どうなる家康 第1回 桶狭間

作 文聞亭笑一

初回の放送は顔見世興行というのか、出演者、配役の紹介を、時代背景を交えながら展開していくものと思われます。

そこらは脚本家にお任せですが、最大の見ものは桶狭間の合戦ですね。

今川義元が一回の放映だけで消えてしまうのは残念ですが、回想場面として今後も登場するかもしれません。

義元は何の目的で尾張を攻めたのか

桶狭間の合戦は「義元が将軍家を支えるべく上洛するため」と言われてきましたが、それはどうやら江戸時代の人気小説「甫庵太閤記」や、それを下敷きにした山岡荘八などの小説家によって作られたイメージで、最近では「上洛の意図はなかった」というのが定説になりつつあります。

過去から4通りの説が立てられています。

① 上洛説

② 三河支配の安定化説

③ 尾張制圧説

④ 東海地方制圧説

義元の軍勢は2万と言われますが、京への道のりには尾張の織田、美濃の斎藤、近江の浅井、六角の抵抗を打ち破らなくてはなりません。

戦闘員の数もさることながら、食料など兵站でそれだけの準備ができていたのかに疑問が残り、「③尾張を討つ」それだけの目的ではなかったかと言われます。

勿論、最終的には上洛を狙うのでしょうが・・・

まずは小うるさい織田の小倅(信長)を討って、尾張を平定する。

尾張を平定したら、それから美濃の斎藤を退治し、近江には将軍家の威光を利用した調略を施して味方に付け、京に旗を立てる・・・と、早くて3年計画、じっくりと5年計画位を考えていたのではないでしょうか。

将軍家から上洛の催促が来ていたわけでもありません。

その手始めに、まず初年度は尾張に攻め込んで、その経済圏を手に入れる事が目的だったと思われます。

今川の領国は駿河、遠江、三河と広範囲ではありますが、いずれも農業国です。商業の利という点では木曽川水運を利用した尾張の経済力は喉から手が出るほど欲しかったと思われます。

尾張は古代から日本海経済圏とも繋がっていて商業の発展している地域です。

更に「瀬戸物」と言われるほど陶磁器の大産地で、全国の需要を一手に引き受けていました。

ちなみに、有田、伊万里など、九州で陶磁器生産が盛んになるのは秀吉の朝鮮役以降です。鍋島家が朝鮮の陶工を大量に連れてきて以来です。

大高城への兵糧入れ

三河の松平軍は今川軍の先鋒として大高城への兵糧入れを指示されます。

これは沓掛城に陣取った義元の元に、鵜殿長照から「兵糧不足」の訴えがあったからですが・・・こんな「チョイ役」に三河の松平勢を使ったのは・・・不思議です。

チョイ役と書きましたが・・・戦略的には意味のない役割で、しかし、危険度は高い役です。

大高城の兵糧が不足していても、今川本軍が尾張に向かって進軍していけば織田方の砦は立ち枯れてしまいますから大高城に籠城する必要はありません。

それほど急いで食料を届ける必要は無いのです。

「腹一杯飯が食えない」と言うだけの贅沢な要求だったのです。

ただ、鵜殿長照は義元の親戚筋です。身内に対する甘さが出たのでしょうか。

危険度が高いのは、非戦闘員を大量に使い、その護衛をしなくてはならないからです。

荷車に米俵を大量に積んで敵前を輸送していく・・・敵から見たら「鴨が葱を背負ってきた」様な隊列です。

しかも、臨時に駆り出された百姓達は敵を見たら逃げ出します。

これも、逃がさないように動力として確保しなくてはなりません。

外敵への応戦と内部統制、両方やらなくてはならないから「難しい役割」なのですが・・・、実は、さほど難しくの無かったのではないかとも思われます。

難しかったのは兵糧入れが済んだ後、今川軍の敗軍が伝わった後でしょうね。

油断? 奇襲? 天佑?

桶狭間の合戦は「油断していた義元に、天才・信長が迂回路から奇襲を掛けた作戦勝ち」と言うことになっていますが・・・どうも「そうではない」というのが最近の説です。

その日、義元はゆっくりと沓掛城から出陣しています。

進軍中に松平勢が織田方の丸根砦、鷲頭砦を陥落させ、前衛軍が中島砦も攻略したという報告が入ります。

三河と尾張の国境の城、砦はすべて今川方が攻略しました。

戦勝報告を受けて一休み・・・と、これは油断ではありません。

が、前進を続ける今川軍前衛部隊と、義元本体の間に距離ができてしまいました。

今川軍は2万と言われますが、前衛軍が1万、本軍が5千、家康などの遊撃軍が5千だったようです。

前衛軍はまっすぐに織田の本拠地・清洲城に向かっていました。

遊撃軍は大高城周辺にいます。

二万の軍勢が三つに分かれていたのが、たまたま5月19日正午頃です。

一方の織田軍は、今川本体を目指してまっしぐらに進軍していました。

玉砕戦法というのか、本道を直進していたようです。

が、これを隠してしまったのが梅雨時の豪雨でした。

今川軍の前衛部隊はこれを見逃してしまったのか、雨宿りに大童で見えていなかったのか・・・多分後者でしょうね。

織田が進軍してくるとは考えていなかったのです。

行き違う織田軍を「味方の別働隊」と勘違いしたのかもしれません。

かくして、織田軍2千人が今川本軍5千人に玉砕攻撃を仕掛けます。

戦闘が始まってからもしばらくは「味方同士の喧嘩」か「敵襲」か・・・わからなかったようですから、今川本軍は相当に混乱したでしょうね。

アレよ、あれよという間に・・・義元が首を取られてしまいます。

源平時代以来、日本式戦争ルールでは「大将がやられたら負け」と言うことになっています。

どんなに優勢でも、大将がやられたらオシマイ・・・運動会の騎馬戦ルールの通りです。

「大将がやられた」という情報に、今川軍は総崩れです。

逃げるのに必死で組織行動ができません。

一刻も早く、敵地の尾張から駿河、遠江へと逃げます。

押しとどめようとした今川本軍との同士討ちまであったようです。

この桶狭間の奇襲?は信長公記、太閤記などで相当に美化されて描かれました。

それに加えて陸軍参謀本部が「小を以て大を討つ」手本のように褒め称えました。

後の、鉄砲三段打ちなどという作り話も加えて、信長は日本陸軍によって戦術の神様のように美化されます。

今川の情報を把握していた信長、偵察を怠った義元・・・情報感性の差が出ました。