女弾正忠(第9回)
文聞亭 笑一(市川 笑一)作
お江をモデルにした小説の中で、この時期の江を称して「女弾正忠」と表現したものがあります。事実、そう呼ばれていたらしい記録文書もありますね。
弾正忠というのは織田信長の官位で、田舎大名が好んで名乗った官位ですから、それほど高い地位ではありませんが、天下を取った信長が名乗っていたということから「信長的」という意味合いを後世に残しました。
江にこの名がつけられたということは…「信長に似ている」「信長的だ」という評価だと思います。つまり、型破り、直情怪行、独断専行、神出鬼没などという行動パターンがあったのではないでしょうか。少なくてもお姫様的ではなかったと思われます。
特に、姉二人がお姫様的で、教養があり、女らしさが際立っていましたから、江がハネカエリのお転婆娘に見えたのでしょう。評判などというものは比較の問題、相対的評価として捉えられますからねぇ。上の姉である茶々などは、教養という点では最高級の実力がありますし、立ち居振る舞いなども京風の雅さがあったものと思われます。いわゆる才媛ですね。与謝野鉄幹が理想として歌った「妻を娶らば才たけて、見目麗しく情けある」という令嬢です。そういう姉と比較されたら、ちょっとできが悪いだけで劣等生、半端者扱いされますから気の毒ですよね。
永井路子の小説「花紋」では江のイメージが「ブスでノロマ」になっています。
確かに、容姿、教養では茶々にかないません。要領の良さ、器用さではお初にかないません。茶々よりはブスで、初よりはノロマであったようですが、行動力では二人の姉をはるかにしのぐ快活な女の子だったでしょうね。そういう活動力と芯の強さが備わっていたからこそ、3度の結婚や、環境の激変に耐えられたと思います。
後の話になりますが、江が、三姉妹の中で真っ先に嫁に出されたのは、「公家には嫁にやれぬ」と秀吉が判断したからだと思います。ついでに、「何をしでかすかわからぬ娘だから、実力者のところには嫁にやれぬ」とも思ったことでしょう。
21、「わかるか? 上に立つ者は、常に下のものに配慮しておかねばならぬのじゃ」
勝家が静かに言い、三姉妹を見回して続けた。
「まだ幼きそなたたちとて同じ事。皆に支えられていることを断じて忘れるべからず」
江たちは、母の結婚で父となった柴田勝家の居城、北の庄に引っ越すことになります。
北の庄、福井市の山間部です。彼女たちの父、浅井長政の盟友であった朝倉義景の居城です。ここを占領した柴田勝家が、新たに建てた城ですから、木の香りも残る新築の御殿です。昨秋、近くまで行ってきましたが、雪さえなければ…居心地の良い、長閑(のどか)な土地柄ですよね。
江は、この土地に来てから乗馬に夢中になります。初めてめぐり合ったスポーツです。
元来活発な性質の江が熱中して当然でしょう。馬の背から見る景色は、普段より1〜2m高いですから、世の中が広く見えます。そう、バスの窓から見る景色なのです。
なにか…、偉くなった様な気がしますね。トラック野郎が生意気な運転をしたくなる気分と一緒でしょう。歩いている人間が虫けらのように見えてきたりします。
江もトラック野郎同様に、無謀なことをして、行方不明事件を引き起こします。
上へ下への大騒動を巻き起こし、義父の勝家から大目玉を食います。
ここで勝家の言っていることは、我々にとっても常々、心しておかなければならないことですね。上下関係ではなくても、社会で生きていくうえでは、常に誰かに支えられて生きています。自分だけで、あるいは自分たちだけでできることはほんの僅かで、多くの人の役割によって日常生活が成り立つわけで、いたずらに権利主張ばかりしていても、支えを失ったら倒れてしまいます。
「人権」と権利を主張しても、自分も社会の一員としての義務を果たさなければ、社会人としての資格、つまり信用を喪失します。無縁社会の一員になり果てます。
このあたり、権利と義務の等価関係を忘れているのが現代日本人で、福祉などと言う概念も実に危うい峠道に差し掛かっています。特に、我々高齢者は義務を果たす力が低下してきていますから、権利主張も程ほどにすべきでしょうね。
「ありがたや、ありがたや」と、感謝の気持ちを忘れずにいたいものです。
そうこうしている間にも、季節は巡り冬に差し掛かります。中央の情勢も刻々と変化しています。柴田勝家は雪に閉ざされて動きがとれませんが、秀吉の政治行動は、この時を待っていたかのように活発化します。地の利を最大限に利用し始めました。こういうところが秀吉の見事さです。まずは朝廷を抑えて、自らが京都朝廷守護の責任者であることを内外に宣伝します。日本的戦争ルールでは、何をさておいても「大義」が求められますし、その最大のものは天皇です。天皇を取りこんだものが「官軍」で、それに逆らうものは「賊軍」です。 官軍と言うと明治維新を連想しますが、飛鳥、奈良の時代から「玉を握る」官軍こそが戦争の勝利を得てきたのです。
秀吉に敵対する者は3人です。北陸の柴田、岐阜の織田信孝、伊勢・伊賀の滝川です。
秀吉はもちろん、彼らの中心人物が勝家・お市であると見極めていますから、雪で動けない冬場こそ外交で切り崩すチャンスでした。秀吉はこれを見逃しません。
まずは、足軽時代からの盟友である前田利家を誘います。これには寧々と松という二人の妻女が活躍していますね。頻繁に手紙のやり取りをしています。この時点で秀吉は利家に対し「味方になれ」とは言っていません。「日和見をしていてくれ」と依頼しています。
そして秀吉の外交の、最大のターゲットは長浜城の柴田勝豊に当てていました。交通の要衝である江北を抑えたら、敵対する3者は互いの連絡が取れなくなります。情報網が分断されます。ある意味で、柴田勝豊こそが政権のキャスティングボードを握っていました。
このことを、本人も、そして義父である勝家も、全く気が付いていませんでした。
秀吉は柴田家の後継者争いを巧みに利用します。
柴田勝豊は勝家の甥で養子ではありますが、体が弱く(結核だとも言われている)、勝家とは正反対の教養人です。これに対して尾山(金沢)の城を預かる甥の佐久間盛政は、勝家同様の軍人です。勢い、勝家は盛政を優遇しているように見えますから、疑心暗鬼になりますね。この弱点を突かれました。
歴史にifはありませんが、勝豊に茶々か初を娶わせていたら、または、勝豊ではなく、盛政を長浜に入れていたら…歴史の流れは全く違った展開をしたでしょうね。少なくとも、滝川一益が勝家の援軍を送れない冬場に兵を挙げて、潰れてしまうようなミスはしなかっただろうと思われます。
柴田勝豊が秀吉の外交で取りこまれてしまった時点で、連合軍は負けが決まりました。
22、「これは長政様より賜りし短刀じゃ。茶々には浅井の血を後世に残してもらいたい。
初は、元結のこの紐で、姉妹三人を強く結びつけよ。江にはこの印を残す」
江は小さい判を見た。そこには「天下布武」の文字が刻まれていた。
「織田の血を残すのが、江のつとめと心得よ」
賎が岳の合戦は、実にあっけなく秀吉の勝利になります。柴田勝家、滝川一益、織田信孝、前田利家の連合軍が、互いの連携もないままに各個撃破され、敗退してしまいました。
連合軍の情報網の中心地である北近江を秀吉によって占領されていますから、その時点で勝敗は決していましたね。三姉妹の生まれた土地、小谷、長浜、佐和山といった重要拠点に基地を作れなかったのが最大の敗因です。
そういう点では、柴田勝家にせよ、滝川一益にせよ、政治音痴の軍人でした。最後には、前田利家にまで寝返られてしまいました。
この教訓を鳩山、菅の民主党政権は学んでいないようですね。沖縄列島という位置が、極東の戦略上でどういう位置にあるのか…「抑止力が学べば学ぶほどわかった」と言いながら「あれは方便だった」ともいうのですから、全く分かっていないようです。こういう人が自衛隊の最高指揮官なのですから…中国、ロシア、北朝鮮などから見たら「赤子の手をひねる」ほどに簡単な、おもちゃの軍隊ですねぇ。アメリカ軍が駐留してくれていなかったら、何をされるかわかりませんよ。北の庄同様に「落城」ですかねぇ。
三姉妹の母、お市は死ぬことを決意します。原作では秀吉の恩を受けることを嫌った結果だと分析していますが、信長の妹である誇りに殉じたということでしょうか。それとも、武将として出処進退を明らかにしたのでしょうか。ともかく、生きる希望がなくなっていたのでしょう。浅井長政の妻であり続けたかったのかもしれません。
お市が、ここにあるような遺言を残したのかどうかは疑問ですが、この後の三姉妹の人生は、この遺言の通りに展開していきます。