勝家の誤算(第7回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

本能寺における信長の横死は、日本全国の戦国大名にとって、驚天動地(きょうてんどうち)の大事件です。

その後に続く山崎の合戦も、あれだけの短期間に片がつくと思っていた人は少なかったでしょう。大方の予想では明智光秀が暫定政府を作るが、織田王国は4−5の集団に分裂するというものでした。

柴田勝家とて、その分裂した一つの棟梁(とうりょう)として、10年前に戻るだけ、と考えたでしょう。

この時の勝家の所領は越前、加賀、能登、越中の4カ国を数え、配下には前田利家、佐々成政、金森長親、不破などという歴戦の勇士が揃っています。

この地方は、冬の間雪に閉じ込められますが、それがまた天然の要害で、簡単に攻め込まれることはありません。冬を待てば、侵略軍は撤退します。冬将軍…言葉通りの援軍がついているのです。領国防衛にとっては実に好都合な場所です。しかも、当面の敵である上杉は、謙信の跡目争いで真っ二つに割れ、北陸に攻め込む余裕どころか越中に残した唯一の拠点である魚津城の救援にすら出てこられない有様です。当面、上杉が攻撃を仕掛けてくる恐れはありません。勝家にその気があれば、条件的には秀吉と同等、乃至、それ以上有利な条件にいました。

なぜ、動かなかったのか。

一番の理由は、情勢の見極めのためだったでしょう。明智軍団の味方に誰がつき、誰が離れるか、特に、京都への道筋に当たる近江の大名たちの動向が気がかりでした。

さらに言えば、あまりに突然のことですから、今後の方策が想定できなかったと思います。

光秀を倒したとして、その後をどうするか。

織田政権を乗っ取って、柴田王国を作るほどのことは想像もできなかったでしょうね。

信長の息子の誰かを傀儡(かいらい)にして、政権を思うままに動かす・・・これが勝家の考えた当面のストーリでしょう。順番からいえば信雄、信孝の二人の息子、それに信長の弟・信包あたりになります。

「さて、誰にしようか?」

勝家の眼から見たら、候補3人のうちでは信孝が最も適任に見えます。

とはいえ、消去法の結果です。信長の後を継げる者は、いません。

信雄は気が弱くて疑い深いからダメ、信包は文弱で、信長の天下布武の道は引き継げない、なんとか、合格点がとれるのは信孝しかいない。

そこで採るべき基本戦略は

●信孝を擁して、じっくりと政権奪取を仕掛けよう。

●織田家の筆頭家老は自分、柴田勝家である。自分が信孝の後ろ盾になり、明智討伐の号令をかければ、織田家中に逆らう者はいない。

●信孝は、丹羽長秀と共に大阪にいる。連絡が取れないが、明智陣営に取りこまれる、乃至、殺されることはあるまい。明智は父の敵なのだ。秀吉と合流して姫路辺りに難を避けるであろう。明智退治の時に合流すればよい。

●家康は生死すらはっきりしない。当面は安全パイとして無視してもよい。

●滝川一益は俺の子分だ。俺のやることに従うだろう。彼は関東にいるから、今回の動乱には間に合うまい。

●秀吉は備中で毛利に釘づけにされている。信長様に援軍を要請するくらいだから、動けるものではない。

こう考えると、慌てる必要はありません。じっくりと腰を据えて戦略を練り、多数派工作を万全にして、一気に明智を取り囲んでしまえば勝負は簡単です。

魚津城を落とし、越中を掌握した柴田勝家は、凱旋将軍として越前に戻ります。

佐々成政は越中の国主として残し、前田利家は能登の国主として残します。

甥の佐久間信盛も加賀に残して、越前、北の庄城に堂々の凱旋帰国です。

金森、不破も領地に帰して、北陸方面旅団・柴田軍団は、一旦解散です。

が・・・、

秀吉の、いわゆる中国大返しは勝家の想像を絶するものでした。備中(広島県東部)から姫路までを1日半で駆け抜けると言うのは…想像を絶します。勿論、兵士全員が戻ったわけではなく、騎馬武者の秀吉など首脳陣だけでしょうが…、それにしてもすごいですね。

ここで駅伝大会などやってみたら、箱根駅伝同様に人気の大会になるかもしれません。

ともかくも、途中での食糧、替え馬、その他膨大な物資が必要です。

それだけに…歴史の謎として何人もの歴史作家がいろいろな推理をしています。

●信長暗殺は光秀と秀吉の共同謀議である。秀吉は事前に知っていた。

●黒田官兵衛と安国寺慧恵の間で和議の契約は済んでいた。

●信長暗殺を知ってから和議の交渉に入ったわけではない。

などなどです。

しかし、用心深い秀吉のことですから、光秀との共同謀議はなかったでしょうね。

あったとすれば…近衛前久からの事前情報です。

「信長を殺すように、朝廷から光秀に勅命を出す。協力するように」

こんなことは、あってもおかしくありません。ついでに毛利にも

「京都で大乱がある。秀吉に協力し、邪魔をしないように」

朝廷は無力ではありますが、権威があります。朝敵となることは、この時代の人々にとって死刑宣告に等しいですから、尊重しないわけにはいかなかったでしょう。こんなことでもない限り、いかにのんびり屋の毛利輝元でも簡単に騙されすぎです。しかも、その両脇には小早川隆景、吉川元春という名参謀がついているのです。子供だましには乗りません。秀吉の天下になってから、小早川隆景が5大老の筆頭として重視されたのは、この時の恩返しの意味が強いと思いますね。秀吉を天下人にした陰の功労者なのですから…。

備中から姫路までの軍需物資は…信長軍の進軍のために、事前に用意してあった物でしょう。石田三成、増田、長束など、秀吉側近の兵站担当が準備しておいたものが、別の目的で活用されたのだと思います。一週間か10日後には、同じルートを信長の軍団が通る予定でしたし、その前には明智軍団が援軍として通る予定ルートですからね。食料の手配は万全であったろうと思います。

ともかく…、柴田勝家にとって予期せぬ出来事が起こってしまいました。一番可能性の薄い対抗馬が、あれよあれよという間に山崎の合戦を制し、明智軍を壊滅させてしまったのです。明智という敵を討つために、近江平野で決戦を仕掛けようとしていた戦略は水泡に帰しました。代わって、秀吉という仮想敵が現れたのです。

しかも…、家老の丹羽長秀や、池田恒興、後継者に想定している信孝までもが、その合戦に加わっています。秀吉に取りこまれてしまうかもしれません。秀吉の人たらしの術は、この当時から有名でしたから、時間を置けばおくほど多数派工作にやられてしまいます。勝家は、取るものもとりあえず「後継者決定会議・清州会議」に出てきます。

会議場を清州にしたのは、勝家の作戦です。京都は戦乱で荒れている。安土城は炎上してしまった。されば、織田家発祥の地で決めようではないか…筋が通ります。

多数派工作をするまでもなく、丹羽や池田は柴田案の「信孝後継」に賛成するであろう。

勝家は安心していました。が、秀吉が吉法師を担ぎ出すに及んで、虚を突かれました。

まさか、鎌倉以来の長子相続の亡霊の様な法規が出てくるとは思わなかったのです。

さらに、お市の方との再婚話、その結納代わりとして北近江を勝家にくれるという甘い餌、これに完全に引っ掛かってしまいました。交通の要衝である近江を抑えておけば、秀吉の勢力はそれより東に影響を及ぼすことはできません。戦略的に実に重要な場所なのです。

お市ご料人を嫁にできる…と、色と慾にのぼせあがってしまったのでしょうか。最重要の戦略拠点に置く人選を誤りました。養子の柴田勝豊を入れたのですが…大失敗でしたね。

勝家も秀吉同様に子供がいません。勝豊は身内からの養子です。勝家とは反対の性格で、軍事よりも内政向きの上に病弱です。養子に迎えたものの、気に入らず、仲が冷えていました。さらに、同じ縁戚の佐久間信盛を溺愛していましたね。「養子の選び方を間違えた」と身内に漏らしています。これが、勝豊の耳に入らないはずがありません。

「親父は俺に越前の国を譲らず、近江に厄介払いにした」

勝豊は、勝家に距離を置きます。

それを見逃す秀吉ではありません。長浜城は自分の建てた城です。長浜の住民は秀吉の息のかかった者ばかりです。飛んで火にいる夏の虫…勝豊は秀吉に取りこまれていきます。

この時点で、すでに賤ガ岳の勝負はついていましたね。北の庄の落城も決定していました。

お市と三姉妹は、負けると分かっている方に、流されていったのです。

とはいえ、それは後世の評論です。人生の流れは、誰にも予測できることではありません。