水軍の嫁(第14回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

江の結婚生活は、結婚と言うよりは「兄ができた」という感じだったようですね。

江にとって、男兄弟と過ごした経験はありません。戸籍上は万福丸と言う兄がいたのですが、小谷落城の後、秀吉によって処刑されてしまっています。これがまた、姉たちが秀吉を嫌い、恨む理由だったのですが、江にとっては現実感のない話です。

一成は、系図上では従兄(いとこ)になりますが、それまでには会ったこともなかったでしょう。

この辺りのことはわかりません。となれば、小説家の出番です。「美女いくさ」の諸田玲子は小説の冒頭で、江と一成の会話から入っています。

「海がほしいというたらお屋形様に笑われました」

お江は大真面目である。一成も白い歯を見せて笑った。信包だけではない。一成もこの天真爛漫な従妹から途方もない話を聞くのは慣れっこになっていた。

31、尾張の国、知多半島に位置する大野城からは、伊勢湾が一望できた。母と姉たちと身を寄せた上野城での暮らしを江は思い出した。
母上も伯父上も、まだこの世の人だった。そして私はといえば、昔のことは何も知らずにのんびりと子供の時間を生きていたのだ…。
いつまでも追憶に浸っていたかった。されど現実が江を待ち構えていた。

知多半島は丁度尾張と三河の国境に当たります。尾張に属してはいますが、半島の根元の刈谷には家康の母の実家があり、その水野家は家康に属していますし、半島中央部東側の阿久比・久松家も家康の生母、お大の方の再婚先で家康方です。仮に、佐治家が秀吉方についたとすれば、陸の孤島のように遮断され、頼るところは伊勢湾の対岸である津の織田信包しかありません。軍事的には非常に危うい立場です。

しかし江は、政治、戦争とは無関係に、海を眺めて自分の世界に浸ります。

一方の一成は昼の間は海に出て、操船訓練と船具の開発に余念がありません。当時の和船は櫓(ろ)で漕いで進むのですが、一成は南蛮人が使うオールを目にしてから、これを自分の船に装備しようと研究に没頭していました。大型船の左右にオールの漕ぎ手を並べて、最速で船を操る実験です。船の形も改善しなくてはなりません。最も難しいのはオールの固定方法でした。自ら道具を手にとって削り、材質の違う木をいくつか試します。

夕方になると戻ってきて、江と一緒に櫓(やぐら)の上から伊勢湾に沈む夕日を眺めます。

この繰り返しでしたが、江も時には船に乗せてもらい、伊勢湾の潮風を切って進む高速船を楽しみます。漁村に出かけて、漁民たちと網を引いて漁獲を楽しみます。

今までにはない、自由で、充実した時間が過ぎて行きます。一成との生活は兄、妹の様な感覚で楽しいものだったでしょうね。

32、秀吉の胸中が、三成には手にとるようにわかっている。若い頃から仕えてきたことも手伝い、底意も、下心までもが透かすように見えるのだ。それを承知で、三成は大嘘をついていた。
秀吉は尊崇すべき主であり、片や茶々は、近江出身の三成にとっては、神々しいばかりの輝きを放つ小谷の一の姫である。その二人が結ばれるかもしれない。ならば嘘の一つや二つは許されよう。

茶々、初の姉妹は安土城の生活に慣れてきていましたが、大阪城が完成し、秀吉からの迎えが来ます。琵琶湖から離れたくない二人ですが、秀吉の命令には逆らえません。

このとき、秀吉は既に宮廷工作に成功して藤原秀吉と名乗り、公卿の一員に加えられていました。官位も累進し、もはや茶々を宮廷に送り込む必要がなくなっていました。

初とて同じことで、政治的価値は当初よりも低下しています。

が、大阪城に置いて、箔をつけて、次の売り込み先を探そう、というのが秀吉の真意だったと思います。歴史小説では「秀吉はお市に惚れていた」「お市に良く似た茶々を自分のものにしたがった」と、秀吉を女たらしのスケベ爺にしますが、この時点ではまだ、セックスの相手として欲しがってはいなかったと思います。

ともかく、信長の姪です。織田株式会社を乗っ取って、豊臣株式会社を設立しましたが、秀吉を社長と認めない株主が大勢いるのですから、女に現を抜かしているわけには行きません。妻の寧々にしても、信長の姪に手を出すなどという暴挙は、決して許してはくれません。恐妻家の秀吉にとって、寧々に叱られてでも、という勇気はなかったと思いますね。

むしろ、三成など近江人の取り巻きが、秀吉と茶々の一体化を望んでいたのでしょう。

この当時の秀吉軍団は、浅野長政、蜂須賀小六、加藤清正、福島正則などの尾張勢が主体で、彼らは寧々を中心に政治サロンを作っていました。

石田三成や増田長盛、長束正家などという近江勢は、そこからは除け者にされ、「戦の役に立たぬ下働き」程度に扱われていました。

茶々は、近江出身の三成にとっては、神々しいばかりの輝きを放つ小谷の一の姫である

「この玉を使って…」と三成が陰に陽に画策していたのではないでしょうか。自分たちの勢力を大きくするためには寧々に対抗できる華が必要だったのです。

33、腰が座らず、おまけに長い戦にうんざりしていた信雄は、家康に相談せずに、喜んでこれに食いつき、さっさと和議を結んだ。
かつての同盟者、信長公のためのご次男を手助けいたす、そんな名分を失った家康も仕方なく同意した。しかも羽柴家に養子を差し出すと言う条件までつけられて、である。両軍歓喜の講和どころか、なんともあっけない戦の終焉であった。

小牧長久手の戦いが始まりました。織田信雄は秀吉にとって、眼のうえのタンコブです。血筋の上では織田家の正当な後継者であって、秀吉の上位に来るべき立場です。

秀吉としては何とかして排除してしまわないと、信雄の周りに対抗勢力が出来上がってしまいます。事実、家康が味方につき、その家康は関東の北条と手を組もうと工作中です。

この戦争は秀吉が仕掛けました。信雄の家老3人を味方につけ、秀吉の軍門に下るように説得させたのです。これに怒った信雄が3家老を成敗して…、これに、秀吉が不義を唱えます。戦争の理屈などというものはいい加減なもので、中国が尖閣列島で仕掛けてきたような強引な理屈がまかり通るのです。

戦争は秀吉10万の軍に、織田・徳川3万ですから圧倒的に秀吉優位ですが、秀吉は力攻めをしません。秀吉の戦争というのは、その殆どが食料圧迫で戦闘をしないのです。

にらみ合いのまま半年以上経過し、三河に向かった秀次軍が敗退したり、伊賀伊勢方面では織田信雄の城が奪われたりと、主戦場以外のところで戦闘が行われています。

政治駆け引きを知らない信雄が、伊勢方面で脅されて、あっさり和睦してしまいます。

家康にとっては、全くのくたびれもうけでしたね。

34、「戦の大義名分とはなんなのですか」素朴な疑問を、江は夫に問いかけた。
こっちの大義が、向こうには、こじつけや言いがかりにしか聞こえないこともあるでしょう。それがどうした、と相手が開き直って逆手をとると、今度はそれが相手にとっての大義となる。……よくわかりません」
「そういわれれば、大義とは屁理屈のようなものじゃな」
和睦が決まったゆとりからか、一成は笑って応えた。

佐治与九郎は織田信雄の家臣(与力)です。周りは信雄、家康連合軍ばかりです。

が、妻は秀吉の養女です。対岸で水軍を持つ伯父の織田信包も秀吉方です。僅か16歳の若者にとってどういう態度をとるのか、難しい立場ですねぇ。

佐治家は水軍ですから、陸上での戦闘には参加せず、秀吉軍の海からの攻撃や補給を監視する役割でした。熱田や桑名あたりの沖を遊弋していただけです。

秀吉にしてみれば<折角、養女を嫁にやったのだから、寝返って、木曽川から織田の本拠地である清洲を攻めて欲しい>と期待していたのでしょうが、佐治与九郎にその才覚はありません。16歳の若者に、そんな期待をする方が無理ですよね。それに、部下たちが言うことを聞きません。部下のほとんどは織田、徳川に味方しているのです。それが当然で、秀吉方についたら水陸から攻められて三日も持ちこたえられません。

戦争、政争の大義などというものは、所詮屁理屈です。エジプト、リビアで大混乱が起きていますが、大統領派も正義を唱えますし、野党も大義を掲げます。大義と大義が折り合わないのが戦争、暴動なのです。

そう考えると…大義を掲げる人は危ないですねぇ。マニフェストにこだわって戦争や騒乱を起こさないで欲しいものです。さなかに大災害が起きてしまいましたけれど・・・。