海人の夢 第4回 殿上人

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

日本の歴史を眺めてみると、面白いことに気がつきます。400〜500年を一つの周期として、時代が動きます。西暦の年代が400で割り切れる頃、つまり今現在、関が原の戦い(1600年)、そして鎌倉幕府(1192年)、平安遷都(794年)、大化の改新(450年)、卑弥呼の頃と…入試に出るような年号の頃には、大きな出来事があります。

これと、気候変動が連動しているところが面白いですね。いずれも、温暖化の時代です。

地球が温暖化の周期を迎えると、植物が良く育ちます。それを食料にする獣や魚も繁殖します。そして、食物連鎖の頂点にいる人間も、人口が増え、身体も寒冷期に比べて大きく育ちます。この辺りが温暖化の後半とすれば、その200年前は寒冷化の底が来ますね。

江戸時代末期、南北朝騒乱の頃など飢饉で飢え死にする人が多かった時代です。

我々の住む地球は、万年、億年単位で熱帯期、氷河期を繰り返します。火山活動が活発になって、雲に蔽われ、温暖化を迎える時期もあります。気候変動を繰り返していますよね。

今や、世界的に温暖化防止の大合唱ですが、百年、千年の単位で考えたら、大した問題ではないはずです。あの問題は、石油資源の枯渇を怖れた先進国が、資源を守るために御用学者を総動員して仕掛けた、陰謀ではないかと…思ったりしています(笑)

化学技術の重要な原料、魔法の水である石油を、エネルギー源として燃やしてしまうという野蛮さを「なんとか阻止したい」というのが先進国の思惑ですが、代替エネルギーとして期待した原子力が福島で事故を起こし、北朝鮮やイランの核爆弾にも繋がってしまいました。温暖化防止の会議、COPが前に進まないのは、その点を途上国に見透かされた結果で、当然なのかもしれません。

ともかく、……清盛の生きた時代は、現在に似た地球環境だったと思います。

10、平忠盛は但馬守に任ぜられ、土木のことを司るよう朝命を受けた。
鳥羽上皇が得長寿院を建立しよう、という志を立てられたからだが、そのために忠盛は、内昇殿を許された。昇殿とは、御所の清涼殿の南面にある殿上の間に上がるのを許されることだが、公卿でも、全て許されるとは限っていない。殿上を許された人々を殿(てん)上人(じょうびと)、堂上といい、許されない者たちは地(じ)下人(げびと)と呼ばれる。

白河法皇の晩年は、宗教や陰陽師(おんみょうじ)のようなインチキ占いに惑わされて、とんでもない政治をしましたが、その後を継いだ鳥羽上皇も、仏教界の誘惑にそそのかされて箱物に執心します。天皇が変わるごとに大規模な寺院や神社を建てていたら、国家財政は破綻します。

山門、本堂、五重塔などの大伽藍(がらん)を作り上げ、仏像を何体も彫り上げ、内装に贅を尽くすのですから、国家予算の何年か分を浪費します。

こういう仕事は平氏などに「賦役(ふえき)」という形で指示されますから、材料費、人工(にんく)代、間接経費を含めて膨大な負担ですが、それをやり遂げてこそ、実力が認められるのです。忠盛が得長寿院建立に膨大な資材を投入した結果として昇殿を許される身分になりました。

従来、藤原一門以外に認められなかった殿上人の地位が、成り上がり者の平氏に与えられたのですから、歓迎されるはずがありません。むしろ、あら捜しをし、失敗させて足を掬おうという者たちがほとんどです。藤原一門の独占に楔(くさび)が打ち込まれることにも腹が立つでしょうが、藤原一門でも殿上人になれないもののほうが多いのです。

まぁ、この辺り、現代のサラリーマンと変わりありませんね。創業家や世襲社員で独占されていた役員会に、たたき上げの社員が抜擢されたようなものです。あるいは、キャリア組だけで固めている官僚組織に、民間から大臣、政務官が登用されたようなものです。

民主党が「政治主導」といいながら、官僚の言うがままにしか動けないのは、平安貴族の文化を濃厚に持つ官僚組織の手練手管に翻弄(ほんろう)されているからでしょう。

F04,清盛には忠盛、忠正、宗子が感激する様子が、不思議な情景のように映る。
取り立てられ、出世する。それが武士の生き方なのかと、どうしても納得できない。

殿上人になる、出世するということに、清盛は人生の価値を見出せません。

まぁ、仕方ありませんね。清盛はまだ中学生の年頃なのです。第2反抗期の真っ盛り、尻の青い正義感、理想主義で、大人たちの姿を批判的に眺めています。まぁ、誰でも一度は通る麻疹(はしか)の症状ですから、清盛だけが特別というわけでもありません。

「武士とは、庶民のために治安を維持し、豊かな生活を保障する役目である」というタテマエに傾倒していて、「どうすればそれが実現できるのか」というHow toには思いが及びません。まぁ、入社したばかりの新入社員が、先輩の昇進を小馬鹿にしつつ、そのくせ昇給を羨ましがる心情と同じでしょうね。「俺は世のため、人のために働く。ゴマすりなどは絶対にせぬ」と粋(いき)がっている場面でしょう。政治の何たるかがわかっていませんが、父親の姿に反発しておればこそ、後の大政治家、清盛へと育って行きます。

麻疹は軽いほうがいいですが、麻疹にかからなかった若者が、大人になって熱に浮かされると大変です。左翼組合などに入って反対、反対を叫び、デモ、ストライキなどと熱にうかされて、道を過ちます。

F05,「ここで行われておるは、ただの宴(うたげ)ではない。政(まつりごと)だ。皆それぞれ思惑があってここにおる。お父上とて同じだ。お前さんが今すべきは、あの姿をよく見ておくことだ」

一介の武士が殿上人になったというので、祝賀パーティーの連続です。政治家のパーティー、料亭での宴会ですから、当然その場は談合や、多数派工作の場でもあります。忠盛という新しい勢力を排除しようという勢力もあれば、味方に取り込んで自分の勢力を拡大しようという一派もあります。まぁ、永田町の夜の部を連想したら良いと思いますよ。

Oさんとか、Hさんが札束を用意して、与野党の責任者を口説いている姿、平安時代とちっとも変わってはいませんよね。

一口に藤原一門といっても、中臣鎌足から既に800年が経過しています。京の町では、石を投げたら藤原に当たるほど、増殖していますよね。ですから藤原でもピンキリで関白から乞食までいます。が、政治に参画できるのはほんの一部の公卿たちだけです。公卿とは官位が従三位以上をいい、それ以下を公家といいます。従四位の忠盛が殿上人になるなどは異例中の異例です。

これも、会社の役員会を思い描いてください。会社の方針を決定する常務会に、役員でもない部長が常勤メンバとして出席し、意見を述べることができるという立場です。

さて、引用した部分は北面の武士として清盛の同僚、というより先輩の佐藤義(のり)清(きよ)の発言です。後の西行法師、歌聖として現代にまで数多くの名歌を残した歌人ですが、武道にも優れたスーパーマン的な武士でした。当然、殿上の女性たちにも人気があり、ファンレターに埋もれていましたね。乱暴者の清盛とは正反対ですが、性格が反対なほど友達になりやすいという通り、先輩として清盛の軽率な行動、言動を注意しています。

F06,「為義殿、斬り合いとならば源氏も平氏もここで終わりぞ。源氏と平氏、どちらが強いか。それはまだ先にとっておくことは出来ぬか? この勝負は武士が朝廷に対して、十分な力を得てからでもよいのではないか」

白河法皇没後、朝廷では鳥羽上皇派と、関白・藤原忠実派に分かれて主導権争いをしています。平家、忠盛は上皇によって抜擢された立場ですから、当然上皇派ですが、平家に遅れをとって焦る源氏、為義は関白忠実派に組みします。

「お前が出世したかったら、忠盛を消せ」

忠実から教唆されて、為義は殿中の廊下で忠盛に斬りつけます。なんとなく…、忠臣蔵の殿中松の廊下みたいな話ですが、これは作り話でしょうね(笑)御所の廊下で斬り合いなどしたら、どちらも死罪です。いくら為義が焦っていても、時と場所を考えるはずです。

相手を殺しても、自分も咎められることをするはずはありません。

ただ、筆者がわざわざ「松の廊下」まで準備したほど、源氏と平家のライバル意識は強くなっていました。これは統領の忠盛、為義という個人のレベルではなく、一族郎党が膨れ上がり、党と党の対立になっています。出世するということは領地の支配権が増えますから、多くの郎党を養えます。現に、忠盛は但馬守を拝命しましたから、兵庫県北部地方を新たに領地に加えました。伊勢、伊賀に次いで但馬ですから随分と大きな身上ですよね。

今でこそ日本海側は裏日本などといわれますが、この当時の表日本は日本海側です。商流、物流は日本海という海の道を通じて、青森の十三湊から宋の国まで繋がっていたのです。

その意味で、但馬は伊勢、伊賀よりも上国でもありました。

このあたり…現代の感覚でいると、判断を誤ります。源氏が根拠地にしていた関東などは不毛な僻地なのです。面積が広いだけで、米が取れないマタギの土地なのです。