どうなる家康 第2回 自立そして独立へ
作 文聞亭笑一
いよいよ始まりました。が・・・・・・期待外れを通り越して「何じゃこりゃ」というのが第一回目の「桶狭間」した。
歴史物語にしては軽すぎますねぇ。
啄木の「母の歌」本歌取りで言うなら
たわむれも ほどほどにせよ家康伝 あまりの軽ろきに 次に歩めず
・・・この、第二話を書く気も失せるほどの落胆?失望?拍子抜けでした。
テレビ桟敷の相棒などは半分も過ぎないうちに風呂に向かってしまいました。
気弱な青年を表現するにしても、今回のような描き方では精神的にも、肉体的にも「虚弱児」であり、無責任に過ぎます。
相当軟弱な現代の小学生でも「学級委員」となれば責任感を持ちますし、逃げ出すのは卑怯と感じます。
桶狭間の頃の家康は高校生の年齢です、妻も子もある立場です。
大高城から逃げ出すという想定はやり過ぎです。
歴史考証の小和田さんもボケましたかねぇ。
ともかく、第一回の物語はデタラメが多すぎました。
デタラメその1
「織田方の砦を突破しないと大高城に行けない」というのは間違いで、輸送隊、兵站部隊は砦とは関係ない道を進んでいました。
これを砦から横攻め(隊列を分断)されるから危険なのです。
それを避けるために、家康は鷲津、丸根の砦に先制攻撃を仕掛け、敵を砦の守備に釘付けにしています。
家康の作戦か、長老達の作戦かはわかりませんが、見事な作戦でした。
デタラメその2
大高城から家康が一人で逃げ出した・・・そして本多忠勝に捉まったとは、全くあり得ません。
家康は軍の大将です。大将には必ずSPというか、護衛がついています。
前回も説明しましたが、日本的戦争ル-ルでは「大将が討たれたら負け」なのです。
だから、2万の今川軍が3千の織田信長に負けたのです。
三河の殿・家康が一人で抜け出して浜辺を彷徨する・・・あり得ません。
私のような素人でも「あり得ない」と判断する仮説を入れるのは、歴史小説の限界を超えます。
待避先は岡崎、そこからどうする?
大高城に孤立した家康軍と鵜殿軍ですが、互いの本拠地に向かって逃げるしかありません。
鵜殿長照の本拠地は掛川、掛川に向けて一目散ですね。
松平の場合、松平家康・本人は駿府ですが、軍団の本拠は岡崎です。
ともかく、一刻も早く大高城のある尾張からは逃げ出さないと、敵中に孤立します。
まずは岡崎へ、そこから「どうする家康」となりますね。
太閤記や山岡荘八本では、家康が大高城にいるときに母親の「お大」と会ったと言うことになっていますが、とてもその余裕はなかったと思われます。
友軍の今川勢は我先にと逃げていますし、敗戦後の戦場に孤立することは全滅を意味します。
逃避行は時間との勝負なのです。
今回も予告編を見ると、「妻子を捨てる決断を迫られて、お大に相談する」という、従来説よりも更に踏み込んだ想定のようです。
織田方に属する久松家にいるお大と、今川方の家康が会うと言う・・・想定そのものに無理があるうえに、時間のなさ・・・この時点での再会はどだい無理です。
実際は、岡崎に引き上げてから、手紙や使者を通じてのやりとりでしょう。
または、水野信元を通じて交渉し、隠密理に会ったのかもしれません。
最近の歴史学では「今川義元の討死の知らせを伝えたのは、織田方にいた家康の叔父(母・お大の兄)水野信元だったと言われています。
その情報の真偽を確認するために、家康は本多平八郎を桶狭間近くまで偵察に走らせたと言います。
情報確認後は、敵に見つからぬように用心して夜半に大高城を発ち、夜陰に紛れて移動し、20日早朝に岡崎城下に到着しています。
合戦があったのが19日ですから、敗戦の翌朝は岡崎城下に戻っています。
大樹寺
岡崎に戻っても、家康は岡崎城には入りません。
岡崎城には代官、城代の山田新右衛門以下が残っていました。
彼らも敗戦の報に動転していて逃げ出す準備で大童でした。
駿河勢にしてみたら、岡崎は織田との戦いの最前線です。
何時攻め込まれるかわかりませんし、城下を友軍の兵達が次々と逃げていきます。
殿軍(しんがり)など引き受けさせられたら、部下の大半を消耗してしまいますし、自分の命が危ない。
逃げ支度をしていたところに岡崎勢が戻ってきました。
山田は二通りの心配をしました。
- 彼らが織田方と通じて襲いかかってきたら、どうしようか
- 彼らが岡崎を通り過ぎて駿府に向かってしまったら、どうしようか
が、案に相違して松平勢は菩提寺の大樹寺に陣取り、織田勢へ対抗する姿勢を取ります。
城代の山田達は一安心、織田が攻めてくる前に逃げだそうと退却の支度にかかり、23日には逃げ出しました。
かくして家康達の岡崎勢は自分の城、無人、無抵抗の岡崎城に入城します。
更に、逃げていく代官、城代に託して
「西からの織田勢の押さえは、松平が担当するのでご安心ください」
と伝言しています。
この辺りの政治的配慮もしたたかです。
初回のテレビに映ったヤワな家康とは大違いですねぇ。
はてさて、どちらが真実に近いのでしょうか。
岡崎の独立へ
ドサクサに紛れて「人質」の立場から、自立した西部戦線司令官に出世した家康ですが、駿府においてきた瀬名、竹千代は自動的に「人質」になります。
形のうえでは「三河の支配を松平に任せる」と言うことになりましたが、独立したわけではありません。
今川家の属将、今川の家来という立場に変わりはありません。
ここから独立に向けての動きになります。
まずは三河国内にあった織田、今川の「捨てられた軍事拠点」の接収に動きます。
今川方の砦や出城は、空き家同然ですし、今川の大軍に落とされた織田方の砦なども、わずかな守備兵しか残っていません。
信長にとっては美濃との戦争の方が大事で、東部戦線などは今川の大軍が来なければ影響軽微と考えていました。
落ち穂拾い・・・と言う感覚でしょうか。
武力で攻略すると言うよりは武力で威嚇して降伏させ、松平の軍団に加えていく・・・そういった政略を進めていました。
三河一国の経済規模は約30万石です。
武田信玄の本領、甲斐30万石に匹敵します。
家康はこの間の動きを、駿府の氏真に対して「今川殿のために戦闘を継続中」と報告しています。
司馬遼太郎はこういう家康の動きを次のように書いています。 (覇王の家)
彼の律儀ぶりを「猫かぶりの嘘の演技に過ぎない」と片付けるのは容易だが、それにしてもその嘘と演技を、50年も続けたというのは、どのように理解すれば良いのであろう。