魔王・信長(第4回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

安土城の完成から本能寺の変に至るまでの短い期間、長い、長い日本史上でも稀有の虐殺の時代がやってきていました。信長による「逆らうものは殺せ」という方針の下に、信長の行くところでは、ことごとく大量虐殺事件が起きます。世界史上でもヒットラー、スターリンに匹敵する処刑をやってのけたのが、信長という英雄の晩年でした。

どこから歯車が狂いだしたのか? 色々な説がありますが、やはり、浅井・朝倉との対立中に起こした、比叡山焼き討ちではなかったかと思います。人間としての、最低限の良心が、音を立てて崩れ落ち、人間ではなくなってしまったような気がします。

過去の権威を否定する…という、革命家が陥る落とし穴にはまってしまったとしか思えません。人であることをかなぐり捨てて、鬼になる瞬間が、無差別殺人の実行でしょうね。いったん、外れてしまった箍(たが)は、二度と元に戻ることがありませんでした。

天才的改革者であった信長が、魔王、鬼、殺人者としての信長となってしまったのです。

戦争で人殺しをするのは「正義のため」という、良心の逃げ道があります。

が、処刑と言う行為には、為政者、実行者の良心が邪魔をします。魂が傷つきます。

法務大臣が、死刑執行に許可を出せないのも…良心の呵責に耐えられないからです。

13、「伯父上は、家康様の忠誠心をお試しになったのであろう。どこまで信頼できるか、どこまでの無理を聞き入れるかを。そのため、ご子息の自刃という難題を持ち出されたのではなかろうか」
信長の苛烈な性格を思えば、納得できなくはない。でもそれだけで易々と、人の命を奪えと命令できるものだろうか? しかも、娘の夫と、義母だと言うのに。

家康の長男、信康は信長に良く似たタイプの軍事的天才でした。現場感覚に優れ、戦闘をスポーツとして楽しむほどの武闘派で、その指揮能力は父親をしのぐとさえ期待されていた逸材です。ですから、信長も将来に期待し、長女を嫁にやっていたほどでした。

が、織田勢力が力をつけ、政権が安定してくると、同盟国の軍事力が強力になりすぎるのは心配の種になります。信長の後継者である信忠、信雄、信孝に比べて優秀すぎるのです。

信康は、その能力を、武田勝頼との長篠の合戦で遺憾なく発揮し、信長に見せ付けてしまいました。これは信康の不運でした。

「わしがいなくなれば、この男は長女の婿として、わしの築いた織田王国を乗っ取るに違いない」

既に精神異常をきたしていた信長にとっては、一種の恐怖、確信になってしまったのです。

というのも、軍団長として期待していた荒木村重に謀反を起こされています。その前には、男惚れするほど気に入っていた浅井長政に背かれています。人間不信というのか、<優秀な奴は必ず背く>というような方程式が、信長の心の中に出来上がっていたのです。

14、高い地位と広い知行地をもちながら、これといった功績を立てられずにいるものは、この際、家中から追う。信長はそう判断し、老臣を切り捨てて軍団を再編成した。
処分されたうちの一人は、24年も前の背信をその理由にされていた。

人間不信ではありますが、その一方で、信長の合理主義的性格は能力主義の人事に向けて、猛然と組織改革を断行していきます。一方で光秀、秀吉、滝川一益といった新参の武士を抜擢し、もう一方では家柄や経歴に載って、安全第一を計る古参部下を切っていきます。

織田家の代々の家老職を勤め、政権の中枢に居た佐久間信盛は本願寺攻略の無能振りを指弾されて、高野山に追われます。ここに抜き出した24年前の旧悪を暴かれたのは、代々の織田家家老・林佐渡守です。

能力主義の改革と言うのは、現代においても同じ道をたどります。一概に冷酷、酷薄とは言えません。「能力亡き者は去れ」これはいつの時代でも組織の鉄則ですよね。ですから、日本の会社には「定年」という制度があって、老害を排除しているのです。

ではありますが…、

年金の資金が足らなくなって、定年延長を政府が指導しています。が、福祉的観点からの性格が強すぎて感心しません。

出来る者も、出来ない者も、同列に扱うなどは狂気の沙汰です。高齢者雇用はその大半を歩合給とするのが本来で、無能者を企業に抱えさせるような指導は、日本企業の体力を弱めます。定年制の良さを消し去り、企業の競争力を減退させ、税収の落ち込みばかりか、新規雇用の門戸を閉ざすだけです。現在は労働組合がこの政策を強力に要求しているようですし、労働組合が支える政権ですから、福祉に名を借りた偽善がまかり通ります。

「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と繰り返すソーリは、物事の本質がわかっているのか?心配です。

15、「そのキリストとやらをわしは既にしのいだ。わしは乱世を鎮め、世に平和を広めようとしておる。殉教の憂き目に会わずにな」
信者にとっては暴論である。
この傲岸さはどこから来るのだ・・・?フロイスは絶句した。

ルイス・フロイス…彼の残した歴史資料を、後生大事に、「正しい」と信じているのが歴史学者という人たちで、日本人の記録よりも外国人の記録を「第三者の目だから」と信用しているようですが、どこか間違っているような気がしてなりません。古代の邪馬台国論争にしても「魏志倭人伝」という外国の文献を、絶対と信じていますからねぇ。

フロイスは宣教師です。キリスト教の立場です。日本にキリスト教を広め、ヨーロッパ勢力をこの国に引き入れて、あわよくば属国にしてしまおうという魂胆の持ち主です。

そういう男の書き残したものは、参考資料の一つに過ぎませんよね。ただ、完全な形で残っていると言う点で、事実を追う便(よすが)にはなります。

この引用部分には、信長の宗教観、人生哲学が出ています。

信じるものは自分だけだ。自分こそが神である。キリストなどが神だと、異人どもは言うが、磔にされて死んでから、やっと神になれた敗北者ではないか。

オレは、生きながらにして神になったのだ。どんなもんだ。ざまーみろ。

もしかして…、北の将軍様に本音を聞いたら、同じことを言うかもしれませんよ。

スターリンやヒットラーも、これに類したことを言っていますよね。これは独裁者に共通する感覚で、こう考えなければ独裁者にはなれないでしょうね。

16、信長を喜ばせている馬揃えも、光秀には壮大な茶番にしか見えない。馬鹿くさい示威行為だ。であれば、信長に向かってそれをいえ。所詮おぬしに出来はすまいが。
本能寺の廊下をたどりながら、光秀は、もう一人の光秀と刃を交わしていた。それは心中の葛藤を超えた、血肉を相食もうとする死闘であった。

信長にとって京都という町は、過去の日本を象徴する都市です。天皇がそこにいるからと、天皇に敬意を払ってそう思っているわけではありません。「今までそうだったから」と言うだけの理由に過ぎません。

軍事政権・信長から見れば、京都ほど軍事的に守りにくい土地はありません。道が四方に通じていて、守るべき拠点が多すぎます。

信長は、このとき既に、安土遷都を着々と進めていました。反対する天皇は退位させ、意のままになる皇太子を次期天皇として教育中、準備中でした。

当時の安土は、琵琶湖に突き出した半島状の地形です。現代は周りが埋め立てられて往時を偲べませんが、水陸両軍を擁して少ない人数で守ることができる要塞都市です。信長は自分の死んだ後の後継体制を着々と進めていたものと思われます。安土には長男信忠を置き、対岸の坂本に次男信雄、北近江の長浜に三男信孝…近江国全体を要塞化するのです。

近江の国、滋賀県は四方を山に囲まれた盆地です。京都のように一方が開けてはいません。 東海道、中仙道、北国街道、京都口、街道の要所、要所に強力な軍事拠点を置けば、万全の守りです。 そうなれば、安土の対岸、坂本にいる光秀や、長浜の秀吉はいずれどこかに飛ばされます。

頭の良い明智光秀にその事が読めないはずがありません。ましてや光秀には惟任(これとう)日向守(ひゅうがのかみ)という九州の名族の名が与えられています。

「いずれは、くそ田舎の九州に飛ばされるのか」

安土築城が始まった頃から、すでに、光秀の悩みは始まっていました。光秀の読みでは、北陸は柴田、関東は滝川、東海は徳川、中国は羽柴、四国に丹羽、近畿は織田一族…と、3年後の布陣が見えていたと思います。

と、同時に、反逆の道筋をあれこれ思い悩んでいたでしょう。ただ、仲間の後背は全く読めていませんでしたね。この点では、後の石田三成と全く同じ思考回路でした。理屈、論理が先行して、人情の機微に関する考察が未整備だったのです。反逆のチャンスが来たのが…、突然で、早すぎました。