乱に咲く花 09 算術が基本

文聞亭笑一

松陰による松下村塾での講義が始まり、今週は長州の麒麟児(きりんじ)と言われた高杉晋作が入門してくる場面のようです。晋作が入門したきっかけは作家によってさまざまな動機が描かれますが、どの筋書きを見ても藩校・明倫館の授業に退屈していて、退屈凌ぎに、冷かし気分で噂の高い松下村塾を覗いてみた、というストーリーになっています。

昔の映画に市川右太衛門主演の「旗本退屈男」という時代劇がありましたが、あれに出てくるような立場が高杉晋作です。長州藩にあって高杉の家は大番組、つまり馬廻の旗本であり、しかも家老に次ぐほどの名家でした。上級武士の御曹司です。

余談になりますが、長州藩には面白い伝統があって、毎年正月元日の総登城の日に

「獅子の廊下の儀」というものが執り行われます。藩士の代表が

「今年は徳川を討ちますか」と聞き、藩主が「いや、今年は見合わせよう」と答えるという…それだけのことなのですが、250年前の関ヶ原とその戦後処理についての不満を確認し合う儀式です。晋作の父・高杉小忠太もその役割をしたことがあるようです。

こういう儀式は薩摩藩でもあったようで、毎年9月15日に妙円寺参りというものがあります。武士たちが三々五々参拝して「チェスト関が原!」と叫んで帰るというもので、郷中と言われた青年団が参拝する時は、その声でお寺の鐘が割れんばかりだったと言われます。これも関ヶ原の恨みでしょうね。9月15日は関が原で敗れた島津義弘が、命からがら帰国した日です。

こんなところから「明治維新は関が原の復讐(ふくしゅう)戦だ」と言われます。が、250年以上前の話が維新の直接動機になったということはないでしょう。勤続疲労を起こしていた幕藩体制を、経済力のある西国雄藩が連合して倒したとみるべきでしょう。長州も、薩摩も、貿易と物産の流通で、かなりな財力を蓄えていたことは事実です。

もう一つ、長州藩の事情を付け加えておきます。

一口に長州藩と言いますが、領国は長門(長州)と周防(防州)の二か国32万石です。

ただ、徳川幕府の強い警戒感から本城は日本海側の萩に決められ、瀬戸内側は分家や、吉川家などの支藩に任される形になりました。下関港などの美味しい所は分家に取られ、萩に押し込められた形です。そこまでの内政干渉をやった家康と本多正純。二人がいかに毛利を警戒していたかの証でもあります。江戸城の普請も西から攻めてくる敵に備えています。家康にとって仮想敵国は毛利でした。250年後、その通りになります。

日本と世界はどうなっているか、ということは、松本村の村塾に行けばわかる。という評判すらあり、遠く安芸あたりからこれを見に来る人もあるという。
晋作は松蔭にも会いたいが、それも見たい。というより、晋作の印象ではこの海の底のような静かな萩の町で、川向うの松本村の一角だけが日本や世界の像を明らかにする照明の光源のように思われた。

退屈して詩文づくり、それに遊郭での酒と女に溺れている御曹司、…こうなると元禄頃に江戸を騒がせた白柄組(しらつかぐみ)などという暴力団を思い浮かべます。有り余ったエネルギーの吐き出し口を探して、他人が困ることで快感を覚えるという輩。いつの時代にも現れますね。まぁ、安保や大学紛争で騒いだ我々も、その一部かもしれません(笑)

ただ、高杉晋作は徒党を組んで暴れまわるということはしていません。いわば金持ちのボンで、頭も切れますから、学校がバカバカしくて仕方がないのです。「頭の悪い連中などと付き合っておれるか」というのが彼の自意識で、「面白い事」を探しあぐねていました。

そこへ流れてきたのが松下村塾の評判です。教師の小田村に確認してみたり、明倫館時代の学友である久坂玄瑞に聞いたりと情報を集めます。ただ、藩の重役である父親の小忠太からは「行ってはならぬ」と厳しく命令されています。ですから…行くための事件を作らなくてはなりません。「訪ねていったのではない。たまたま通りかかっただけだ」という言い訳を用意しなくてはなりませんが、晋作にとってはこれも遊びの一つだったでしょう。

高杉晋作は後に結核を患い、それで命を落としますが、この病気をもらったのは花街でしょうね。雑多な人種が出入りしますし、藩の財源である交易の関係から花街は船乗りたちが上客です。かれらは物の流通に携わりますが、病原菌の流行にも一役買います。

現代のHIVなどもそうですが、性病を広めたのは船乗りたちでしたね。麻薬の伝播にも旅をする人間と、退屈している若者が一役買います。オレオレ詐欺なども大方、若者たちの遊びの延長線上にあるかもしれません。猫も杓子も大学に行き、あまつさえ大学院に行き、暇を持て余すのが良いか悪いか。結果が出るのは先のことでしょう。

松陰は、高杉のような自負心の強い男は、一度その「頑質(がんしつ)」を傷つけて破らねばならぬと思った。文集を見ると、明倫館ではなるほど秀才かもしれないが、学問や、素養はまだ当人が気負っているほどには至らず、確かに久坂に劣る。むしろ久坂に対する競争心をあおると、必ず他日、非常の男子になると思った。

並行して読んでいる童門冬二の小説でも、松陰の人物鑑識力に関しては褒めちぎっています。我々凡人にとって、初対面で相手の性格を見抜くというのは至難の業ですが、それを的確に見抜いたのだと言います。ちょっと眉唾だなぁ…と思いながら読み進めています。

自負心の強さと頑固者はセットですね。<強い自負心=頑固>の公式は成り立つと思います。また、それがなくては改革などという力仕事は進められないでしょうね。ただ…、学ぶというスタンスにおいては障害であることは確かです。

ある人の説によれば「個性とあくどさは違う」と言います。

個性の発揮とは、人の優れた面を見つけ、受け入れるために自分を空っぽにすること

あくどさが残るというのは、自分にしがみつく未練があってそれを捨てないということ

・・・と、言っています。人の話を素直に聞けるか、聴けないか…そんなところでしょうか。現代では小学生のうちから「個性を伸ばす教育」が行われていますが、果たしてどんなものでしょうか。我侭の放置、過ぎたるは及ばざるが如し…のような気もします。

ともかく、松下村塾の二大看板となる高杉晋作と久坂玄瑞が揃いました。将棋の飛車と角行のような二人です。この二人、松陰亡き後は裏返って、「龍」と「馬」に変身します。

高杉晋作が村塾にやってきたころには、塾生もだいぶ増えていた。塾舎が八畳一間ではちょうど鶏小屋に人間がひしめいているようでなんともならない。松陰が、いっそ塾舎を建て増ししようかと言いだした。

この頃、既に維新劇の主要な配役となる若者たちが続々と入門してきています。松下村塾四天王と言われた高杉、久坂、吉田稔麿、入江九一などがいますし、野村靖、伊藤利助(博文)、前原一誠、品川弥次郎など明治の元勲のほかにも赤根武人、寺島忠三郎など錚々たるメンバーが揃います。

が、やや皮肉な見方をすれば維新が成功したればこそ、彼らは世に出たとも言えます。二度にわたる幕府の長州征伐や、4か国連合艦隊による攻撃で長州藩が敗戦していたら、国賊として歴史の表舞台に姿を現さなかったでしょうね。

松下村塾の教育は、地理、歴史、算術を主としていた。特に算術について、武士たちは卑しむ風があったが、松陰はこれを厳しく戒めた。
「今の我々にとって、算術ほど大切なものはない。算術は士農工商すべてが学ぶべきだ。なぜなら、世間のことは算盤(そろばん)玉(だま)を外れたことは全くないからである」

松陰は地理と歴史を必ずセットにして教えたと言います。私などから見ても、それこそ素晴らしいというか、当然だと思いますが、現代は地理と歴史をバラバラにして詰め込み型の教育をしています。品川弥次郎の回顧録に

「先生はいつも地図と照合して歴史を教えてくれた。古今の沿革や、彼我(ひが)の距離感などを詳(つまび)らかにしなければ歴史の事実は理解できないと言っていた。

『歴史と地理は密接不可分の関係にあって、地を離れて人なく、人を離れて事なし。
人事を極めんと欲すれば先ず地理を見よ』

と言われた」

……とあります。これには全く同感で、この時代の歴史を読むときに、京の巨(お)椋(ぐら)池(いけ)や、江戸の溜池などの存在を忘れたら理解できないことばかりです。時代を遡って古代史などを読むのに、縄文海進(現在より水位が10m近く上がる)を知らずには訳が分からなくなります。なぜこんな陸地の奥に貝塚があるのかなど…。奈良の都の中央には湖があったことや、戦国期の大阪城の位置・上町台地も、沼地に浮かぶ半島の上でしたからね。

算術、つまり経済を重視していたこと…これこそが松陰の松陰らしさです。言い換えれば「歴史は経済で動く」「戦争はすべて経済が原因で起きる」ということでもあります。

宗教を含む思想、理念は後付の理屈ではないでしょうか。