光秀の誤算(第6回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

前回のNHKドラマでは、「アッ」と驚く歴史の新解釈?捏造?をやりましたね。(笑)

江が、堺まで家康と同行し、一緒に大和・伊賀の山中を逃げるというようなことはありえないことだと思います。このとき江はまだ10歳、本多平八郎や酒井忠次などの百戦錬磨の豪傑たちに守られていたとしても、とても逃げ切れる状況ではないのです。

家康主従の伊賀山中の逃避行は困難を極め、同行した茶屋四郎次郎の財力と信用、さらには伊賀忍者たちの支えがあって、薄氷を踏む思いの危険を冒したものです。

堺に同行していた武田遺臣の穴山梅雪などは、河内で見つかり殺されています。

近畿の土豪たちは、永年政権の近くにいますから、勢力の移動には敏感なのです。

「勝ち馬に乗る」というのが、この地域の為政者の太古からの伝統的生き残り術なのです。

明智光秀が織田信長を倒して天下を取った。

この噂は、翌日には近畿圏全体に伝わっていたはずです。そうなれば、家康など信長に近しいものは、地域全体から狙われます。その逃避行の一団の中に「信長の姪」がいるなどと知れたら、家康にとって「おれは明智の敵だ」と宣言するようなものです。

石橋を叩いても渡らない…などと揶揄された用心深い家康が、そんなリスクを冒すはずがありません。その意味で、同行して逃げたというのは…まさに、バーチャルの世界ですね。

光秀が信長暗殺を決意して、愛宕神社の連歌会で詠んだといわれる発句があります。

時は今 雨がしたたる 五月かな

なんと言うことはない、連歌の出だしとしての、時候の発句ですが…これに

土岐はいま 天(あめ)が下たる 五月かな

と、解釈をつけて「謀反の決意」としたのは、山崎合戦の後の秀吉派の創作です。

土岐とは、光秀の家系である土岐源氏を指します。美濃地方に根を張っていた鎌倉以来の源氏の家ですね。戦国末期に、斉藤道三によって下克上され、倒れされるまで、土岐家は美濃の国主でした。明智家は土岐氏の一族と称しています。

「あめがした」を天下と読んで、謀反の決意とするあたりのこじつけは、なかなか見事な作文ですが、「光秀ならその程度の歌は詠める」と思われてしまうのが、教養人・光秀の辛いところです。詠んだのが柴田勝家や福島正則のような体育会系だったら、こういう解釈は絶対にされなかったでしょうね。教養は…時に、誤解されやすいものです。あんまりひけらかさない方が無難ですが、かといって、宝の持ち腐れをしているだけでは「蔵の本箱」です。何の役にも立ちません。勝海舟や龍馬のように「行蔵は我にあり、評判は他人の勝手」「世の中の 人はなんとも言わば言え 我が行く道は我のみぞ知る」と、わが道を行くのが、余計なストレスもなくてよさそうですね。

本能寺は灰燼と帰した。しかし光秀の陶酔は、数日と続かなかった。

信長と信忠を相次いで討った当日から、光秀の誤算は始まっていた。

今週は、NHKのスローダウンに足止めを食って、予定していた原稿では先に進みすぎますので、原作からの引用は程ほどにして、光秀の計画挫折の原因分析をしてみます。

●唐突に訪れたチャンス

信長と信忠の親子が、たいした供も連れずに京都に滞在しています。

信長にしてみれば・・・安心しきっていますから、何の備えもありません。丸腰です。

一方の光秀は、中国出陣のために招集した一万人の軍を持っていますから、クーデターを起こすのにこれほどの機会はまたとはありません。信長を殺すのは簡単です。

しかも、ライバルになりそうな柴田勝家は越中・魚津で上杉と戦闘中です。

滝川一益は上州で北条と戦っています。こちらは赴任したばかりで、軍隊も掌握できていませんから苦戦しています。いわば安全牌です。

徳川家康は、好都合なことに、僅かな手勢で堺にいます。上手くすれば、捕捉して、光秀の計画に反対するようなら、即刻、殺すことも出来ます。

羽柴秀吉は、備中高松城で毛利を相手に釘付けになっています。明智軍の応援を待ちながら水攻めの最中ですから、身動きが取れないはずです。

丹羽長秀は、三男の信孝を連れて四国遠征のために大阪から和歌山に向かっています。

この軍団だけが、当面の気がかりでした。しかし本拠地を離れた軍隊ですから、補給路を断ってしまえば分解してしまいます。恐れるほどのことはありません。事実、丹羽長秀、織田信孝は秀吉が現れるまで何も出来ず、大阪周辺で立往生していました。

5人の軍団長全員が、それぞれの担当分野で苦戦ないし、長期戦に入っていますから、どれだけ弱気に見積もっても2ヶ月から、3ヶ月の時間的なゆとりが持てます。この間に、信長後継者としての手続きを終えてしまうことが出来そうです。

天の時、地の利。時は今・・・まさに、千載一遇のチャンスでした。

●事前準備ゼロ

一方で、光秀の決心と行動は拙速すぎました。信長を倒した後の行動計画に、まったくといっていいほど準備がなされていません。というより、作戦計画がありませんでしたね。

光秀が最も頼りにしていたのは天皇の綸旨です。天皇からの明智政権への認可状です。

「光秀よくやった。逆賊信長を倒して天晴れである」

こういうお墨付きがもらえるものだと信じ込んでいました。それは、前関白近衛前久が、決行の数日前に大原の別邸で約束してくれていたものです。「信長を倒せ。それは天皇の期待だ。綸旨も出す」と密約していたのです。が、信長を殺した後になると、理由をあれこれつけて逃げ回り、一向に出す気配がありません。度重なる催促にも、

「信長が死んだという証拠」を要求されたのです。

光秀が本能寺の焼け跡から、信長の遺体を見つけようと、血眼になったのはそのためなのです。信長が死んだ証拠を示したかったのです。

が、とうとう信長の遺体は発見されませんでした。光秀がもう少し不誠実な男なら、他人の遺体を信長に仕立てて、「嘘も方便」と芝居をしたのかもしれませんが、マジメでしたね。

安土城占領作戦もそうです。

時間をおかずに一気に安土へ向かえば占拠できたのですが、朝廷工作で時間を置く間に、瀬田の唐橋を落とされ、安土への進軍が遅れます。その間に、織田信雄の配下に安土城の天守閣が焼かれてしまいました。権力の象徴、これすら手に入らなかったのです。

仕方ありません。すべてが、計画的ではなかったのです。

衝動的殺人事件・・・という形になってしまいました。事実そうかもしれません。

●人の和

光秀の誤算の最たるものは、人の心の動きでした。マジメで、理性的な光秀の思惑とは、異なることばかりが起きてしまったのです。

まず、最初の躓きは摂津方面でした。高槻の高山右近、茨木の中川清秀は明智軍の配下に組み入れられていますから、光秀の言うことを聞くはずだと信じていましたが、この二人は日和見を決め込んで、光秀軍の招集に応じてきません。伊丹の池田恒興も様子眺めです。

奈良の筒井順慶、かれもどちらつかずの対応で参加してきません。

更に痛手だったのは、足利義昭を連れて越前から岐阜へと流浪した、昔からの盟友である細川幽斎からも「No」の返事が届いてしまったことです。

明智軍の親衛隊一万数千だけが使用可能兵力で、当座の戦闘を賄わなくてはなりません。

「結果さえ出せば・・・」

「綸旨さえ取れば・・・」

これが光秀の命綱でしたが、公卿も、与力大名も、非協力的でした。

世の歴史家は「光秀の人徳が足らないからだ」と決め付けますが、「天皇を拉致し、脅迫してでも綸旨を出させる」というほどの決意と、実行力の不足でしょうね。

なまじ、尊王家だけに、朝廷に対して強引な手が使えなかったのです。

いつの世でもそうですが、赤提灯では上司の悪口が一杯出ます。「そうだ、そうだ」と盛り上がります。しかし、いざ上司に諫言したり、反抗したりする段階になると、皆、様子眺めになります。一緒になって騒いでくれる仲間などは、殆どいません。

結果が好いほうに出れば、「あれは俺が先に言い出したのだ」などと手柄の横取りに来ますし、悪い方に出れば「俺はやめろといったんだが・・・」などと逃げ出します。世の中、勝てば官軍なのです。仲間におだてられて男気などを出すと、おだてのモッコから振り落とされるのが関の山ですねぇ。「一人でもやる」と覚悟して掛からないと、他人の助力などを期待して始めたら、とんだ道化師にさせられます。

現代社会の政治では、マスコミに期待するのが間違いのもとでしょうね。

政権交代で華々しく登場した3人組。小沢、鳩山、菅…叩きに叩かれています。

マニフェストを評価してくれていたマスコミや、評論家は…、どこかに消えました。