安土城天守閣(第2回)
文聞亭 笑一(市川 笑一)作
江にとっては初めての里帰り? というか、修学旅行気分ですが、姉の茶々、初にとっては敵地に乗り込む気分です。実父・浅井長政を殺した仇の城に連れていかれるのですから、刑務所に入れられるような気分だったかもしれません。
この時代の武士の家族は、人質にされるのは至極当たり前で、戦に負ければ、奴隷として売買されるのも避けては通れません。身内が高い地位にいれば居るほど、人質に出される機会は高くなります。その意味でも、安土行きは、信長による「人質価値のための面接」という意味合いもありました。3姉妹は「信長の姪」というブランド価値、商品価値、人質価値があります。形の上では結婚という形式を取っても、敵方に送られたら人質です。
その意味では、母のお市も織田から浅井に送られた人質でした。
ですから…浅井と織田が敵同士になった時点で、見せしめのために処刑されるのが当然だったのですが、浅井長政はそれをしませんでした。さらに、小谷落城の際に「一緒に死にたい」というお市を信長の元まで送り届けます。
これは…明らかに当時の非常識でしたが、長政にとっては冷酷、残虐な信長に対する当てつけの意味合いがあったのかもしれません。意地でも…信長的合理主義、冷たい政治姿勢に対する抵抗を見せたかったのではないでしょうか。
5、お市と三姉妹が城下に入ると、すでに都市化が進んだ安土の賑わいがそれぞれの駕籠に乗った四人の耳にもはっきり届いた。城の着工後、間もなく安土に移り住んだ信長は、家臣に土地を割り振って屋敷の普請を申しつけ、早くもその翌年には城下での商業活動の自由を保障する楽市令を出していた。
信長のやることは、当時の常識にことごとく反します。「尾張のウツケ」と呼ばれた青年時代から、常識、伝統という「世間の目」に逆らうことが、一種の生きがいになっていたと思われます。安土城の建設も、その理想を実現するための巨大な都市づくりでした。
まず、伝統的な農業資本を政治から切り離します。武士階級を兼業農家ではなく、サラリーマン政治家、兼軍人として土地から切り離し、都市住民にします。この改革は現代人が思うより強烈なインパクトがあって、世襲制すらも破壊するほどの能力主義への転換です。
信長の家臣の大半は尾張、美濃の出身者ですから、安土に住むことは兼業農家ができなくなるということですよね。軍人、政治家として生きるしかありません。
信長の政治手法として楽市楽座が有名ですが、楽市というのは商業の自由化です。楽座は工業の自由化と見たらいいでしょう。
この当時の税制として、市には場所代の様な税金がかかっていて、その場所を管理していたのは、その殆どが寺社などの宗教組織です。したがって領主の収入にはなりません。座も同様な組織で、その多くは伝統的権威(神社が多い)の税収でした。
したがって、楽市楽座を実行するということは宗教団体の税収を、領主である信長、つまり政治資金として取り上げてしまうということになります。ですから、比叡山にしろ、本願寺にしろ、信長の台頭は彼らの収入減を略奪する「魔王」の行為になります。
商工業者にとっては大歓迎です。起業が自由化され、しかも税率が半分以下に削減されますから信長さまさまです。清州、岐阜、安土など信長の行くところには商工業者が集まります。規制の強い地域を逃れて、経済の中心地に我先にと進出してきます。
信長と宗教団体の対立は、楽市楽座を巡る経済戦争の色彩が強かったのです。
信長軍団の強さは、この経済力にありました。鉄砲や火薬などの新兵器が織田に向かって流れこんだのは、この、自由化の勢いなのです。
6、浄土真宗の信徒は、権力者にとって絶えず頭痛の種であった。独自の経済基盤を備えた共同体を各地で形成し、一向一揆という形で反乱を繰り返したためである。
各寺院は互いに強く連帯し、隠然たる勢力を全国に張り巡らしていった。武家社会とは異なる国と権力が、同じ地図上に併存している状態である。
浄土真宗は鎌倉時代に親鸞が開いた宗派ですが、その戒律の緩さもあって、この時代には関西を中心に日本人の半数に近い信者を集めていたようです。この宗派の魅力は商工業の自由です。信長同様に税率が低く、しかもお布施という形を取りますから、赤字なら税金を取られないという現代の所得税方式に似ていました。
経済戦争ですよね。権力者は戦いのある時にだけ「矢銭」という名の、臨時税を要求してきますが、戦いがなければ関所の関税しかありません。したがって、地産地消であれば税が入らないのです。寺には金が貯まり、領主には金が入らない…これは困ります。
地方によっては、領主同士が慣れ合いの戦争をして、矢銭を集めるというようなケースもあったようです。
信長にとって本願寺は競争相手の域を越えて、敵という意識になっていきます。このことは本願寺にとっても同様で、楽市楽座は本願寺の経済基盤に揺さぶりをかけてきます。
税制改革はいつの世でも争いの元です。しっかり準備し、細工は隆々としてから持ち出さないと政権を失うほどの重要テーマなのですが……脳天気な総理大臣は思いつきで税制を語り、野党に税制議論を呼びかけます。もう少し、学んでからにしてほしいですねぇ。
7、かつて浅井家と織田家の間に戦があったことも、その末に夫の長政が落命したことも、江には話さずにきた。二人の姉や使用人たちにも固く口止めをしてきた。この子が幼いゆえだ。知らずに済めば、それがなによりだと信じてきたからだ。
でもそれは間違いだったのではないか……。ここにきて、お市に迷いが生じていた。
信長のことを話そうとしない母親に、お江は幼いなりに気を使い、それに触れないようにしている。人一倍興味を示すこの子だ。
出生の秘密というか…、こういうものは知らせる時期が難しいですね。
幼すぎる時期だといじけます。思春期では大きく傷つきます。大人になってから…と考えるのが世の親の常ですが、秘密を守ることの方が大変です。身近な家族や親せきは緘口令が効きますが近所の人や、遠縁の人、さらに友人など口は塞ぎようがありません。知りたがった時が、知らせるときだと思いますね。
親がなくても子は育ちます。子の興味に合わせて秘密などはなくしていくべきでしょう。
個人情報保護法などというおせっかいな法律ができて、不便で仕方がありませんが、これも世の流れでしょうか。私などには迷惑この上ありません。
8、想像を絶するとはこういうことだろうか。
信長が、持てる才知と造形の総て、さらには天下一の財力を傾けた安土城の天守閣を、若い家臣に連れられ、くまなく案内されながら、お江と茶々、初は言葉を失っていた。
あまりの豪奢、新奇、きらびやかさ。なかでも信長の思想を集約して表現したとされる六階と最上階の七階の内装は、この世のものとはとても思えぬ絢爛鮮麗さだった。
安土城は築城後僅か3年で焼けてしまいました。昭和に入って、パリ万博に出展するために、復元されましたが、当時のスケールには及ばないようです。小説に描かれ、映画にもなった「火天の城」には築城物語が詳しく紹介されています。
わたしは、たまたま復元作品の一部を勤務先の本社で保管していましたから、何度も目にしていますが、絢爛鮮麗の雰囲気は伝わってきますね。見事なものです。
安土城は信長の二男・信雄が焼いてしまいましたが、もったいないことをしたものです。が、それも現代人の感傷でしょうね。権威の象徴は、敵に渡ってしまったら、敵の権威の象徴になってしまいます。
この時、三姉妹を案内した若い家臣とは、森坊丸、力丸の兄弟です。そう、蘭丸の弟です。
彼らの父、森可(よし)成(なり)を殺したのは、三姉妹の父である浅井長政です。
信長が本願寺攻めで近江を留守にした隙を狙って、浅井朝倉連合軍が琵琶湖の西岸を南下し、比叡山に陣取って織田を東西に分断した時期がありました。この時、琵琶湖西岸の守備を任されていたのが、森可成だったのです。織田軍団の中では柴田勝家と並んで、軍事面の中心人物でしたが、3千人の守備隊が2万の敵に攻められて、一たまりもなく玉砕しています。それもあって…信長は森3兄弟を溺愛していました。
実際はどうだったかわかりませんが、恩讐の関係にある3兄弟と3姉妹を安土城で巡り合わせるなど、作者の田淵久美子も憎いことをしてくれます。これだけで、一編の小説が書けますね。女性作家らしい配役です。