09 教育国・美濃(2020年3月11日)

文聞亭笑一

今回も光秀と帰蝶、お駒の三角関係を中心に、時間がゆったりと流れました。

前回は1549年の、東海地方における斉藤、織田、今川の力関係をなぞりました。

この三者、典型的に出自を異にします。尤も正当な政権は今川家で、足利将軍家に何かがあればNo2は三河の吉良家、そしてNo3は駿河の今川家が将軍職を継ぐ掟になっていました。

当時、三河の吉良家は勢力を失っていましたから、今川家は実質的にNo2の位置づけにあります。

それに引きかえ、尾張の織田家・信秀、信長の家は守護である斯波家の守護代である織田本家ではなく、その下請けの小守護代の身分です。下剋上で尾張の有力者になりあがった家です。

さらに美濃の斉藤は、守護の土岐家の守護代・斉藤家を、小守護代の長井家が乗っ取り、その長井家を乗っ取ったのが京の油売り・奈良屋の松波庄九郎という典型的下剋上の家柄でした。

物語の関係者?…と言うのか、東海地区の家柄を表にしてみました。足利幕府創設当時からの名門は殆ど消え去り、今川を除いてはどれもこれも下克上での成り上がりです。

あえて越前をこの表に入れたのは、元々、斯波家が尾張と越前を領有していたから、織田家と朝倉家は斯波家の家臣同士なのです。このことが後々・・・信長と朝倉義景の関係に影を差します。

朝倉家(守護代)から見たら、織田信長の家(小守護代)は、同じ斯波家の家臣団の中で格が低いのです。「そんな奴の言うことが聞けるか!」という感覚、わかるような気がしたり、しなかったり…ですねぇ。

光秀の教養

明智光秀の前半生を伝える書物は殆どありません。理由は、山﨑の合戦で天下を握った秀吉が徹底的に光秀の業績を消したことと、江戸時代にかけての儒教教育で光秀が反面教師、極悪人にされたことに依ります。資料は殆ど消されました。

しかし、信長と共に「天下布武」に向かう上で、光秀が担った外交能力の高さは際立っています。公家や、将軍家を相手に、その教養の高さはどの歴史資料でも認めています。光秀は、いつ、どこで、教養を身に付けたのでしょうか?

まず言えることですが、基礎学力(読み書き算盤)がないと高度な知識、識見の世界には入っていけません。テレビでは1549年をやっていますから、1528年生まれの光秀は21歳です。それ以前に、かなりな学力を身に付けていたと想定されます。

光秀が学んだのは寺でしょうね。当時の美濃は全国でも指折りの教育国でした。とりわけ禅宗・臨済宗妙心寺派の高僧を輩出する土地柄で、有名人が各地から招かれています。

もっとも有名なのが、武田信玄に招かれて甲斐・恵林寺の住職になり、信玄の相談役を務めた快川和尚・快川紹喜です。「心頭滅却すれば、火もまた涼し」と、最後まで信長に抵抗しました。

伊達政宗の家庭教師として有名な虎哉禅師・虎哉宗乙も、美濃出身の禅僧です。

いずれ物語に登場すると思いますが、秀吉の軍師を務める竹中半兵衛・・・彼も、美濃斉藤家の家臣です。知恵者と言われる者が多く輩出する土地柄には、それなりの環境があります。一つは貧しいこと、二つ目は優秀な教師、指導者がいることでしょうか。

木曽川の流れ

歴史ドラマを見るにあたって、気を付けないといけないことの一つに地形があります。私たちは現在の地形を見て、「400年前もそうであろう」と思いこみますが、とうじと現代はかなり違います。とりわけ都市部は江戸期の大干拓、昭和の大干拓で海が陸に変わっています。更に、干拓のために河川の流路を変えています。

最も典型的なのが家康による江戸の町づくりで、現在の隅田川の川筋付近を流れていた大利根、利根川を東へ、東へと追いやり、江戸川からついには銚子にまで追いやってしまいました。

現在の東京23区に大きな水害がなくなった根本は家康による「利根川東遷工事」の恩恵です。

同様に、木曽川を現在の川筋に固定させたのも家康です。名古屋城の建設に際し、木曽川の流れを現在の位置に固定させ、治水工事を行いました。この工事を担当させられたのが、関ヶ原戦で西軍に付いた島津藩です。

大工事、難工事で失敗する度に責任者が犠牲になり、この時の恨みが明治維新の原動力になったなどと噂されます。

したがって、「道三、信長の時代に木曽川が現在の水路を流れていた」と考えるのは間違いです。木曽川は濃尾平野に出ると暴れに暴れ、流路さえ定かでなかったと言われます。

この木曽川が、現在の位置に固定され始めたのは天正17年の大洪水以後と言いますから、1590年ころです。この時の水害は昭和の伊勢湾台風に匹敵するといわれるほどで、濃尾平野全体が壊滅的被害を受けたようですね。

ともかく、もっと名古屋市内寄りを、スサノウが退治した八岐大蛇のように、分流、合流を繰り返して流れていた木曽川を、長良川の流路の方に追いやりました。

江戸時代の名古屋を見るには、面白い動画があります。U―tubeでNetwork2010を検索してみてください。桶狭間から名古屋に至る街道筋や、江戸期の名古屋市内を案内してくれます。

出て来なかったら…「名古屋」「古地図」で検索してみてください。

参考までに奈良時代の想定地図を載せてみます。

熱田は右下、半島の先っぽです。海に面して交易の中心の場所にありました。

尾張一宮、一の宮は中島という島です。そのほか津島、長島、枇杷島、飛島など島のつく地名は本当に「島」であったことが分かります。

1300年の間に、濃尾三川(木曽川、長良川、揖斐川)が上流から土砂を運び、太平洋プレートが日本列島を押し上げて海岸線を後退させました。

それに加えて、干拓事業が進みました。この地図の大半は今や陸地ですね。古地図から想像を膨らませてください。