−まえがき(一部抜粋)− 市川笑一(文聞亭笑一)

⇒姫たちの戦国では、作品のかなり早い段階で「平和とは待っていて与えられるものではない。勝ち取るものである」という、信長が、江に語りかける・・・(続きを読む)

⇒スイスは「常在戦場」の国です。永世中立を守るために、国民皆兵の徴兵制度の軍隊を持ちます。核攻撃を想定して、全国民を収容できるシェルター・・・(続きを読む)

⇒長女の茶々は、浅井の血、信長の姪という誇りと意地を貫いて生きていきます。次女の初は、変転する政治的混乱の中を、・・・(続きを読む)

⇒お市…三姉妹の母親で、意地に生き、「生きる」ことを貫く人ですね。寧々…亭主の暴走を制御しつつ、女太閤といわれるほどの黒幕政治家・・・・・・(続きを読む)

⇒尾張の清州から領土を拡大中の伯父・信長は、本拠を岐阜に移し、流浪の将軍足利義昭を擁して上洛し、「天下布武」の大事業・・・(続きを読む)

⇒信長の始めた大事業に、江の父・浅井長政は大活躍しています。岐阜から京への道を確保するため、浅井領の湖北地方(米原、彦根など)は・・・(続きを読む)

⇒この時です。なぜか…朝倉軍が越前へと撤退してしまいました。これを見て、織田軍も岐阜に引き上げ武田に・・・(続きを読む)

⇒落城前に、信長は根気強く降伏を勧めます。長政の意思で敵対したのではない…と、信長は確信に近く信じていた節があり・・・(続きを読む)

⇒お江を信長の生まれ変わり、よく似た性格の人…として描きます。じゃじゃ馬、聞かん気で、活発な性格の女性として描き・・・(続きを読む)

⇒美貌の姉たちに比べて、なんと見劣りする目鼻立ちであることか。上二人の抜けるような色の白さとはまるきり違った浅黒い肌、ちんまりした鼻、分厚い唇・・・(続きを読む)

−まえがき(全文)− 市川笑一(文聞亭笑一)

1、NHKは龍馬伝が終わり、同じく司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」を流しています。

龍馬たち幕末の志士が築いた「日本国」を、世界の列強に伍する国家にしようと、富国強兵に邁進していた時代を追いかけています。急速な近代化のために、農業から商工業へと産業構造が大きく変化していく時代でした。

文聞亭としては、この時代も追いかけてみたいテーマなのですが、NHKが3年がかりで、師走のひと月だけ追いかけますから、つき合っていられません(笑)

まずは、来年の大河ドラマ「江…姫たちの戦国」に向けて充電することにします。

ところで「せんごく」と入力すると、私のPCは「仙石」と変換します(笑)。

悪口をいっぱい書いているせいでしょうね。PCの学習機能も、時に煩わしくなります。

姫たちの戦国では、作品のかなり早い段階で「平和とは待っていて与えられるものではない。勝ち取るものである」という、信長が、江に語りかける言葉が出てきます。

「江、お前はわしに似ている」と続きます。さらに「信じるものは自分だけ」という言葉が追いかけます。この辺りが物語の主題ではないでしょうか。

この課題提起に対して、文聞亭は頷く立場にいますが、人それぞれに意見が異なるでしょうね。

特に誤変換で出てきて鬱陶しい仙石さんなどは「魔王信長の暴言だ」と、大反対することでしょう。現在の民主党政権は、社民党ともども、概ね、反対の立場でしょうね。

非武装中立、平和憲法擁護、攻めなければ攻められないという信者でしょうが、攻めなくても尖閣列島には中国が攻めてきました。北方四島にはロシアが大統領自ら出陣して攻めてきました。竹島には韓国が建造物を作って攻めてきています。

どの戦線でも…政府は戦うことを放棄して、「遺憾だ」「抗議する」と負け犬の遠吠えを繰り返すばかりです。戦国時代の大名が聞けば、いや、明治の志士たちが聞けば「国賊め」と刺客を派遣するでしょうね。

第一、平和主義者が主張し、理想とするスイスのイメージが間違っているのです。

スイスは「常在戦場」の国です。永世中立を守るために、国民皆兵の徴兵制度の軍隊を持ちます。核攻撃を想定して、全国民を収容できるシェルターが村々に完備しています。

通貨もユーロではなくスイスフランを守ります。日本の平和主義者の様な非武装中立とは対極にある国なのです。

そんなことは別のシリーズに任せて、浅井三姉妹に話を戻します。

夏目漱石が小説「草枕」の冒頭で、智に働けば角が立ち、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかくこの世は住みにくい…と、世間というものを風刺していますが、 浅井三姉妹の性格と、生き方がこの言葉に重なってきますねぇ。

長女の茶々は、浅井の血、信長の姪という誇りと意地を貫いて生きていきます。

次女の初は、変転する政治的混乱の中を、自らの才覚で泳ぎ回ります。

三女の江は、時の為政者による政治、政略の道具として、運命に流されていきます。

勝手に色を付けてみましたが、強い女、利口な女、したたかな女…でしょうか。

さてさて、読者の歴女の皆々様はどのタイプでしょうかねぇ。男性読者諸氏の奥方様達はどのタイプでしょうか。独断と偏見を以て、現代女性を強引に3分割すれば、2;6:2程度の比率でしょうか。高学歴化、晩婚化で自我を主張する女性が増えてきました。

キャリアを目指す女性も増えています。もしかすると4:5:1の比率かもしれません。

これは決して悪いことではありませんが、「家庭」「社会」を重視するならば…男性が女性化してバランスをとらざるを得ません。イケメンばかりでなく、イクメン(子育てする父親)が求められている風潮にもつながります。(笑)

こんな書き方をすると、「文聞亭は男尊女卑思想の持ち主だ、けしからん」と、人権運動家から非難されそうですが、自分では…フェミニストだと思っているんですがねぇ。(笑)

ただ、ただ、男と女は体の構造からして役割が違う、と考える機能分担発想にすぎません。

男は集団を守るもの、女は子供を産み育てるもの…と、考えているだけです。体の構造がそれに適していますし、太古から、それぞれの役割を果たしつつ現代人があります。

この物語は、追々NHKの、脚本家(原作者)、演出家が料理してくれますから、お手並み拝見なのですが、多くの女性が登場するのが楽しみです。

お市…三姉妹の母親で、意地に生き、「生きる」ことを貫く人ですね。

寧々…亭主の暴走を制御しつつ、女太閤といわれるほどの黒幕政治家

ガラシャ(珠)…信仰の世界を貫く女

春日の局…江に対抗して、大奥の権力、将軍への発言力を固めようとする政治家

そのほかにも大河ドラマの主役になった、まつ(前田利家妻)、千代(山内一豊妻)などの女傑がいます。戦国時代末期というのは女性が、国家の政策を左右する、重要な役割を担った時代でもありました。

現代は少子化の時代ですが、江は多産系でしたね。生涯に2男6女を産んでいます。

男の子は徳川三代将軍の家光、駿河大納言忠長の二人ですが、女の子は豊臣秀勝との間に九条関白夫人完子(ひろこ)を頭に、徳川秀忠との間に千姫(豊臣秀頼→本多家)、珠姫(前田家)、勝姫(越前松平家)、初姫(京極家)、和子(天皇家・中宮)と6人とも政略結婚です。

先日訪ねてきた金沢の兼六園には、珠姫が過ごした屋敷跡が赤門を構えて残っていました。

珠姫は前田家三代・利常との間に9人の子供をもうけています。江の、多産系の血筋を一番受け継いだのかもしれません。(先頭に戻る)

2、江が、この世に生を受けた時、1573年の日本地図はどうなっていたのでしょうか。

尾張の清州から領土を拡大中の伯父・信長は、本拠を岐阜に移し、流浪の将軍足利義昭を擁して上洛し、「天下布武」の大事業に乗り出していました。

北の上杉は越中を併呑し、上州から関東を伺っています。武田は駿河を併合し、遠州も支配下に入れつつあります。北条は上杉と戦いつつも常陸へと触手を伸ばします。

西の毛利は東に向けて膨張中ですし、南の四国では長宗我部が四国統一に動き、九州では島津が北上を始めています。東北でも伊達正宗という新しい勢力が動き始めました。

郡・市単位での戦国から、国・州単位の戦国へと、戦いが大型化してくる時代でした。

湖北の浅井家

信長の始めた大事業に、江の父・浅井長政は大活躍しています。岐阜から京への道を確保するため、浅井領の湖北地方(米原、彦根など)はもとより、南近江の抵抗勢力であった六角氏を追いだし、信長の事業を支えていました。信長政権の創業期に西の浅井と、東の徳川は織田政権の車の両輪として、大車輪の活躍をしていたのです。

が、浅井家の内部は、当主の長政派と、先代の久政派に分かれていて、一枚岩ではありませんでした。織田政権に同盟する息子の長政と、越前の朝倉義景と同盟する父の久政は、事あるごとに対立していました。それというのも、長政が政権の座に就いたのは、いわゆる禅譲、平和的な政権交代ではなかったのです。父の久政が六角・朝倉に対し従属的な政策を取るのに不満な家臣がクーデターを起こし、久政を竹生島に追い出して、息子の長政を盟主に立てて政権を乗っ取ってしまったのです。

そういう点では、武田信玄が父親を追いだして政権に就いた甲斐の国に似ていました。

が、信玄よりは親孝行な長政は、父親を許して、企業で言う会長的な地位に着けました。これが、後の不幸を呼び寄せる因になってしまいます。

余談になりますが、浅井家も織田家と同じく下剋上でのし上がった大名家です。

もとは六角家の重臣でしたが、湖北の名門大名である京極家を追いだして、北近江を奪い、それを六角家に渡さず独立してしまったのです。その点、斯波家から尾張を乗っ取った織田家とは同格・同類です。京極も、六角も、もとは近江源氏の佐々木家で、ともに京屋敷の所在地からの通称が、時代とともに家名になっていったものです。創業者の佐々木道誉は、太平記では室町政権を動かしたバサラ大名として、足利将軍家の柱石です。

バサラ…勝手気ままに自由に生きること

織田・浅井の決別

京に上った信長は「天下布武」の旗の下、全国の大名に上洛して新将軍にあいさつするよう呼びかけます。が…近畿圏の大名を除いては殆どそれには応じません。遠隔地の大名は仕方ないとしても、つい先日まで将軍・義昭の保護者であった朝倉が上洛しないことに腹を立てた信長は、長政には知らせずに湖西を通って越前に攻めかかります。

これが1570年の出来事です。江の生まれる3年前ですね。

「長政は怒った。約束を破る織田との同盟を捨てて、朝倉との義に走った」と、古来歴史物語が書きますが、「長政に知らせれば浅井家中がもめる。浅井は圏外に置いておこう」というのが信長の親心・兄心だったのではないでしょうか。

しかし、浅井家は朝倉方に付き、越前に攻め込んだ織田軍を挟み討ちにします。お市から信長にあてた、両端をひもで結んだ小豆袋の逸話が残る戦いです。(金が崎の退き口)

信長は兵を捨てて、命からがら逃げ帰りました。が、この時、長政とその旗本たちは越前へ出兵していません。父の久政とその一派が、当主の長政に無断で出兵してしまったのです。いわば、逆クーデターの様なものでしょうか、暴走です。既成事実を作って、長政が信長から離脱せざるを得ない状況を作ってしまったのです。ここからは信長、長政は敵対関係になります。京への道筋の真ん中、交通網の要衝を扼(やく)していますから、信長にとっては目の上のたんこぶですねぇ。可愛さ余って憎さ百倍という関係になってしまいました。

信長包囲網

信長のおかげで将軍になれた足利義昭ですが、将軍に「畏れ入らない」信長に愛想を尽かして、陰謀活動を始めます。朝倉、武田、上杉、毛利などの有力大名には「上洛して信長を追討せよ」とけしかけ、本願寺には信長領内で反乱を起こせと教唆します。

浅井長政も、当然のことながら信長包囲網の最前線に立たざるを得ません。朝倉から二万の援軍を得て、小谷城に陣取り、五万の織田軍と対峙します。

上杉は矛先を東に向け、北条と対峙して朝倉を刺激しないようにします。

武田は好機到来と上洛軍を動かし、三方が原で織田の盟友・家康軍を木端微塵に撃破して西上します。10日もあれば関ヶ原に到達できました。

本願寺は大阪、石山寺に立てこもり信長軍を翻弄します。

信長にとってはまさに四面楚歌でした。

この時です。なぜか…朝倉軍が越前へと撤退してしまいました。 これを見て、織田軍も岐阜に引き上げ武田に備えます。

ですから、武田軍は三河の野田城から進軍しなくなりました。信玄としては空家の岐阜城を落とし、関ヶ原で織田軍を挟み討ちにして殲滅する計略だったのです。朝倉の原因不明の撤退がなければ、30年ほど早く天下分け目の関ヶ原が、織田対武田の対戦であったかもしれません。

この、朝倉軍の突然の撤退で、信長は間一髪命拾いをし、浅井家の滅亡が確定しました。

その一ヵ月後に、信玄が結核の再発で命を失い、包囲網は崩れました。

朝倉がなぜ撤退したか?「その時歴史が動いた」の格好のテーマですねぇ。

一説には雪を恐れ、補給路が断たれるのを恐れたと言います。

また、朝倉義景が長滞陣に飽きて、里心がついた、厭戦気分になったとも言います。

もう一方では、忍者が「浅井裏切り」などの数々の流言を流し、不安をあおった…等々

魔王・信長

ここからです。信長が魔王のごとく殺戮に走りだしたのは…。

信長が最も恐れていた信玄が死んで、信長は伸び伸びと活躍を始めます。

特に、本願寺門徒に対する攻撃は執拗を極めます。情け容赦なく皆殺しですねぇ。

「あの世に極楽を求むべき者が、この世の政治に口出しするのは許さん」と、政教分離の建前を殺戮という手段に求めます。ここらは、ナチス・ドイツのヒトラーと全く同様です。

浅井、朝倉をかくまったとして比叡山の焼き打ちをしたのもこの頃1571年のことです。

小谷落城

江が生まれて半年後に、浅井家の城・小谷城は落城します。

それ以前に援軍に駆けつけるはずの朝倉家が、越前北の庄を攻められて滅んでしまっていますから、援軍に駆けつける者はありません。籠城しても意味がなくなっていたのです。

落城前に、信長は根気強く降伏を勧めます。長政の意思で敵対したのではない…と、信長は確信に近く信じていた節があります。大和(奈良県)に代わりの城を用意していたという説もあるくらい、長政の力量を買っていたようでしたね。

ただ、父親の久政とその一派を許すはずがありません。

そこでしたね。長政は度重なる説得を拒否し続け、滅亡の道を選びました。

お市と姫たちは、落城前に城から出て、織田軍に収容されます。

このあたりの最終処理を担当したのが秀吉で、姉妹との縁は長く続くことになります。

このあと、浅井氏に代わってこの地を管理したのは秀吉で、秀吉は山城の小谷城を嫌って、琵琶湖に接した長浜に城を立てました。さらにその後、この地を管理した石田三成は、小谷も長浜も捨てて佐和山に城を築きます。

さらに、さらに、その次の井伊直正は佐和山を捨てて彦根に城を築きます。僅か40年の間に4つも城が動きました。

この地は、それだけ戦略的に重要だったということです。つまり、岐阜から関ヶ原を通ってきた中山道と、越前に向かう北陸道が交わります。交わって、そこから湖上の道もあり、草津で東海道と交わって京へ向かいます。京を中心に考えた時、この地は東への出口を扼す重要な軍事的意味を持つ場所なのです。(先頭に戻る)

3、尖閣列島に中国船がやってきて、あろうことか海上保安庁の巡視艇に体当たりを仕掛けてくるという犯罪行為が起きて以来、日本国中が忘れていた「戦争」という国際社会の現実を思い出させてくれました。日本国内の正義と、中国やロシア、はたまた北朝鮮の正義は違うという、現実的で、当たり前のことを知らされたのです。

領土というものは給料と同じで、多ければ多いほどよいものです。国家としての自由度が広がるのですから、小国よりも大国に越したことはありません。

お江の生きた時代は、分散していた正義という沢の流れが幾筋かの川にまとまり、そしてそれが一本の大河になって収斂(しゅうれん)していく時代でした。

正義と正義がぶつかると戦争になります。戦争が嫌だからと自らの正義を封印して、誰かの力にすがっていただけでは、その相手に隷従するだけですから、結局は戦争に巻き込まれ、最初に殺されてしまいます。明けても暮れても戦争が続いていたのが戦国時代ですが、現代だとて人間社会の本質は変わっていないのではないでしょうか。正義は常に変化し、正義同士がぶつかり合い、戦いを繰り返すのです。

さて、乱世という時期は生命力のたくましさが求められる時代でもあります。

男も、女も、「生きる」ことに必死になり、子孫を残し集団が発展することに全力を尽くします。生き物としての人間が自然に帰る時期でもあります。平和であれば、健康や将来に気を馳せてあれこれ悩むのですが、現在を生きることに必死ですから、将来のことを思い悩む余裕はありません。現代人の社会病である鬱病などの黴菌(?)が顔を出す隙間などありようがないのです。

戦国物語では人々が生き生きと、自由闊達に活躍します。

明日を考えず、今日を必死に生きていますから、見る目には鮮やかに映るんですねぇ。

高度成長期の日本、現在経済躍進中の中国やインド、東南アジア諸国も同様な勢いがあります。今日よりは良くなる明日、という希望が、人々に活力を与えています。

この物語の主役お江が生まれたのは1573年で、信長が全国制覇に本腰を入れ出した頃に当たります。

原作者で脚本家の田渕久美子さんは、信長にお江を重ね、戦乱から安定に向かう時代を歴史の本流から少し離れた視点で描きたかったのだろうと思います。「正義とは」などという哲学的、政治的視点を避けて、家庭、家族という視点で描くのが「お江・姫の戦国」であろうと思います。

田渕さんはお江を信長の生まれ変わり、よく似た性格の人…として描きます。

じゃじゃ馬、聞かん気で、活発な性格の女性として描きますが、実物のお江がどうであったかは誰にもわかりません。

参考までに、同じ女流作家である永井路子さんが書いた「乱紋」という小説の中のお江の姿を紹介しておきます。

美貌の姉たちに比べて、なんと見劣りする目鼻立ちであることか。上二人の抜けるような色の白さとはまるきり違った浅黒い肌、ちんまりした鼻、分厚い唇、決して小さくはないのだけれど、眠たげなまぶたに蔽われて印象のはっきりしない瞳――何よりももどかしいのは、その動作の遅さであろう。

姉たちとは異なった目鼻立ちということを強調したいのでしょうが、「ここまで書くか」と思わず苦笑いします。その点では女流作家は怖いですねぇ。女の容姿を記述するのに遠慮がありません。

ついでですから姉の茶々、初についても抜書きしておきます。

お茶々の美しい切れ長の目がつりあがった。小さく整った鼻筋、引き締まった口元。絶世の美人といわれた母親、お市の顔に良く似た顔立ちである。

が、お市が、厳しさを内に秘めながらも、むしろ物静かな美女だったのに比べて、少女の頃から苦労したせいか、お茶々は鋭さが先にたつ。しかも、おもしろいことに、こんな風にずけずけものを言うときに、その美しさは、かえってきわだつのだ。

お初には、お茶々のような凄みはない。一つ一つの造作がたっぷりしていて、見栄えのする顔立ちである。大ぶりの牡丹の花のような華やかさは、お姫様として上段の間に据えられたら見栄えがするであろう。

私の身内には三人姉妹が二組、四人姉妹までいますから、姉妹の顔立ちがそれぞれに違うことは重々理解しますが、やっぱり姉妹がかもし出す全体の雰囲気は似ていますね。永井さんはお江を「ほかの二人とは違う性格」であることをきわだたせるために、あえて相違点を強調したのでしょう。

常識的に言えば、側室を持つのが当然であった時代に、3人の婿さんたち(佐治与九郎、豊臣秀勝、徳川秀忠)が殆ど浮気もしなかったところを見ると、相当に魅惑的な女性であったと見るべきでしょうね。

山岡荘八の「徳川家康」や、春日の局を描いた小説などでは「気が強くて、やきもち妬きのヒステリー」というイメージで描いていますが、これは明らかに間違いでしょう。

むしろ、春日の局の方が見栄っ張りで、顕示欲が強く、存在感を示すためにお江の性格を悪く伝えたようです。史料というのは小説と同じく、書く人の感情が乗りますからね。

テレビでは上野樹里さんがお江役を演じます。

原作どおり、じゃじゃ馬で自由奔放な信長の生まれ変わりのような女性として描くようです。私としても、上野さんのイメージでこの先、本文を綴ってみたいと思います。

龍馬伝にしても、龍馬の実像よりも画面で活躍する福山雅治のイメージに龍馬を重ねましたからね。

いまから放映を心待ちしています。(先頭に戻る)