次郎坊伝 05 十年の時空

文聞亭笑一

物語は一気に10年の時空を飛びます。おとわは次郎法師と名を変えて龍潭寺での修行の毎日です。一方の亀の丞は、疎開先の信州松岡城で望郷の念に駆られながらも井伊谷には帰還できません。更にもう一人、鶴丸は井伊家を乗っ取ろうと画策する父親に反発しつつも、次第に、能力あるものが組織を指導し、力のある者に従うのが正しい道だと思うようになっていきます。

小学四年生の仲良し三人組が、中学生、高校生、そして大学生へと成長していく青春の真っただ中です。三人が三人、置かれた環境に依って、別の道に進むのは当然すぎるほど当然です。井伊谷の周りでは今川の圧力が日に日に増してきますが、今川義元の関心は井伊谷を飛び越えて三河の松平に向かっていますから、比較的平穏な10年でもありました。しかし、この十年1545年から1555年は戦国大名トーナメントが「ベスト16」ほどに淘汰されつつある時期で、全国各地では熾烈な戦いが繰り返されていました。1500年ころは「数百Vs数百」が戦う戦でしたが、統合が進むにつれて次第に戦闘の規模が大きくなり「数千Vs数千」さらに「万Vs万」の戦へと大型化していきます。

これが日本的戦争の特徴でもありますが、敵同士で戦っても、責任を取るのは大将だけで、部下は責任を取らされることがありません。「ごめんなさい、以後はあなたの部下になります」と言えば許されて、命を取られることはありませんから、勝った方は勢力が倍増していきます。トーナメントが一回戦、二回戦と進むにつれて弱小勢力は淘汰され、独立大名の数が絞られていきます。とりわけ中央(京)に近いほどトーナメントの進捗が早く、その分だけ大勢力が生まれやすくなります。

井伊谷の周り、東海から関東、そして北陸周辺は大勢力の勃興期に当たります。東では北条が関東平野全体に勢力を広げつつあり、北では武田が信濃への侵攻を始め破竹の勢いで勢力を拡大しています。西では織田信秀(信長の父)が三河、美濃方面に触手を伸ばし、その北には斎藤道三が控えます。更に北陸では越後の長尾景虎(上杉謙信)が日本海側の各地を併合しつつあります。名門・今川家とて、うかうかしていたら北条、武田、織田の侵略を受けかねません。従って周辺地域の非協力的領主は攻め滅ぼして、地盤を固める必要に迫られています。

今回は、この十年の各地の情勢を俯瞰してみます。

関東の北条

前号でも触れましたが、小田原の北条は元々今川家の執事であった北条早雲が、今川家の了解の基に、東に進出していった勢力です。関東公方を殺害し伊豆を乗っ取り、相模から関東管領の上杉を追いだして伊豆、相模の二か国を領有しました。今川の同盟国というか、分家が勢力を拡大したようなものです。

しかし、今川家の当主が代わります。北条も早雲から氏綱に代わります。そして三代目となれば祖父の代のことなど気にしていられません。今川義元と、北条氏康は、駿河と伊豆の国境をめぐって旧敵同士の間柄になります。

読者の皆さん、とりわけ関西の方々は「伊豆の国」というと、「伊豆半島だけ」と思われがちですが、伊豆の国と駿河の国は沼津を流れる黄瀬川を境にしています。黄瀬川は富士山の東麓・御殿場から裾野を流れ下る川です。ですから沼津、三島などの肥沃な平野は伊豆の国なのです。半島の先だけなら目の色を変えて争うほどではありませんが、富士の東側全体となれば奪い合うのは当然でしょう。北条は二代目・氏綱の時代に富士川の線まで兵を進め占領した時代がありました。「親父の早雲の時代に、我が家はここの領主であった」というのが侵略の大義名分です。

まぁ、侵略の大義などと云うのは、いつの時代も屁理屈です。中国の海洋進出、韓国の竹島、ロシアの北方領土・・・いずれも似たようなものです。ただ、三代目の氏康の時代に入ると、今川との腐れ縁で争うよりも、武蔵から上総・下総、さらに上野、下野の方が魅力的だと判断して、東から北へと矛先の重点を移します。この氏康の方向転換で、北条が一気に勢力を拡大していた時期でした。

甲斐の武田

この十年の間に武田家は、父の信虎を追いだした晴信(信玄)が実権を握り、信濃への侵略を本格化させます。父の信虎は、戦は上手かったのですが占領地管理が下手で、占領しても裏切られ、また占領しても・・・と云う繰り返しでしたが、信玄はその点で卓越していました。戦よりも政治が上手いのです。軍人というより経営者タイプですね。風の如く、火の如く侵攻して、奪った土地と住民を懐柔して、林の如く鎮め、山の如く不動の味方にしてしまいます。武田軍の強さとはこれで、攻撃より守備に強いタイプなのです。信濃では大した戦いもなく、じわじわと武田の占領地が増えていきます。しかも、住民の支持率が時と共に上昇して、戦わずして配下に加わる者たちが増えていきます。

亀の丞が疎開していた伊那谷もその一つで、信玄の勢力が諏訪から高遠に伸びてくると、それまでの主家であった諏訪家や小笠原家から離れて、武田に寝返る者が続出します。ただ、その速度は緩やかなもので、一気に伊那谷すべてが武田に靡いたわけではありません。じわじわと…と、これが信玄の言う火の如くでしょうね。野火が燃え広がるように武田色に染まっていきます。

亀の丞が隠れ住む松岡城、信濃では最も南に位置します。同じ伊那谷ですが高遠(伊那市)からは距離があります。武田の脅威は感じますが、依然として旧主の小笠原家や、山の向こうの木曽家との縁もあります。野火が広がってくるのを戦々恐々と眺めながら、身の置き所を考えていたのでしょう。とはいえ、武田と敵対する今川のゆかりの者を匿っているというのは好材料ではありません。その扱いについても色々な思惑が飛び交ったであろうと思われます。

越後の上杉

この時期はまだ、井伊家に影響が及ぶ存在ではありません。が、長尾景虎(謙信)が関東から逃げ込んできた上杉憲正から「上杉」の名跡を受け継いだあたりから、雲行きが怪しくなります。足利幕府体制に強い尊敬を持っていた謙信は、関東管領としての自覚に目覚めます。関東管領とは信濃、越後、甲斐、伊豆の国境・・・フォッサマグナから東の地域の支配権を持つという意味で、彼はそれに「義」の旗を掲げます。「この地域を我が手で治めよう」という使命感に駆られ、それにこだわります。

そうなると…信濃を勝手に私物化しようとしている武田信玄は、大悪党になります。

関東を席巻している北条氏康は、とんでもない無頼漢、反乱軍となります。

「退治せねばならぬ」と義憤に燃えます。「大義」原理主義…これが謙信の生き様ですね。

上杉は武田と川中島で、また上州箕輪で対決します。北条とは上州沼田で対決します。戦国トーナメントの準々決勝というところでしょうか。それに加えて今川義元、彼も政治・軍事共に、この三人に引けをとりません。戦国武将の中では東国最強カルテットなのです。

尾張の織田信秀

この四人に比べたら弱小勢力ではありますが、尾張は東西の交流の中間に位置します。経済的に有利な位置を占めます。いずれ、三河の領有をめぐって今川と対決することにはなりますが、権威主義の今川よりも、実利中心の織田の方が庶民の人気は高いのです。今川の矛先が向かうのは三河、織田の矛先が向かうのも三河、この凌ぎあいが・・・この10年でした。

家康の奪い合い

まだ家康ではありませんね。松平竹千代です。家康の生まれは1542年、次郎坊が出家した時は3歳です。この家康を、今川が人質とするか、織田が人質とするか…、これが織田Vs今川戦の始まりです。ベスト8をかけた戦いの幕開けです。

家康の父、松平広忠は今川を選びます。竹千代を駿府に送ろうと舟に乗せるのですが、三河の地侍たちは織田贔屓(ひいき)です。刈谷の水野、田原の戸田が結託して、竹千代の乗った船を熱田に回航してしまいます。父の意に反して、竹千代は織田の人質になり、そこで信長と出会います。

この辺りは、信長公記、太閤記、また小説でも散々語りつくされたところですから省きますが、家康にとっては人生最大のピンチだったと思われます。本人の意志とはかかわりなく、周りの思惑で自分の命が取引されていたようなものでした。結局は、人質交換と云う形で今川の人質になるのですが、この間の駆け引きだけで、山岡荘八などは文庫本一冊分くらい使います。

これが1549年ですから、亀の丞が井伊谷に帰る6年前です。駿府時代の家康・・・手に負えぬヤンチャ小僧で、ところわきまえず立小便、女の裸の覗き、手に負えぬ厄介者で、叱られ役は常に石川数正でした。そのうちドラマにも出てきますが、後に豊臣に寝返り、国宝松本城を建てた男です。

秀吉・今川に勤める

この時期です。後の秀吉・日吉丸が駿府で今川の家臣・松下嘉兵衛の家来として侍修業をしています。秀吉は1537年の生まれですから、次郎坊が出家した時にはまだ8歳、松下屋敷に奉公したのは、亀の丞が帰ってくる直前くらいでしょうね。1553年くらいでしょうか。今川の厳格な礼儀作法に愛想をつかして尾張に戻っています。

これくらいで東日本のベスト8進出者の紹介を終わりますが、織田信秀の代打で出てきてホームランを打ったのが信長、そのまた代打で逆転満塁ホームランを打ったのが秀吉、その裏の守りで敵を完封し勝利投手になったのが家康。まぁそんな役回りですね。

松岡城での亀の丞

亀の丞は10年近く信州市田の庄、松岡城下にある松源寺で過ごしています。出家していません。南渓和尚の仏縁で疎開していたわけで、一種の間借りです。居候です。しかし、天性の賢さが松岡城の当主に気に入られ、城への出入りは自由で、しかも重臣の息子たちと一緒に教育を受けています。

そればかりではなく、元服をさせてもらいます。元服とは、いまの成人式で、かつ、妻帯するということです。初陣をするということでもあります。成人・妻帯・軍役3点セットですね。

亀の丞は、幼名から名を変えたと思いますが、元服した時に何と名乗ったのか・・・わかりません。が、松岡城の城主の計らいで、伊那郡島田村の代官・塩沢氏の娘を妻に迎えています。

「おとわという許嫁がありながら…」と、女性読者はお怒りでしょうが、居候の身にとって主人の好意を無にするわけにはいきません。それに、この時代は一夫一婦の概念のない時代です。リーダたるものは相手を問わず、血統を残すことが第一なのです。秀吉の女漁りなどはその典型で、子どもさえ生んでくれたら誰でも良いと言った感じでしたね。亀の丞は、不倫をしたわけではありません。

嫁を持ったということは、松源寺を出たということを意味します。禅寺で夫婦生活は許されません。

亀の丞は井伊谷に帰る前に、二人の子を設けたとあります。女の子と男の子。ただ、井伊家の家譜では女の子しか記録に残っていません。飯田市の郷土史では、男の子は後に「島田屋」の名で麹屋を開業し、井伊吉右衛門を名乗って、明治まで残ったと言います。