豊臣家誕生(第17回)
文聞亭 笑一(市川 笑一)作
結婚、そして離縁と秀吉の思惑に振り回される江ですが、一成との新婚生活がどの程度の長さだったのか、記録がまちまちのようで、定説がありません。
ドラマの中では「秀吉が一成をクビにした」となっていますが、知多・大野城は織田信雄の配下によって接収され、佐治一成は、対岸の織田信包の津城に逃げ込んでいますから、クビにしたのは信雄で、城を失った一成を見捨てたのが秀吉、ということになりそうです。
一成はその後も織田信包の家臣というか、客将として、京都などに現れていますから、親会社を解雇されて子会社に移籍したような立場でした。「美女いくさ」で諸田玲子は二人の結婚生活は3年ほど続き、戸籍上秀勝の子となっている完子(ひろこ)は一成の胤ではないかと推測しています。たしかに、秀勝と結婚した時期と、生まれた時期の計算が合いません。…とはいえ、離婚させられたのは事実です。
離婚させた理由が「城を失った、役立たず」と見限ったのか、それとも、秀吉が茶々を側室に迎えようとすれば、義兄弟になる男にふさわしくないと考えたか、いずれにせよ結婚させる相手を間違えたのでしょう。もっと、有効な使い道のために取り返したというのがホンネのところだったでしょうね。
43、安土と京で接したときに、たまから感じた、目映(まばゆ)いほどの華やぎは影をひそめていた。その代わりにたまは、静かな落ち着きにつつまれていた。まるで独楽(こま)のようだと、江は思った。烈しいほどの速さで回っているから、ピタリと静止することができる。そんな姿を、たまの気配から感じ取ったのだ。
たま…細川ガラシャのことです。明智光秀の娘で、信長の命令で細川忠興と結婚しました。
たまの父・明智光秀と、忠興の父・細川幽斎は足利15代将軍義昭の直臣として、越前朝倉に居候したり、義昭を岐阜に連れて行き、信長に紹介したりという政治工作を一緒にやってきた親密な間柄です。しかも、両者とも教養が高く、京都の公家衆との付き合いも広い文化人です。単純な武将、軍人とは一味違う政治家同士でした。
そういう点では似合いの夫婦でしたね。仲もよかったようですから、本能寺のことがなければ琴瑟の仲とも言うべきカップルだったのです。
本能寺の後、光秀は味方として細川家を最大の味方と思い込んでいましたが、見事裏切られます。細川家の身替りの早さはこの時ばかりではありません。太閤死後の対立、関ヶ原、大坂の陣など、「政局」と言われるときには裏に回って勝つ方に付き、その都度、身上を膨らませていきます。丹後6万石から中津30万石、熊本57万石へと成長し、明治維新まで生き残った政界遊泳術の伝統は大したものです。その末裔が総理大臣になりましたが、これも政界遊泳の結果で、少数与党ながら総理になってしまいましたね。
話は戻ります。たまも、丹後の山奥に幽閉されて、罪人の扱いを受けます。そのときに、玉が心のよりどころとしてすがったのがキリスト教でした。この時期、信長がキリスト教を保護、支援していましたから、西日本にはかなりの信者がいました。信長が求めたものは西欧文化と技術だけでしたが、庶民は心のよりどころとしての教義に染まっていきました。仏教界が権威主義の従来宗派と、宗教を逸脱して戦争ばかりする本願寺派に割れ、庶民の信頼を失っていましたから、新興宗教としての魅力が高かったと思います。
謀反人の娘…この辛さを救ってくれたのは宗教、それしかなかったと思います。それだけに信仰心の強さは、並ではなかったでしょう。
44、天正13年7月11日。この日は秀吉と寧々夫妻にとって、生涯忘れえぬ一日となった。人臣最高位とされる関白に、武家として初めて、秀吉が任じられたのである。
秀吉が、とうとう関白の位を手に入れます。朝廷の力は衰えてはいましたが、それでも信仰的権威は依然健在で、氏素性の定かでない者が朝廷の位階を得るなどということはあり得なかったのですが、武力と財力を持つ者には養子縁組などですり寄ってくる公卿が多かったのです。
関白の位は平安時代以来、藤原一門で独占していました。特に、現在の総理大臣に相当する関白の位は、ご摂家と言われる近衛、二条、三条、九条、鷹司の持ち回りになっており、他人が入り込む余地はなかったのですが、この持ち回りルールを崩して関白に居座っている二条と、次の順番の近衛が喧嘩を始めていました。近衛の養子になった藤原秀吉にとっては割り込みの絶好のチャンスです。近衛家の肩を持った秀吉が介入し、「喧嘩両成敗」の様な、インチキな理屈を付けて漁夫の利をさらってしまったのです。
まぁ、民主党と自民党の「震災復興の大連立内閣」協議に、少数党の亀さんが仲裁に立ち、
「それじゃあ暫く俺があずかろうか」と連立政権の首班に納まるようなものです。
45、秀吉の勢いはこれで止まらなかった。関白となった後、豊臣姓の下賜を奏請して勅許を得る。豊臣王国が、ここに忽然と生まれ出たのである。
ところが、秀吉はしたたかです。暫定内閣の口先とは裏腹に、長期政権をもくろみます。
藤原家の内部にあっては、藤原家の伝統的内部規定に従わねばなりませんが、一家を立てて独立してしまえば好き勝手ができます。
こういうことをやってしまうところが、革命家信長を見習って来た秀吉の創造性?でしょうか。関白になるまでは血統など無視してきて、なった途端に伝統主義を振りかざします。
いつの世でも為政者の身勝手なところと言えばそれまでですが、こんなことは秀吉に限ったことではありません。その後の政権をとった家康にしても「新田源氏の末裔である」という話は捏造である可能性が高いですね。上州得川村がルーツで、先祖が新田義貞の支配地にいた…というのが新田源氏の根拠というのですから、証拠能力は全くありません。
その意味では江をはじめとする浅井家も、もともとどこの馬の骨か分かったものではありません。近江、佐々木源氏の六角家の家臣が、同じ佐々木源氏の京極家を倒して江北の盟主になり上がったというだけですから、由緒伝統などとは無関係です。信長も、平氏の末裔だと自称していましたが、たまたま東海地方は古代から平家の勢力が強かった地域です。平清盛も伊勢平氏を名乗りますからね。
ただ、秀吉が豊臣家を名乗り、関白の位についたということは、茶々にとっては価値観の大転換につながったであろうと思われます。相当なショックだったと思います。
伯父の草履取りからなり上がった下等動物、というものの見方から、位人臣を極めた関白・太政大臣です。雲の上の人になってしまいました。さらに、下町のオバサンにすぎなかった寧々が「北の政所」になり、田舎婆さんの秀吉の生母までもが「大政所」になってしまったのです。尼将軍と言われた北条政子例もある通り、女の最高位です。
茶々の体内に巣食う勝気の虫に火がついたことは間違いなかったでしょう。
「あんなオバサンが北の政所なんて…。私がなってやる」
秀吉のプロポーズを受ける決心をしたのも、この時ではなかったでしょうか。
46、「利休居士の利休いうんは、禅や仏道の修行者を意味しましてな。俗世の身分を越えてお上の近くにはべることが出来るよう、関白さんが手を尽くしてくれましたんや」
わざわざ説明するとは、改名を強く強いられたことにこだわっている証のようなものではないか。利休は内心で苦笑した。
千宗易が「利休」と言われるようになったのは、秀吉に従って参内し、天皇に茶をたてて差し上げてからです。宗易に「天皇家御用達」の看板がついたのです。
無位無官では皇居に上がることができません。従って、在家の僧侶の資格を急造し、無理やり参内させました。秀吉としては、自分がただの軍人ではない、文化人であるというところを見せたかったのです。大概の権威は、天皇家が許可をしていましたが、茶に関しては天皇家のカタログにはない文化でした。特許権を認めさせたというところでしょう。
利休は、秀吉の保護を受けていますが、自由人として生きることにこだわった人です。
茶々や江と同様に、プライドが高かったのです。演歌の文句ではありませんが「ぼろは着てても心の錦」という感覚でしょうね。秀吉は茶道の生徒であって、先生は自分だという自信が生きる力になっていたと思います。秀吉が黄金の茶室などに代表されるように贅を尽くせば、利休はそれに対抗して侘び、寂などというケチ、ケチ文化を志向します。
両極端、一方がエスカレートすれば、もう一方はさらにエスカレートします。子供の喧嘩の様なものですが、これで両者に亀裂が入らないはずがありません。表面上は一心同体を装いますが、利休の心中はかなり沸騰していたでしょう。「秀吉に参ったと言わせる法」こんなものを狭い茶室の中で考え続けていたと思いますね。
消費文化と貯蓄文化のせめぎあいでしょうか。