制度があって、その期間に寺に修行に入った人もいました。なかなか大変な重労働(?)で、途中で逃げ出した人もいましたね。勿論、初級?の資格をもらってきた人もいました。

般若心経

今回のストーリは次郎坊の修行の話ですから、仏教用語が出てきます。お寺と言えば葬式、法事とお盆、お彼岸の墓参りくらいしか縁がありませんから、仏教用語もうろ覚えです。それが今回は幾つか出てきそうですねぇ。少し予備知識を仕入れました。

般若心経と言えば、誰でも思いだすのは「色即是空 空即是色」でしょうか。

「不生不滅、不垢不浄、不増不減」なんて一節もありますね。無常・・・世の中に同じものはない、常に変化しているから絶対ということはないのだ・・・とも理解できます。こういうところが「絶対神」を持つ、その他の宗教との違いなのでしょう。

「羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)、波羅羯諦(はらぎゃてい)」なんていう文句も出てきます。何のことやらさっぱりわからなかったのですが、先日、伯母の葬式で住職の解説を聞いて、なるほどと思いました。「行こう、行こう、彼岸まで…」といった意味のようです。なんとなくイタリア民謡の「フニクリ フニクラ」を思い出してしまいました。こう言うことを言うから…罰が当たるんでしょうね(笑)

余談になりますが、私の菩提寺の和尚は変わった葬式をやります。読経をする前に、お経の意味を説明し、「さぁ皆さんご一緒に」と読経を始めます。そして、読経の間は大型スクリーンに故人の生前の思い出写真を次々と流します。お経…というバックグランドミュージックを聞きながら生前の故人を偲ぶという企画で、長いお経も一向に苦になりませんでした。むしろ、弔問客も焼香だけして帰るのが惜しくなるようで立ち止まってしまいます。この和尚、「坊主丸儲け」などと云う本を書いたりして、仏教界では異端児のようですが、普通の寺ではこういう葬式をしないから、工夫がないから仏教離れが進むのではなかろうかと…他人事ながら危惧しています。

仏教の考え方と、科学の基本は実によく似ています。それだけに・・・埋没してしまうのは惜しいのです。

餓鬼道・六道

次郎坊は先輩から仏道を教わります。その中で「施餓鬼(せがき)」とか餓鬼道の話が出てきます。

仏教では生前の行いの結果として六つの道に行くのだと教えます。

善人が行くのが天道…これが極楽浄土でしょうね

善人でも悪人でもない者の行くのが人間道・・・生前と変わらぬ苦しみの世界だそうです

争い事ばかりしていた者の行くのが修羅(しゅら)道(どう)・・・争いの絶えない世界だそうです

欲ボケの世界にいた者の行く道が餓鬼道・・・喰うことができずのたうち回る世界

悪行ばかりしていた者の行く道が畜生道・・・獣や虫に生まれ変わってしまうのだそうです

極悪非道の者が行く道が地獄道・・・鬼の責め苦にさいなまされる世界だといいます

現代にこんな話を信じる人は少ないと思いますが、戦国時代というのはこういう話が信じられていた時代です。日本式仏教の最盛期であったかもしれません。一向宗(浄土真宗)の信徒は「念仏さえ唱えれば極楽に行ける」と信じて煽動家に乗せられ、全国各地で一向一揆を起しました。これに腹を立て、鉄槌(てっつい)を下したのが織田信長ですね。比叡山焼き討ち、長島一向一揆の皆殺し、石山本願寺との長期戦争など、狂信派の一掃をやっています。

現代でもISと名乗る狂信派の宗教勢力が世界各地でテロ行為を行います。修羅、餓鬼、畜生、地獄…どこに行くのか知りませんが、「死を怖れず」という精神状態は異常としか言いようがありません。

共産主義という宗教も、原理主義になると危険です。それに近いのが北朝鮮ですからねぇ。困ったもんですが「信じる者は救われる」という宗派の教えは本当でしょうか。

小野一族

小野一族と言う名は聖徳太子の遣隋使として中国に渡った小野妹子を祖とし、全国に散らばっていきます。平安時代に政治家として活躍した小野篁(たかむら)、書家として名を馳せた小野東風、歌人として有名な小野小町などが続きますが、遠州の小野家もその末裔だということになっています。

次郎坊の物語では敵役(かたきやく)として家老の小野政直が登場しますが、小野家というのは元々からの井伊家の郎党ではありません。次郎坊の曽祖父・直平(前田吟が演じています)が当主の時に、政直の父・小野兵庫介に経綸(けいりん)の才があるのを見込んで、家老に招いてからの家来です。主従関係としては、歴史が浅いのです。兵庫介の跡を政直が継ぎますが、政直は父とは違って井伊家に従順ではありません。むしろ、井伊家を乗っ取ろうという野心家でした。今川とのパイプを一手に受け持ち、井伊家を自在にコントロールします。息子の鶴丸を婿に送り込めば、乗っ取りが完了します。

こういういきさつですから、曽祖父の直平にとっては癪(しゃく)に障るんですねぇ。

「小野の家は俺が家老に引き立ててやったのに、その息子は井伊の家に盾を突きおって…」

となります。

今川が井伊を潰してしまいたいのと同様に、井伊は小野を潰してしまいたかったでしょう。

しかし、小野の後ろには今川が付いていますから手出しできません。直平が事あるごとに激する背景は、こう言うことだと思います。小野政直には息子が二人います。

小野政次・・・物語に出てくる鶴丸です。後に亀の丞(直親)、次郎坊(直虎)と対立していきます。

小野玄蕃・・・幼名は亥之介 兄とは違って城主の井伊直盛に従順でした。

兄弟でなぜ意見が分かれていったのか? この辺りが今後のストーリ展開の楽しみでもあります。