15 練習として駅伝

文聞亭笑一

1914年、ヨーロッパでの争いの火は次々に拡大していき、ついには第一次世界大戦とい う過去に例のない多国間の争いになってしまいました。

その争いの中心にいるのがドイツですから、ドイツの首都ベルリンでのオリンピック開催など考えられません。

「オリンピック中止」は26歳と気力、体力ともに最も充実した時期であった金栗四三にとって、残念の極みでしたが仕方がありません。

次の大会、アントワープを目指すしかありません。第一次大戦には日本も参戦します。ドイツを敵にして戦います。中国にあるドイツの拠点を攻撃し、占領していますね。

この時代は「国民皆兵・徴兵制」ですから四三も徴兵検査を受けます。甲種合格であれば兵役訓練を受けなくてはなりませんが、四三の成績は「乙種合格」です。オリンピックのマラソ ンに出ようという選手が、身体に兵役に耐えない問題があるはずがありませんが、裏で嘉納他関係者の工作が効いていましたね。乙種であれば、いわゆる予備戦力で、よほどのことがない 限り召集されません。

「一兵卒としてお国の役に立つよりも、オリンピックに出場し、好成績で日の丸の旗を立てることの方が、どれほどか国威掲揚に貢献する」こういう論理に政府も、軍関係者も納得した結果でしょう。

オリンピックと国家の権威・・・近代オリンピック発祥以来の課題ですね。国家の期待を一身に受けて活躍する選手たちは、ものすごい重圧を受けることになります。

四三の盟友・野口源三郎

東京高等師範の陸上競技部の仲間に、野口源三郎がいます。

彼は四三よりも年上で変わった経歴の持ち主です。

埼玉県の深谷市に生まれ、師範学校を卒業後、いったん地元小学校の教職につきます。ところがそこから一念発起、東京高等師範に再入学し四三などと一緒に陸上競技に熱中します。

羽田で行われたストックホルム・オリンピックの予選会にも出場しました。この時は4位で、代表選手から漏れましたが、4位になってしまった理由というのが傑作です。

彼には「腹が減ったら物事に集中できなくなる」という性癖があったようで、羽田の予選会の時も大森の駄菓子屋でパンをかじりながら一休みしてしまっていますね。

この性格が治らなかったようで、マラソンを諦めてフィールド競技に転向したようです。後に陸上十種競技の代表選手になっていますね。

四三や野口たちは、選手発掘のために駅伝大会を企画します。

東海道五十三次駅伝、下関―東京駅伝、日光街道駅伝・・・と、色々と試行錯誤を繰り返した後に、アメリカ横断駅伝を思いつきます。

この話に読売新聞が乗気になり、「ではその練習をしよう」という話に発展します。

練習コースは東京⇔箱根、東京⇔日光、東京⇔水戸と候補が選ばれましたが、「ロッキーの山越え」を意識して、箱根が選ばれました。

これが現代にまで続く箱根駅伝のルーツで第一回の参加校は東京高等師範、早稲田、慶応、明治の4校でした。優勝は四三も走った東京高師でした