激流渦巻く(第5回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

このあたりの歴史の流れを、NHKは猛スピードで駆け抜けます。山岡荘八の「徳川家康」ならば三、四冊分にもなる事件と時間を、一、二話で済ませてしまいますから、歴史物語好きにはあっけなくも感じますが、「江」の主題とは外れますから、仕方ないところでしょうか。やはり女流作家には、戦いの場面は避けたい気持ちがあるのでしょう。

ただし、歴史の流れというものは、幾重にも別れていた川の流れが一つになるところで、猛烈に渦巻き、しぶきを上げ、激流を造ります。それが戦いであり、戦争なのですから、そのことに目を瞑ってはいけないのです。

現代でも、ややもすると、戦いを避けたいばかりに中途半端な妥協を繰り返し、見せ掛けの平和を享受しようとして、後々に禍根を残します。

嫁姑の確執、こんなものはあって当たり前のことですが、この五十年、日本人女性はその争いを避けてきました。その挙句の果てが、核家族化し、誰にも面倒を見てもらえない老々夫婦の悲劇が随所に見られます。世代を超えて、温かい家庭を作って生きたいのなら、嫁と姑が合流するところでの、確執はあって当然です。戦うべきところは戦って、結論を出さなければいけませんね。

尤も、結婚もしない、出来ない(?)若者は論外ですけれど・・・。

17、光秀らしくない軽率な発言であった。追い詰められた果てに口をついた、叫びに似たものである。諸将が居並ぶ中、光秀は屈辱を感じる余裕もなかった。絶望が胸いっぱいに広がっていたのだ。歳も歳だ、挽回する機会はもう得られないかも知れぬ。
この男はもういらぬ、信長がそう判断すれば、明智家の明日は消滅したも同じだ…。

宿敵武田を、とうとうやっつけます。信長が采配を振るうこともなく、次々に部下に裏切られた武田勝頼は天目山の山中で自滅しました。信長の軍旅は、物見遊山の視察です。

信州・諏訪…この地は信長が最も怖れ、尊敬していた武田信玄ゆかりの温泉地です。

したがって、ここでの祝杯は、まさに織田王国誕生の記念すべき祝賀会でした。

「我らに永年の苦労も報われた」

光秀が不用意に発したこの言葉に、信長の怒りが爆発します。

武田対策をどうするか・・・信長は尾張半国の領主だった時代から、常に悩み続け、卑屈な接待外交を続けて耐え忍んできた重大課題でした。そのために、家康の子、長女の婿でもあった徳川信康すら犠牲にしています。

「お前などがどれだけの苦労をしたのか!」

逆鱗に触れてしまったのです。事実、光秀は畿内が担当で、武田対策には全くタッチしていませんでした。今回の攻撃隊長、滝川一益ですら、「苦労」とはいえませんからね。

永年の苦労…と言えるのは家康しかいないのです。

光秀は、失策、と言うよりは、絶望に近い挫折を感じます。佐久間、林などの追放を見てきていますから、「次は自分だ」と確信に近い判断に打ちひしがれます。

その後、何もなかったように家康の接待係を命じられてホッとしますが…山陰への転勤命令で、プッツンしてしまいました。

「やっぱりダメだ。この先、良くても九州支店長か」と、前途に希望を失います。

このあたりですねぇ、不思議なところは…。織田帝国、九州総司令官なら万々歳ではありませんか。気まぐれな信長の相手もせずに、のびのびと風雅の道を楽しめる絶好のポストだと思いますが、光秀の夢と反対だったんでしょうね。

光秀は、京都に異常なほどの執着がありました。天皇のお膝元、文化の中心地、ここから離れたくなかったようです。私のような田舎者には理解不能な執着ですね。

18、光秀は、天から射し込んだ光の中に、おのれが立っているのを感じた。
毛利ではない。敵は本能寺にいる。
御籤を凶と出したのは、その告示である。神が言われるのが聞こえた。

光秀に謀反をそそのかせたのは、京都朝廷の公卿たちです。彼らにとって信長は、まさに魔王そのもので、破壊者です。宮殿の整備などハードは整えてくれますが、儀式、官位、しきたり、礼法など、彼らの存在価値であるソフトの世界は全く無視します。このままでは、宮廷も、天皇も、公卿も、形だけ残った飾り物にされてしまいます。

「信長殺すべし」 この方向に得意の謀略を仕掛け始めます。

諏訪で、信長に叱責され打ち懲らしめられる場面を、従軍していた近衛前久に目撃されました。これが、光秀にとっては「魔がさす」元でした。

「信長追討の綸旨」つまり、天皇のお墨付きを餌に暗殺を教唆されます。

が、実行後にも、綸旨は決して出なかったのです。公卿たちに騙されましたね。

しかし、尊皇派の光秀は、天皇の綸旨にこだわります。それがなければ、タダの暗殺者に成り下がるのですから、必死ですが…「信長を排除する」だけが目的の朝廷は、目的を達した今になって、約束手形など出すはずがありません。

19、山崎の戦とその結末は、数日もしない間に三姉妹の知るところとなった。
羽柴秀吉の名は、主君の仇を打った武将として一躍、津々浦々に響いた。主君の仇討ちという言葉を耳にしたとき、江は今度こそ脱力した。信長は亡くなったのだ、その事実を認めろ、そう言われたように感じていた。不思議と涙は流れなかった。江の心ではなく体は、伯父の死をとっくに受け入れていたのかもしれなかった。

山崎の合戦は、光秀の立ち合い負けです。秀吉が思いもよらぬ速さで戻ってきて、しかも西国に居た軍団をすべてまとめて、戦いを挑んでくるとは全く予想していませんでした。

光秀の読みでは、自分に戦いを挑むのは柴田勝家を中心とする北国勢で、それに、家康が加担するかもしれない…と、考えていました。ですから、光秀の軍は東に向いていたのです。しかも、戦争が始まるのは3ヵ月後程度に考えていました。全くの読み違えです。

戦いは、勢いで勝負がつきます。天の時、地の利、人の和…どれをとっても劣勢にある中で、突然始まった戦いですから、不意打ちされたに等しいのが山崎の合戦です。

光秀の最大の誤算は、やはり「綸旨」でしたね。

官軍になり損ねては「主君の仇討ち」という大義名分には勝てません。

「政権交代」という大義名分で、圧勝した政党の政府が現代の日本をリードしています。

が…、「・・・だから交代だ」と言っていた「・・・」を繰り返して馬脚を現しました。

「支持率1%でも」と意気軒昴ですが、大義のない政権は長持ちしません。

20、「私は柴田様を猿に勝たせたい。それゆえ妻となる。
・・・それは、この私の意志じゃ。誰かの思惑に縛られて、操られて動くのではない」
母上は凄い。ご立派だ……。江は感激に胸を震わせた。お市は静かに続けた。
「母は武将の気持ちで嫁ぐ。そう申しても良いのかも知れぬ」

清洲会議…、信長の後継者を決めようと4人の宿老が集まります。柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉の四人です。柴田、丹羽は代々の家老職、池田は信長の乳母の子ですから乳兄弟、秀吉だけが雇われ人です。いかに仇討ちをしたからといっても、ほかの3人からすれば格下で、発言権は小さくなります。

「後継者は血筋で」と、次男信雄か、三男信孝かとなります。長幼の序を重んじれば次男になるのですが、実力主義の織田家の家風ですから、仇討ち戦に参加した信孝と、安土城を焼いて逃げた信雄では、当然信孝に決まりかかります。それが、家臣全員の常識でもありました。柴田勝家は強力に信孝を推薦します。

が、血筋論と実力論は矛盾します。

その矛盾を突いたのが秀吉で、血筋で行けば信雄であるべきだと主張し、さらに、長男の孫を担ぎ出して、こちらがより正統だと主張します。

この時代に、長子相続の風習は全く廃れていましたから、秀吉の主張に根拠は希薄なのですが、4人の参加者の間では、柴田勝家だけが仇討ち戦に参加していません。参加していないのに「家臣No1」の態度をとるのに、丹羽と池田が反発していました。

その人情の流れを、巧にリードしたのが秀吉でしたね。鎌倉時代の「長子相続」の法律を持ち出して、僅か三歳の三法師を後継者に定めます。

この決定に、織田家の面々は猛烈に憤ります。お市もその一人ですが、軍事的実力がありませんから従うしかありません。

「勝家と信孝を擁して、猿の軍団に対抗する」

これが、お市の決心でした。まさに武将の心意気です。