伊勢・上野にて(第1回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

いよいよ今週から「江 〜 姫たちの戦国」が始まります。

予告編的まえがきで、物語が始まる前の時代環境はお話してきましたが、信長の天下布武は畿内全域に及び、その象徴としての安土城が竣工した時点から原作は始まります。

江の家族、母のお市、姉の茶々、初、それに江の三姉妹は、信長の弟である織田信包(のぶかね)の城がある伊勢の国、上野で過ごしています。伊勢湾を望む小高い岡の上に築かれた城ですから、そこからの眺めは、伊良子水道を見下ろして絶景であったろうと思われます。

1、江の記憶は、ある男の手に、自分の手が包まれた感覚から始まっている。
暖かく乾いた大きな手である。江は今年で7歳になったばかりだから、記憶に浮かぶ手が大きく感じられるのも無理はない。中でも江が鮮明に覚えているのは、男の指の長さだった。
手のひらに乗せた江の手を、男はポンポンと弾ませたり、おのれの手の甲に遊ばせたり、順々に指をつかませたりした。
そのときの感触―――節々は骨ばっているのに、先に行くほど長く細まる指の形と質感は、今でも江の中にはっきりと残っているのだ。
なぜそんなことを覚えているのかはわからない。誰にでもある、ありふれた記憶なのかもしれない。
けれど、ある日、ふと思った。
あの手は父上のものではないか。他愛のない、ただのひらめきかもしれない。でもその思いは、雷のように強く鮮やかだった。江の心を貫き、魅了し、歓喜させた。

少し長い引用になりましたが、原作の書き出しの部分を省略せず、全文引用しました。

「手の記憶」これが原作では、全編を通して一つのモチーフになっています。

「いったい誰の手なのだろうか?」

この謎を求めて、この手に導かれて、江の一生が織り成されていきます。

江が生まれた半年後に生家の浅井家は小谷の城が陥落し、父の長政は切腹して果てました。

母の兄である信長に攻め滅ぼされたのです。生後半年では殆ど言語に表せるような記憶に残るものはないでしょうが、感覚、感触というのは刻み込まれるものかもしれません。

二人の姉からは、この記憶を「たわごと」と馬鹿にされますが、あながち嘘や想像の産物とばかりは言えないかもしれません。

2、江の父親、浅井長政は、既にこの世にない。江が生まれた年に、戦で命を散らしたと聞かされている。北近江の領主として三代続いた浅井家も、同じ戦で滅びたという。

まえがきで述べたとおりですが、浅井家は初代の亮政の時代に、近江源氏の名門、京極家を追い出して江北の領主に納まっていました。典型的な下克上の一つですね。

二代目の久政はどちらかと言えば文治主義で、戦争よりも外交を得意としましたが、江南の六角に攻められて彦根あたりまで蚕食されていました。それを取り返して、祖父の時代の版図にまで回復したのが長政です。

浅井長政・・・色々な風聞があって定かではありません。大柄な色男から色黒の小柄な男まで史書という名の小説家によりずいぶんとイメージが変わります。(笑)ただ、戦にはめっぽう強く、常に陣頭に立って槍を振るい、刀を振ったといわれますから、体力はあったと思われます。得意としたのは魚燐陣で、長政が先頭に立ち三角形の陣形で敵の中央に突っ込むという形でした。

織田・徳川の連合軍と戦った姉川の戦いでは、信長軍の中央を突破し、信長が逃げ出すほどの威力を発揮したようです。どの戦いでも父親の縁で越前の朝倉義景に援軍を求めますが、朝倉勢に戦意が不足し、肝心なところで撤兵されて孤立してしまいます。

ただ、根拠地にしていた小谷城は堅固な山城ですから容易には陥落しません。長いこと、にらみ合いを続けていました。その間に、江が生まれたのです。

落城までの間の包囲戦で、長政とにらみ合って交渉したり、戦ったりしていたのは秀吉でした。その秀吉が、落城に際しての戦後処理とその後の浅井領の管理を任されます。

そんな因縁があって…、浅井三姉妹と秀吉の関係は濃密になっていきます。

3、母上は信包伯父を兄上と呼びこそすれ、兄上様と尊称する相手は信長伯父だけだ。
しかし、その信長に関する話が母の口に上ることはほとんどない。江を黙らせたのもその事実だった。随一の権勢者として いまや天下に名高い兄を、遠ざけようとしているとしか思えなかった。

長政とお市の関係は、政略結婚という出会いに関係なく、互いに相手を恋い慕うと言うほどのラブラブだったようです。

一口に「恋愛」と言いますが、「浅井長政」という小説を書いた鈴木輝一郎と言う作家は

恋とは相手の良いところを好むことであり、愛とは相手の悪いところを許すことである。

この両者が合致することは殆どないが、長政とお市は見事に合致していた。

と評しています。

相思相愛、琴瑟(きんしつ)相和す(あいわす)…の典型だと書いていますが、その後のお市の生き様を見れば「そうかもしれぬ」と羨ましくもなります。

現代人は往々にして恋だけを求め、恋が成就し結婚すると、恋心が冷め来るのに比例して愛を忘れ、自己主張の鬼になってきます。良いところばかりの配偶者と出会うなどは奇跡で、良いところの数と同じだけ欠点があります。自分のことを棚にあげて喧嘩をし、かなりの確率で離婚騒動を引き起こしますが、発想の転換がヘタクソなんですねぇ。あばたもえくぼ、蓼食う虫も好き好きなのです。

近年、女性が強くなったと言いますが、女性がわがままになっただけのように思います。

相手の悪いところをあげつらう女、それをじっと我慢する男…こんな関係が出来上がってきましたね。それを見ている子供たちはどう育つのでしょうか。

「愛」を看板に掲げた総理大臣もいましたが、愛というものほど難しいものはありません。

抑止力については学んでわかったようですが、その後の行動を見ていると「愛」は分かっていないように見えます。

兄の信長とお市の関係は、この頃はすっかり冷えてしまっていましたが、もともとは仲の良い兄妹で、信長にとっては肉親の仲で唯一、気の許せる相手でした。信長がお市と娘たちを伊勢上野の織田信包に預けたのは、兄弟の中では信包(のぶかね)に一番野心がなく、無難な親戚であったからです。お市の男勝りの性格と、親族の誰かが手を組んで、信長に逆らうことを警戒していました。その点で、信包は戦場に出ても殆ど役に立っていませんでした。

信包の居城で、江が育った伊勢上野は、織田の最後方に位置する城で、最も安全な場所でもありました。

4、「母上、近江とはどのようなところなのでしょうか」
市は娘を見つめ、ぽつりと言った。
「…ありていに申せば…この世のいずこよりも愛おしく、どこよりも辛き土地じゃ」

天下布武の象徴として、織田政権の強大さを示すシンボルタワーとしての安土城が完成しました。そのお披露目の会に市や娘たちを呼んでやろうと信長から招待状が届きます。

無邪気に喜ぶお江、それに比べて嫌がるお茶々とお初、姉妹でも近江に対する思いが違います。お江は全く記憶にありませんが、茶々には懐かしいふるさとでもありますが、信長は、父を殺した仇で、敵です。敵の城などに行く気はありません。初にとっても恐ろしい槍襖の中を逃げ出した印象が強烈で、命の恐怖を感じます。

招待を受けても、いくか行かないか…お市もかなり迷いましたね。長政との愛をはぐくみ育てた懐かしい土地、近江。そしてその長政を失った悲しい場所、近江。お市の心の中を楽しみと悲しみが行き来します。

こういう土地は誰にでもあるのではないでしょうか。そしてそれは多くの場合、故郷です。

ふる里とは単に生れ故郷を差すのではなく、青春の火が燃え盛った場所であったり、人生の節目を迎えた土地を言います。「親が転勤族だったから故郷がない」という人もいますが、そういう人でも青春の火を燃やした場所はあると思いますよ。今の自分を作り上げた土地があると思います。そこを、大切にしたいものです。

小説「浅井長政」から信長、お市、長政の3人の心のうちを引用しておきます。

家族への情をあまり厚くし過ぎるのはよろしくない、と長政の頭は理で説くが、武略は家族の安寧を求めるために計るのだ…と情が説く。

信長についてお市が答える。

「兄は、私には情の厚き方にございました。ただし、情と理は峻別なさる方です」