北の庄(第8回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

お市と三姉妹が北の庄に移ってからの記録は殆どありません。田淵さんの原作でも、あまり触れられていませんから、想像逞しく推察するしかありませんね。

今週号は、柴田勝家の立場で、勝家とお市の結婚生活をなぞってみます。

柴田勝家は、先週号でも触れました通り、典型的軍人です、政治家ではありません。信長の先代である織田信秀以来、戦乱の世を駆けまわってきた武人ですから、家庭とか、女とかには無縁で、ただひたすら戦いに明け暮れてきました。

「敵を知り己を知れば百戦するも危うからず」と、敵情を探り、身内の兵力を鍛え、武器の調達や兵糧のための財力を蓄えることしか頭になかった戦士です。その意味では…我々世代に似ていますね。家庭を顧みず、ただひたすらに仕事に没頭する企業戦士そのものです。しかも、勝家の場合は天才的経営者・織田信長のNo2、副社長として、「社長の方針は絶対」と信じて、まっしぐらに現場実行部隊の指揮官をしてきました。本社工場の工場長という役回りだったのでしょう。現代で言えば物づくりのプロと言ったところでしょうか。社長が突然に死去して、後継者は勝家の意に反して幼い子供に決まりましたが、勝家の判断としては「常務会による合議制」という理解だったと思います。

社長は飾り物で、副社長の勝家、専務の丹羽長秀、常務の秀吉、滝川一益、池田恒興の5人が会社の方針を決めるという体制です。このほかに平取として信長の御曹司である信雄、信孝、信包、などの織田一族がいますし、その意味では妻となったお市も監査役的な位置づけと理解していたのでしょう。緊急避難内閣、これが勝家の理解で、将来的には信長の息子の誰かが実質経営者になるというビジョンを描いていたのでしょう。

もう一人、勝家が読み違った相手に、子会社の社長である徳川家康がいます。

勝家から見れば、家康は信長社長の忠実な下請け会社の社長でした。親会社の指示には、間違いなく従うであろうと考えていたと思います。とりわけ徳川は生産(戦争)子会社ですから、生産担当の勝家の命令には従うはずだと考えていました。

ですから、家康が勝手に信濃や甲斐に兵を出し(営業活動)、織田家の顧客を奪っていることにも目をつむっていました。いずれは、柴田黒幕政権のものになる土地ですから、一時、家康に預けておこう…という感覚でしたね。

しかし、家康は、信長が亡くなった時から、独立を志向しています。信長の後継者は自分であるという路線に転換していました。家康にとっては、今川から独立した時に次いで、「第二の創業」を志していたのです。

勝家の思いとは全く異なります。家康は「織田ホールディングスはいずれ分解する」と読んで、その時には筆頭株主になるべく、勢力の拡張、株の買占めを図っていました。この当時も現在も同じですが、経営権は株式の何%を持つかが決め手です。

何万石の土地…それこそが株券なのです。

家康の狙った市場、甲斐と信濃は絶好の着眼点でしたね。信長時代の代官たちの民政が悪すぎました。信濃の深志(松本)にいた木曽義昌は、木曽の山育ちですから田園地帯での政治が分かっていません。税金を取り過ぎて、民の反発を買っています。北信濃・川中島にいた森長可は、赴任したばかりで土地柄が全く分かっていません。身の危険を感じて、家康が攻める前に、美濃の本領に帰ってしまっています。

さらに、甲斐の川尻秀正は過酷な残党狩りと虐殺で国中に一揆の火の手が上がっています。

家康は殆ど戦いらしい戦いをせずに、駿河、甲斐、信濃の三国を手に入れてしまいました。

旧領の三河、遠江に加えて旧武田領全域ですから、この時点で秀吉と肩を並べる大株主に成長しています。勝家の勢力下にある越中、能登、加賀、越前よりも上なのです。

さらに、勝家は滝川一益の力も読み違えました。

滝川は信長から「関東を任す」と言われ、関東管領に任じられた実力者でしたが、赴任したばかりで地盤がありません。彼も、早々に本領の伊賀上野に引き上げてしまい、兵力的には弱小領主になってしまっています。

織田政権の常務会では勝家派は3人(勝家、一益、家康)で、秀吉派が3人(秀吉、長秀、恒興)と五分ですが、動員可能兵力では家康が入っても劣勢、家康が抜ければ圧倒的に不利です。戦国の世では会議の多数決などは全く通用せず、兵力の差で勝負が決まりますから、執行役員や部課長クラスの面々は、こぞって秀吉派に流れます。

お市と三人の姫を伴って北の庄に帰った場面で、勝家は引退と同様に見られていましたが、そのことが分かっていませんでした。かつで、あるデパートの引退勧告を受けた社長が「なぜだ!」と叫んだ話がありましたが、情勢判断は慎重にしないといけませんね。

「支持率が1%になっても4年やる」と叫んでいる人がいますが、それは無理だと思いますよ。現代とて戦い(選挙)で政権が移動するのですから、しっかりと情勢判断をして、出処進退すべきです。まぁ、もう一人のガマ親父も世の中が見えていませんけれど・・・。

さて、北の庄に帰った勝家ですが、家庭というものを始めて味わったのではないでしょうか。勝家には子供がいませんでしたから、子供との付き合いは初めてです。

絶世の美女と言われた妻がいて、15歳を頭に美しい娘が3人となれば…デレデレでしょうね。政治のことよりも、家庭が大切になります。

しかも、娘たちは簡単になついてくれません。

相手が男なら、天下無双の豪傑・勝家ですが、女が相手となれば一から出直し、初心者に等しいわけですから、まごつきます。時間を取られます。頭の中の思考回路の半分を家庭に奪われます。雪に閉じ込められれば、ますます…内部指向が強くなります。父親として認めてもらうためにはどうするか、尊敬されるためにはどうしようか…。

お市は「母は武将のつもりで嫁に行く」と言いましたが、嫁を貰った勝家の方はデレデレになってしまったわけですから、これでは戦力低下でしょう。逆目に出ました。

我々は、残念ながら再婚とは無縁で済みそうですが、この、勝家と似たことが「定年」という切れ目で起きますから要注意です。これを、とりあえず勝家現象とでもいいましょうか。家庭に目が向いて周りが見えなくなる症状です。

定年を迎えて、会社や役所に行かなくなると、まずは生活のリズムが激変します。

その第一が、時間感覚がなくなることですね。時計を身につける必要がなくなります。

これって…体調にものすごい影響を与えますよ。体のバランスを崩します。たかが数百グラムの腕時計ですが、これがなくなっただけで体調が変化します。

「代わりに磁気バンドを着けている。念珠を巻いている」と言われる方もあるかもしれませんが、時計でなくてはだめですね。時間を気にする生活を、しばらくは続けないと自律神経が閑人モードになりません。

こんなことを言うのも、定年後5年以内に亡くなる仲間が多いからのお節介です。定年後5年くらいは第二の厄年ですねぇ。ここを乗り切れば、平均寿命近くまではいけそうな気がします。閑人モードになじんでくれば問題ありませんが、そこまでは我慢ですね。

できればスローダウンのために、賃下げでしばらく会社に行きたいところですが、そこまでしてくれる会社は少ないので、ラジオ体操、犬の散歩、ジョギング…というところでしょうか。町内会の役員なども引き受けるべきでしょうね。

「忙しい」というのも健康には良いと思いますよ。

特に「忙しい」を言い訳の材料にしてきた方にはお勧めです。

雑談が長くなりました。

江にとって、勝家は初めての「父親」です。実父の浅井長政は江が一歳になる前に亡くなっていますから、父の記憶はありません。ましてや写真のない時代ですから、イメージすら湧かなかったでしょう。その父親像を…信長に求めていたのですが、信長まで亡くなってしまったところに、勝家が現れました。

姉たちとは違って、勝家を父親として慕ったと思います。江は後々までも秀吉のことを「猿」と呼びますが、やはり父・勝家が「猿め」と呼ぶのに馴染んでいったからだと思います。

信長的、勝家的無作法さも、江のその後に影響を与えたでしょうし、プライドの高さも影響を受けたと思います。江にとっては、初めての父親です。

一方、姉の茶々や初にとっては実の父親、浅井長政と柴田勝家では随分とイメージが違ったことだろうと思います。浅井長政は、どちらかといえば教養人です。明智光秀、細川幽斎に近いタイプですからねぇ。馴染むには、抵抗があったでしょう。そのことが、余計に勝家を悩ませ、内向きにさせたかもしれません。勝家が政治家ならば、外交家なれば、適齢期にある茶々を、戦略的カードとして使う手立てを考えたはずです。関東の大企業である北条、あるいは徳川家、さらに毛利にまで交渉を仕掛けたはずです。

ともかく…為政者として天下布武を受け継ぐのならば、外交音痴では勤まりません。

現総理も、前総理も…その意味では似たようなお方ですけどね。営業なくして企業なし。