どうなる家康 予告編 01 人質生活

作 文聞亭笑一

NHKの大河ドラマをネタにして歴史を振り返る書き物を発行してから、まもなく20年になります。

すっかり生活のリズムになってしまいましたから辞めるわけにも行かなくなりました。

また、配信先の皆様への年賀状を含め、近況報告を兼ねていますので、ご迷惑でしょうが「文聞亭も元気らしい」と読み捨てていただければありがたいと思っています。

さて、来年は戦国物です。何度目の「家康」でしょうか? 信長、秀吉、家康は戦国大河ドラマの定番ですね。

今年のタイトルは「どうする家康」です。

信長が搗き 秀吉丸めた天下餅 ご馳走様と食らうは家康

などと揶揄されます。

結果論としてはその通りで、信長が地均しをし、秀吉が作り上げた御殿に、住んだのが家康と言うことになります。

「その家康にも人生の分岐点が数多くあったのだ」というのが「どうする」の意味でしょうね。

「どうする」という決心の場面と、「どうなる」という結果には科学的、論理的関連性はありません。

たまたまそういう結果になった・・・と言う事実だけが残ります。

テレビの脚本が「する」という意思を重視するのなら、臍曲りの文聞亭は「なる」という結果を重視して歴史的事件を追いかけてみます。

三河の松平

家康のルーツ・松平家の由緒はよくわかっていません。

三河の山岳地帯に根を張ってきた地侍のようですが、鎌倉時代に地頭職に就いていた家柄とは思えません。

また、足利時代の三河国は吉良家の領地です。

吉良家は駿河の今川家よりも上格の足利一門の名家でもありました。

足利本家の血筋が絶えたら吉良家から、それも絶えたら今川家から・・・という高家なのです。

元禄の忠臣蔵で敵役になる吉良上野介が「高家筆頭」と言われるのは、つまり足利尊氏以来の将軍家の親戚という家柄の事です。

その吉良に従属していたのが松平ではないでしょうか。

後に家康が「徳川」に改姓するに当たって、色々な物語が捏造された節が・・・ありそうです。

松平本家の男系が途絶えたところに、上州得川村生まれで新田源氏の末裔である「徳阿弥」という名の遊行僧が養子に入り、松平本家を継いだ・・・と言うことになっています。

しかし、この話はでっち上げ、捏造の可能性が高く、関東の源氏を受け継ぐ佐竹家からは鼻先でせせら笑われ、それに対して家康は全く抗弁できなかったと言います。

源氏を巡るこの諍いは、家康同様に家系が不明の秀吉が仲裁にたち、朝廷に認めさせ、一旦収まりました。

しかし、関ヶ原の後、幕府を開こうとする家康にとって、ルーツの嘘? 謎?を知る佐竹家の存在は目障りです。

そのためだと言われているのが佐竹家の秋田移封です。

奥羽の僻地へと追いやり、さらに5年間は俸禄(何万石という経済圏)すら確定しなかったと言います。

「徳川の家系について一言でもケチを付けたら取潰す。

態度が悪ければ小藩に落とす。

執行猶予期間は俸禄を確定しない」というイヤガラセですね。

そこまでして・・・と思いますが、「源氏でないと征夷大将軍に任じない」という朝廷、公家衆のイヤガラセが、結果的に佐竹への口封じ、イヤガラセに繋がりました。

悪事は伝染します。

松平は徳川将軍家の旧姓、古くからの親戚筋・・・という位置づけになります。

鎌倉か、室町以来の枝分かれですから「〇〇松平」が沢山あります。

その上、江戸期に分家したり、論考行賞として「松平姓」を下賜したりしましたから、幕末の大名家は「松平だらけ」になります。

薩摩松平(島津)阿波松平(蜂須賀)などなど、幕末の江戸地図で大名屋敷のほとんどは「松平」です。

家康の祖父・松平清康

家康の心のよりどころであったのが祖父・松平清康です。

松平一党の中では傑物で、家督を継いでから数年間で三河統一を成し遂げ、隣国尾張に攻め込むほどに勢力を拡大しました。

遠江に進出してきた今川も、三河には手が出せずにいました。

この祖父・清康が育てた三河家臣団の結束があればこそ、後の徳川軍団があります。

ただ、清康は子飼いの部下を大切にするあまり旧来からの部下たちと疎遠になりがちで、そのうちの一人が「自分は消される」と勘違いして清康を暗殺してしまいます。

一人の天才によって率いられていた三河武士団は内部分裂し、織田から逆襲されます。

家を守るには今川の力を借りるしかありません。

かくして・・・家康・竹千代の人質という物語になっていきます。

尾張での人質生活

今川に人質に行く予定が、戸田家の変心で織田の人質にされた・・・というのは有名な事件です。

「どうする家康」と言われても、5才の幼子ではどうも こうも しようがありません。

何が起きたのか、それすらわからなかったでしょうね。

余談になりますが、この裏切って人質を売った戸田家の末裔が私の故郷・松本城の城主として明治維新まで在番しています。

太閤記や家康物を読む度に、戸田家には好印象を持てません(笑) それもあって松本城を眺めるときは、築城した石川数正の方に親近感を覚えています。

家康にとって尾張での人質生活がどうだったのか? 

定説、従来からの多くの物語では「信長の奔放さに接して、兄のように親しみ、楽しんだ」という事になっていますが・・・果たしてどうでしょうか。

「信長に虐められ、小突き回され、それが心の傷・トラウマになって、その後の無理難題に逆らえなくなった」という説を採る小説もあります。

サテ・・・どうでしょうか。

本能寺の変の直前に家康が安土城に招かれます。

その折りには「暗殺されるかも・・・」という不安を、家康も臣下も共通に感じていたと言います。

固い絆・・・などと、美化する関係ではなかったと思いますね。

安土への出張には徳川家の主立った家臣全員を連れて行きました。

「私を殺せば・・・この者たちも暴れ回って全員斬り死にします。

織田軍団で最強の徳川軍団は、指導者全員を失い使い物にならなくなりますよ」

こんなメッセージも見え隠れします。

人質交換

家康が「織田の人質」から「今川の人質」に移動させられたのは、雪斎禅師の作戦、策略です。

雪斎は三河を確実に今川支配下に置くために、松平に恩を売る作戦を行います

。三河と尾張の境にある織田方の安祥城を急襲し、織田信秀の長男を捕虜にします。

捕虜交換の提案に、織田信秀が渋々応じます。

かくして竹千代は名古屋から静岡へと移りますが囚人に変わりはありません。

名古屋刑務所から静岡刑務所へ・・・そういう環境変化でした。

<参考>

松平家系図

 松平郷    岩津城  岡崎周辺を支配  本拠・安城   今川が侵入

① 松平親氏 ②泰親 ③信光  ④親忠 ⑤長親――――→

(徳阿弥)   安城城を奪取        西三河を支配  降参・今川配下に入る

  岡崎城築城・三河統一

⑥信忠 ⑦清康 ⑧広忠 ⑨家康

         水野忠正   - お大(久松家に再嫁)

         お富   - 信元

         (華陽院)

家康は初代徳阿弥・松平親氏からすると9代目になります。

親氏が上州(群馬)の徳川郷を出たのが1400年頃と言います。

仕官を求めてというか、就活の旅に出て・・・流れ着いたのが三河でした。

路銀に事欠いて、托鉢を目当ての乞食坊主・時宗の坊さんになっていたと言います。

松平家の婿養子になり、頭角を現します。

近隣の世話役、氏子総代的な立場から村長レベルまで出世していきます。

2代目の泰親は弟か、息子か、よくわかりませんが・・・先代の跡を継ぎ、従来からの地頭職が築いた岩津城を奪取します。

下克上ですね。

一郡を支配する土豪に出世しました。

3代目が岡崎周辺の支配を保持し、4代目になると西三河全体を視野に入れて領地拡大に動きます。

拠点となる安城を押さえ、西三河を制圧しました。

・・・が、東には今川が居ます。西には織田が居ます。

5代目の頃になると今川家が領土拡大に動き始めます。

三河に向かってきたのは伊勢新九郎・後の北条早雲が率いる今川軍の精鋭です。

東三河の戸田、牧野は今川の配下に組み入れられ、松平も「右にならえ」するしかありませんでした。

6代目は今川の被官としておとなしくしていましたが、7代目の清康の代になって今川に反旗を翻します。

今川家が後継者争いで揉めていた隙を突いて独立し、東三河も傘下に収めて三河一国を統一してしまいました。

今川のエース・伊勢新九郎(北条早雲)は、すでに独立を目指して伊豆から相模へと東進しています。

今川領の西部はエアポケットでした。

清康は更に尾張進出を狙います。

破竹の勢いで尾張半国を制圧しますが、そこで・・・「清康に嫌われた」と疑心暗鬼に陥った部下に暗殺されてしまいます。

スーパーマン清康を失った松平は、織田と今川の誘いに組織が乱れ分断されていきます。

8代目の広忠は今川の力を借りて領内を治めるしか手段がなくなりました。

身売りして子会社になる・・・6代目の時代に逆戻りでした。

子会社として忠誠を誓う・・・その証が9代目、家康の人質でした。

<参考>三河松平の年表(清康~家康)

1529 清康(祖父)岡崎に築城 三河統一

  35 清康死す(部下による暗殺)

       三河国分裂、勢力分散化

  37 広忠 今川家の支援で岡崎城に復帰 今川の配下に入る

  41 家康(竹千代)生まれる

  47 家康を今川へ人質に出すも、戸田の裏切りで織田家に送られる

  48 小豆坂(岡崎城下)の合戦 ・・・織田と今川の激突

  49 広忠死す(部下による暗殺)

     今川軍師・雪斎が安祥城を攻撃、織田信広(織田家・長男)を捕虜にする

     人質交換(家康⇔信広)で家康は駿府に移される

1555 家康元服 元信と名乗る

  56 岡崎へ 元服、家督後継のお披露目のため一時帰省

  57 築山殿と結婚

  58 元信から元康に改名

  59 初陣 三河の寺部、挙母などの織田方を攻める

     長男・竹千代(信康)生まれる

  60 長女・亀姫生まれる

桶狭間の戦い

今川義元討死

今回の物語は年表のどの辺りから始まりますかね? 

予告編では桶狭間の合戦場面が流れています。

駿府での平穏な日々・・・そこから急転直下で桶狭間の混乱へ・・・そして、今川支配からの独立・・・そんなストーリーでしょうか。

家康の正妻は「築山殿」と書きましたが、築山殿というのは三河に移ってからの呼称です。

当時は女性に名がありませんでした。

結婚すると、慣例として実家の名で呼ばれることが多かったので「関口どの」か「刑部どの」ではなかったかと思います。

関口刑部小輔の娘というのが戸籍上の呼び名です。

あるいは幼名の鶴姫か? まぁ、この辺りは脚本家の好みです。

松平元康  ―信康

   関口刑部―――築山殿   ―亀姫

  ―義元の妹

  ―今川義元

関口刑部の娘と言うより・・・今川義元の姪・・・と言う方がわかりやすいですね。

今川家、即ち足利幕府の正統な家系からの嫁入りと言うことになります。

だから「権高く、嫉妬深く嫌な女」と時代小説家は書きますが、今回の配役は有村架純です。

そういう女に似合いません。

可愛くて賢い・・・今までと違う築山殿に期待しています。