思惑の渦(第13回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

落城のたびに、父を失い、母を失い秀吉の庇護の下で生きることになった三姉妹ですが、秀吉にとっては大切な政略のカードです。政権基盤が確立していない羽柴暫定政権にとっては、旧主の血縁者である三姉妹を意のままに使って、政権基盤を固めていかなくてはなりません。信長軍団の分団長のうち明智、柴田、滝川の三者は、すでに消し去りました。

その間に、信長血縁の長男・信忠は明智光秀に殺され、3男信孝も屠り去りました。丹羽、池田などの同僚や、信長血縁の信包などは懐柔して、自分の部下に納めています。

そうなると、残る政敵は次男の織田信雄と徳川家康になります。この両者を懐柔するか、潰してしまわないと、信長の後継者とは認められません。特に家康は、秀吉が関西方面で戦っている留守に信濃、甲斐を手に入れて、強大に成長しています。家康が関東の北条と手を組んだら、秀吉の版図に匹敵するほどの実力を備えます。

秀吉は、戦わずして勝つための策略として、三姉妹の活用を考えます。特に美人で教養のある茶々は、最高の活用方法を考えなくてはなりません。

秀吉が考えた茶々の使い道は、天皇家、ないし、高級公卿だったと思います。天皇家を政権に取り込み、錦の御旗を手に入れようと画策していたと思われます。

が、そこまでしない間に、秀吉自身が近衛家の養子にしてもらい、藤原一門になります。更には、豊臣の姓を賜って公卿になってしまいましたから、茶々を使うまでもなかったのでしょう。茶々にとっては、かえって気の毒でした。

一方、江の嫁ぎ先になる佐治与九郎一成…いったい何者でしょうか。今までの歴史物語には殆ど登場しませんし、出てきてもチョイ役です。

彼は信長の妹・お犬の息子です。というより、伊勢湾東部の水軍の統領です。

伊勢湾の水軍は東の知多半島を佐治が押さえています。西の伊勢では、北伊勢には織田信包、南伊勢には九鬼水軍と、いずれも秀吉配下です。知多半島の佐治を味方につければ、伊勢湾の制海権は完全に秀吉のものになります。清洲の織田信雄の封じ込めが出来ます。

海からの物資補給が、陸上での戦闘の勝負を決めますからね。信長が本願寺や伊勢長島でてこずったのも、大阪湾、伊勢湾で制海権を確立できていなかったからです。

佐治家は伊勢長島の戦いで、水軍を駆使した海戦、上陸作戦で目覚しい働きをしています。

が、その戦いで与九郎の父・信方は戦死しています。与九郎は若い統領なのです。しかも、どちらかと言えば技術系で、高速船の開発や、海上戦闘の研究に余念がありません。

秀吉にとっては、将来の秀吉海軍を任せたいほどの期待をかけていた逸材だったと思われます。しかも、知多半島を押さえれば渥美半島から家康の根拠地浜松は至近距離です。

思いつきで…江の嫁入り先に選んだわけではありません。信雄封じ込め、更には家康と延生を分断する楔と打ち込む…そんな思惑があったはずです。

佐治与九郎の城があった常滑市、現在は中部セントレア空港の玄関口ですね。埋め立てが進んで当時の面影はありませんが、大野城も海に接していました。海軍の町です。

28、しかし、茶の席が政治的な場として用いられるにつれ、宗易は茶頭の立場を超えて、秀吉の側近として諸大名から尊重されるようになっていった。大名の多くは秀吉との橋渡し役を宗易に期待し、さまざまな報告を茶室に持ち込んでいたのである。
秀吉も宗易にも、予想できない事態だった。人並み以上に敏感な二人は、そこに小さな亀裂が生じたことに気がついている。だがどちらもまだ、それを言い出せずに居た。

利休・宗易が信長、秀吉と続いて政権内で大切にされたのは、その芸術性です。信長にしても、秀吉にしても、芸術や文化についての造詣が篤く、文化人であった側面があります。ややもすると「猿」「成り上がり」のイメージが強い秀吉ですが、茶にしても、歌にしても後には一流の域に達していました。特に、歌に関しては最高権威者の細川幽斎が「殿下の歌は一流」と、お世辞抜きに、褒めていたほどです。ですから秀吉の辞世とされ、司馬遼などからは<後世の贋作>といわれた「浪花のことも夢のまた夢」も自作の歌ではなかったかと思います。

芸術としての茶道ですから、当然流儀の違いが出てきます。わび、さびを基本とする利休の茶道と、派手好き、豪華絢爛を旨とする秀吉の茶道は違います。そうですね、水墨画の世界と、ピカソや岡本太郎の世界の違いでしょう。どちらも、それぞれに良さがあります。が、流儀が違いすぎますね。片やわび・さび、もう一方は黄金の茶室ですからね。

こういう流儀の差は、豊臣政権の中に派閥の芽を生みます。芸術の範囲に収まらず、政治手法にまで影響してきます。論理の世界では「理性」が勝ちますが、芸術の世界では感情が勝ちます。「理」と「情」の葛藤、いつの時代でもついて回る話です。これに「意地」が加わると…夏目漱石「草枕」になりますねぇ。

知に働けば角が立ち、情に掉させば流される、意地を通せば窮屈だ、

とかくこの世は住みにくい。

29、この人が寧々様なのか……。失礼になってはいけないと思うのだが、 江の視線はついつい、寧々の横顔に向いてしまう。飾らない人柄のようで、隣に座っている茶々としきりに言葉を交わし、秀吉も時々会話に加わっていた。
「なんとも破天荒な茶席やな」
江の前に茶碗が置かれたとき、隣席で宗易がつぶやいた。

江が好奇心旺盛というよりもこの年齢の女の子は好奇心が旺盛です。猿…こんな嫌な奴の女房になるとは、いったいどんな女だろうか、素朴な疑問だったと思います。猿の女房だから猿に似て、下卑な女ではないか…女の子ならそう考えてもおかしくありません。

ところが、案に相違して実に気さくで、その上、品があるのです。永井路子は

日本一の出世男を夫に持ちながら、彼女は最後まで、オカミサン的な味を失わずにいた。

彼女よりも学のあるの、綺麗なのはざらにいるが、オカミサンとしての値打ちでは彼女の右に出るものはないと思う。   (歴史を騒がせた女たち・・・より)

男女を問わず、どの小説家に言わせても、寧々を悪く言う人はいませんね。後世の者が口を揃えて「良い」というからには、やっぱり、理想の女房なのでしょう。女の鏡なんでしょうね。男に好き勝手をやらせていながら、その実、操り紐を手繰って思い通りに男を制御しているのです。現総理の奥方も庶民的ですが、果たして評価はどうなりますか・・・。

現代の女性は「お茶する?」「いこいこ」という感じでしょうが、寧々が座にいる茶会というのは、そんな感じだったと思いますね。わいわい、がやがや、禅をベースにする茶道とは別の世界です。利休、宗易の嘆きも判らなくはありません。

しかし、これが、この雰囲気が、庶民も参加の北野大茶会へとつながっていくのです。

茶を庶民に普及させるという点では、秀吉、寧々、宗易の功績の一つです。

30、「佐治一成のもとに嫁ぎます」
江が、二人の姉に言い出したのは、翌日のことであった。
「本気です。一晩考えて決めました」
いつに似合わぬ小声で江は応えた。

秀吉からの唐突な嫁入り命令です。「No!」は言えないのですが、なぜ、姉たちをさておいて江なのか、その点が三姉妹ともに納得がいきません。

それはそうです。江はまだ12歳。現代で言えば小学生です。三姉妹ともに発育はよく早熟だったようですが、それにしても早すぎます。

が、秀吉は、「本当の夫婦になるまでには間があるだろう。その間に佐治の動向を探る」と考えていたのではなかったでしょうか。冒頭にも述べたように、秀吉政権にとって水軍、海軍は重要な戦力、抑止力です。西の水軍は小早川景隆の毛利水軍が強力ですが、これもまだ手に入ってはいません。家康には今川以来の駿河水軍があり、関東の北条にも上総水軍があります。秀吉には直属の強力な海軍がないのです。

「佐治を秀吉海軍の柱に育てよう」と思いついたのでしょう。そう考えれば浅井三姉妹の末娘を投資しても惜しくはありません。更に、秀吉の次なる仮想的は家康です。これを服従させない限り関東への道は開けませんし、強敵の上杉、北条に対しての外交ルートも確保できません。陸路では中仙道、東海道の2大幹線を家康に押さえられてしまっています。さらに、海路もないとなれば得意の調略も使えないのです。

もう一つ、織田信雄と家康が連携しては大勢力になります。これを連合させたくない。

そのためには信雄の配下である佐治与九郎を抱き込んで、信雄の戦意を失わせたいと考えたと思います。その策の延長戦に、信雄の家老たちを次々と味方に引き込んでいますね。織田信雄を裸の殿様にしてしまおうというのです。

江にとっても悪い話ではありません。佐治与九郎は母方の叔母の子です。いとこ同士です。

母の遺言である「織田の血を残せ」には最適の相手かもしれません。