10 良妻賢母(2020年3月18日)

文聞亭笑一

前回は信長と帰蝶の出会い、そして光秀とその妻になる煕子の再会など、主役たちの私生活を描写することで時間が過ぎ去りました。そうそう、もう一人の主役・家康の境遇もテーマでした。

冒頭の場面で家康の父・松平広忠が暗殺される場面が出てきました。司馬遼太郎にせよ、山岡宗八にせよ、今までの小説家は「岩松八弥による暗殺説」をとっていますが、今回は織田信長の工作した一揆勢による暗殺という説をとりましたね。

実のところは・・・わかっていません。この犯人が今川の手の者であるという説がないのが不思議で、今川家にすれば松平を追いだして三河を併合してしまうのには領主不在が最も都合の良いことです。

18歳の信長が、一揆の者たちを使嗾して暗殺を仕掛けた、というのは少々・・・無理があります。

が、ともかく、信長は虚け(うつけ)ではなく、政治判断も確かで果断な男である…、という物語の演出上の伏線でしょう。

第1節 光秀の妻・煕子(ひろこ)

最後の方になって、光秀の妻となる妻木氏の娘・煕子が登場しました。

「光秀は主殺しをした悪い奴だが、その妻は良妻賢母の鏡である」というのが、江戸期の評価で、その定義に基づいて各種の物語が書かれました。光秀を悪い奴にしておかないと、織田家を奪った秀吉、その豊臣家を乗っ取った家康の理屈が立ちません。

二人とも、文句なしの「下剋上」をやって政権をとりましたが、それを正義の味方・月光仮面にするためには屁理屈が必要です。信長公記、太閤記を書かせた秀吉、林羅山を使って朱子学を始めた家康・・・いずれも後ろめたさを感じつつも、自らの正統性を主張します。

「歴史書」「古典」というのは、そういう勝者の屁理屈を連ねたものですから証拠的価値は低いと思うのですが、…歴史学者という人たちはなぜか後生大事に古典を使います。

ついでですから私見を述べると、歴史学者さんたちは古代の日本の王を、なぜ「卑弥呼」と書くのでしょうか? 

確かに魏志倭人伝には「卑弥呼」と書いてありますが、当時の日本には文字がありませんから、言われた使節団もどういう意味かは全くわかりません。

しかし、文字の意味するところは「卑しく、弥栄を、呼ぶ」・・・つまり、髪を振り乱して絶叫し、神がかりになる巫女のイメージです。

日御子の使者たちは、魏の官僚から自分たちの王について訊問されたと思います。

「その方たちの王の名は何と申す?」

「へぇ、へぇ、日御子(ヒミコ・himiko)様と申しますだ」

「ヒミコか。いかなる字を書く?」

「字? 字とは何でごぜぇますだ?」

こんな会話の後に、思い切りバカにされた文字を、名前にあてはめられたと思います。

ヒミコ、日御子とは太陽神、天照大神のことですよ。下北・恐山の巫女さんとは違います。

脱線しました(笑)今回はヒミコではなく、ヒロコ、煕子、光秀の妻の話です。

光秀の妻の名は・・・確かな文書には残っていません。江戸時代の絵本太閤記には「照子」とあります。その他の記録には「妻木範煕女」とあって名前はありません。この当時はそれが普通で、男尊女卑の世界なのです。

芭蕉が「月さびよ 明智が妻の 話しせむ」と詠んだことで一躍有名になり、さらに 三女の細川ガラシャ夫人が、関が原前夜に壮絶な最期を遂げたことで「その母」として重みを増します。

「麒麟がくる」の中で、彼女をどう描くかはこれからの楽しみですから先走りはやめましょう。

彼女の名前を「煕子(ひろこ)」と命名したのは、昭和の作家・三浦綾子です。

小説「細川ガラシャ夫人」の中で、ガラシャの母に煕子の名をつけました。

「妻木範煕・女」の中から一文字、「煕」をとって「子」をつけました。この時代に「子」を付けるのは公家、それも摂関家などの高位の者たちだけでしたから…実名ではないでしょうね。

それ以来、映画、ドラマではすべて「煕子」で、良妻賢母の鏡とされています。

ちなみに、司馬遼太郎は「国盗物語」の中で、「お槇の方」と名付けています。

光秀の母の名も「お牧」ですから、少々ややこしいですねぇ。

第2節 妻木城

明智光秀は明智氏の出ではなく、妻木氏の出ではないか・・・などという説があります。江戸期に書かれた「明智軍記」などの講談本に、それらしき表現があるようです。これも徳川政権に遠慮した表現で、発行禁止にならないための配慮でしょう。

明智家が由緒正しい土岐源氏の末裔では面白くない・・・とする秀吉政権下、家康政権下の配慮でしょうか。ともかく…江戸時代の大名家の系図などは嘘が多いですね。

秀吉は自らの出自が分からず、「源平藤橘」いずれの名門を名乗れないので、強引に豊臣という第五の姓を創出しました。これも一つのアイディアで、さすが秀吉という発想の転換です。

家康も、出自の定かでない松平家を、徳川と改名することに依って、上州・新田郷・得川村と結びつけて、新田源氏を名乗りました。こじつけに近い、非常に根拠の薄い説です。

それもあって、徳川を名乗ったばかりの秀吉政権の頃、新田源氏の正統派・佐竹家からは鼻先で笑われていました。

佐竹も家康に組せず、石田三成と近い関係になったのは、新田源氏の名門意識から家康の嘘を許せなかったからだ、とも言われます。

家康はバカにされた仕返しに、自らが政権をとった関ヶ原の戦の後に、佐竹家を秋田に左遷しました。実質30万石ですが、公の石高も与えずに、大名にもせず、冷遇しています。

煕子の生家である妻木氏の拠点・妻木城は、東美濃と尾張の境にあります。峠を越えれば尾張の瀬戸、瀬戸物で有名な陶芸の里・瀬戸です。

そういう関係もあって、良質の粘土を産しますから、妻木は陶芸の里です。美濃焼の本場の一つです。安土桃山時代の陶芸家で、大名の古田織部が創出したという織部焼の本場です。

妻木家の子孫たちは、熊本の細川家、加賀の前田家、和歌山の徳川家などに、系譜を繫いできています。明智の名跡は消えましたが、明智人脈は生き残りました。