海人の夢 第1回 清盛登場

文聞亭笑一

【紺色文字は原作(平清盛:藤本有紀他著)からの引用です。】

昨年の主役、徳川お江に代わって、いよいよ平清盛が登場します。この二人、なぜか共通点があります。お分かりでしょうか?

そうです。二人とも娘を天皇の后に送り込み、自分の孫を天皇にしてしまったのです。

400年ほどの時空を越えて、二人とも天皇の祖父、祖母となった人たちです。清盛の娘徳子が安徳天皇を生み、お江の娘和子が明正天皇を生んでいます。

この二人を、敢えて続けたNHKに何か魂胆があるのでは…と考えるのは下衆(げす)の勘ぐりですが、現在の皇室も皇位継承を巡って、数年前から議論が始まっていますからね。女帝誕生を認める法律改正は、秋篠宮家に男子が誕生して沙汰やみになりましたが、それでも継承権者が少なすぎると、女性宮家の創設が議論されだしています。少子高齢化は皇室といえども例外にしてくれません。また、次の皇后が原因不明の病気で公務に就けないなどという問題もあって、週刊誌や三流マスコミの格好の餌食になっています。まぁ、400年周期で皇位継承にかかわる動きがあるのか? ?!ドラマとは関係ありませんね。

1、「河野や村上が、この瀬戸内の海賊大将と誇っていた世も、今日で終わりだ。わしが平家の水軍を破れば、瀬戸内はおろか紀州熊野の海賊まで、わが手の下につくは必定」
佐伯五東次は、舟(ふな)櫓(やぐら)の上で胸を張り、大きな声で言った。

NHKがどういう場面から描き始めるのか全く見当もつきませんが、村上元三の「平清盛」は引用したように倉橋島の海賊、佐伯五東次が平家の率いる水軍との海戦に向かう場面から始まります。佐伯海賊は瀬戸内の新興勢力ですが、近年力をつけて備後、備中方面に勢力を築き上げつつありました。その強さの元になっていたのは、当時にしては巨船といわれるほどの飛神丸で、800石積だったといいます。一艘に百人を超える兵士が乗り込み、高い位置から下に向かって矢を放つのですから、小船が束になってかかっても敵いません。矢を射るだけでなく、石や丸太を投げ落とされたら、近づく敵船は転覆させられてしまいます。さらに、大型船同志の闘いになっても、甲板の高さは決定的な戦力の差になります。上からなら飛び降りるだけですから、一度に大人数が攻撃に参加できます。一方、低い甲板から攻撃するには、ハシゴ、縄ハシゴなどが必要ですし、梯子の上では両手がふさがっていて戦えません。後世の海軍で言えば5000tクラスの巡洋艦を相手に、戦艦大和が戦うようなものだったでしょうね。

江戸期の廻船が千石積み程度で最大でしたから、八百石積みの船があったということは、相当に高い造船技術があったと言わざるをえません。が、五重塔や大仏殿を建てる大工の腕は奈良時代からありましたから、数十メートルの竜骨を持つ船を作る木工技術があっても不思議ではありません。構造設計の技術は中国から伝わってきていたのでしょう。

平家の水軍の一翼を担う河野水軍は、伊予に本拠を置き四国方面に根拠地を持ちます。 村上水軍は安芸、大三島に本拠を置き、瀬戸内の中国地方寄りに散在する島々を傘下に入れています。いずれも操船技術に卓越した海の男を多数抱えて、百石積みほどの兵船を多数所有しているのが強みです。敵を取り囲んで、四方八方から攻撃を仕掛けるという集団戦法が得意ですね。

ですからこの海戦は大鑑巨砲主義の佐伯水軍と、集団戦法の河野・村上連合軍の戦いです。

2、海賊というのは、後世のような海上での盗賊ではなく、水軍の意味であった。
そして、瀬戸内海を通る商い船の航海安全を図ってやる代わりに、船の大きさや積荷の額によって、品物を取り上げる。宋の国から銭は入っているが、どこでも通用するというわけに行かず、海賊たちも銭を受け取るのを喜ばない。

まえがきでも書きましたが、海賊というのは京の公家、中央政府がつけた呼び名で、盗賊ではありません。私設税務署、兼海上保安庁です。というほどに、海上盗賊も跋扈していたのです。当時、関門海峡を通過した船は、村上に税を払い、河野に税を払い、来島に、そして佐伯五東次にも税を払わなくてはなりません。半端な額ではありません。宋で仕入れた絹織物が都では仕入れ値の100倍になってもおかしくないのです。

ここら辺りのカラクリは、現代でも同様でベトナムの農民が10円で売った玉葱を、都会の消費者が100円で買うことになります。流通というのは経路が長くなればなるほどに値段が釣りあがり、百倍、千倍など当たり前なのです。そのくせ、誰かが暴利をむさぼっているわけでもありません。運賃、手間賃を積分すれば、適正価格になってしまいます。

現代日本人は、「海賊」といえばマダガスカルやマラッカ海峡の海上強盗団を想像しますが、海の道にも関所はあるのです。領海という概念は平安時代からあるのです。

貨幣に関して、平安期で共通貨幣として使われていたいのは、宋から輸入した銅銭です。

デザインもマチマチ、銅の含有量もマチマチ、庶民は全く信用しません。ですから、この頃から戦国期まで、日本の貨幣は「貫」が単位になります。要するに重さですよね。

通貨統合は、実は大事業で、日本では家康の時代になってやっと安定しました。今ヨーロッパで基軸通貨になっているユーロ、これとて信用度が低いのです。ギリシャ、イタリア、その弊害が出ていますね。中国の元も然り。円の信用の高さはその歴史にもあります。

3、丁度風は東から吹き、潮も西に向かって流れている。敵の船団に向かって攻撃を仕掛けるには、絶好の天気であり、そして佐伯五東次の率いる船団は、水の利を得ていた。

師走の一ヶ月間、秋山真之が主役の「坂の上の雲」で日本海海戦のシーンを見ていただけに、船戦に関しては、かなり知識を得ました。幼い頃、爺さんが秘蔵していた日本海海戦の、詳細記録本の内容を思い出して、いちいち納得していました。「敵艦見ゆ」と報告したのが信濃丸。その名前だけで山猿の血が沸き、胸が踊ったものです。

瀬戸内海は潮流が早く、しかも一日に何度か潮流の向きが変わります。月と太陽との位置関係で外洋と瀬戸内の海水が出入りします。鳴門の渦潮などは、まさにその典型ですよね。潮に乗れば船は早く進みます。さらに追い風なら帆が使えます。それ以上に、追い風なら弓矢の戦いでは決定的な戦力の差を生みます。追い風に乗れば射程が延び、向かい風では射程が短くなりますから、片や戦力倍増、一方は戦力半減です。倍半分、同じ人数だったら4倍の戦力差になりますから、勝負の行方は明白です。佐伯五東次の自信の根源はここにありました。書き出しでの豪語は、その通りなのです。

勿論、そんなことは河野や村上が知らぬはずはありません。判った上で決戦に乗りだして来たのですから、相応の作戦があります。圧倒的に不利な状態で、戦争を仕掛けるはずがありません。不利な状態を作って、佐伯水軍をおびき出したのです。「皮を斬らせて肉を斬る、肉を斬らせて骨を断つ」そういう決戦スタイルです。「天気晴朗なれど波高し」という環境の中で、両軍の戦いが始まります。

「敵艦見ゆ」の報告に佐伯五東次は勇みます。佐伯船団は横一列、潮と風の利を生かして、一斉攻撃に掛かります。が…平家軍は3隊に別れ、縦長になって佐伯軍の一点突破を目指します。どこかの破れをついて風上、潮上に立とうという戦術に出ました。

4、自分も太刀をかざし、佐伯五東次も平家の兵士と戦っているうちに、ふと目に入ったのは、いま縄梯子から飛神丸の船上におどりこんできた一人の武者であった。
まだ、二十歳になってはいまい。烏帽子をいただき、緋おどしの鎧に、太刀を振るっている。その太刀の柄は、黄金であった。
背は、あまり高くない。肩幅は広い。色が白く、眉は濃い。美男というのではないが、目は鋭く、一目見たら忘れられない、といった感じの若武者であった。

圧倒的に勝てるはずの佐伯水軍が、乱戦に持ち込まれてしまったのは陸上部隊の働きでした。総大将の平忠盛は、水軍の中にはいなかったのです。水軍は息子の清盛に任せ、留守になった倉橋島の佐伯の根拠地を急襲しました。男は皆、海上に出払った留守宅です。

当時、空き巣狙い…という言葉があったかどうかは判りませんが、年寄りと女子供が守る島は、黒煙に包まれます。その煙が風に乗って佐伯水軍の頭上に漂ってきます。それを見た佐伯の戦士たちは戦いどころではありません。前からは平家の赤い旗が迫ってきます。後方からは黒煙の間に・間に我が家の燃える赤い火が見えます。女房子供…これが気にならない男などいません。飛神丸の護衛船団は次々陣を離れ、倉橋島に戻ってしまいます。

戦艦大和も護衛船団なしには戦えませんでした。飛神丸も平家水軍に接舷され次々と平家の数の力に蹂躙(じゅうりん)されていきます。

そこへ、平家水軍総督、清盛が乗り込んできます。カッコいいですねぇ。

さて、この後の展開は1月8日の放送を見てからのお話です。最近、金儲けが得意になったNHKは、あらすじを予告しませんからねぇ。困ったもんです。