産む機械(第15回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

小牧長久手の戦いは両軍ともに持久戦になります。ともに「大義」を掲げて、一歩も引くわけにいきません。秀吉軍は大軍ではありますが、大軍だけに物資を大量に消費し、その補給路が長いために焦りがありました。

この持久戦で評価を挙げたのが若手の浅井家旧臣たちでした。石田三成を筆頭に、増田長盛、長束正家、前田玄以など、後の5奉行として辣腕をふるう面々です。この中に、意外なことに片桐助作(且元)も入っています。賤ガ岳の7本槍の一人で、清正、正則などと同様に武闘派と思われがちですが、近江人らしく流通に関する才覚も高かったようです。近江人は奈良時代からの物流の幹線に居ましたから、伝統的に数字に強かったのです。

余談になりますが、古代は大陸から若狭や敦賀に物が入り、近江を通って京都奈良に流通していたのです。瀬戸内航路が開発され、物流の幹線になったのは平安期だと思います。

さて、この戦争の大義ですが、秀吉が掲げるのは錦の御旗です。つまり、「天皇の代理である自分に弓引く物は逆賊である」。一方、織田信雄は「自分こそが信長の後継者である。

下剋上で織田家を乗っ取った秀吉は逆臣である」となり、家康の大義は「盟友の息子の逆境を救う」というものです。秀吉は「理」を盾にしますし、信雄、家康は「情」を盾にします。異次元の論理を振りかざしますから、妥協の余地がありません。

地震の被災者が気の毒だ…という情と、経済が委縮しては日本が沈没してしまうという理と、その二つの大義が葛藤しています。この兼ね合いは難しいところです。

35、秀吉は姉妹に近づき、江の正面に腰を下ろした。そして静かな声で言った。
「佐治家の所領は没収。そちの夫であった一成も大野城主の座から追った」
「な・・・・」 江は、口がきけなかった。

この戦いの最中に、秀吉は詭弁を使って江を取り返します。茶々が重病で明日をもしれないと江に大阪に来るようにと働きかけます。

善意に解釈すれば、江が戦争に巻き込まれるのを避ける緊急避難です。

悪意に解釈すれば、佐治一成に見切りをつけて、江という政略の道具を取り返した、ということのでしょう。

多くの小説家は後者の立場をとりますが、私は、前者ではなかったかと考えます。

江が知多半島にいれば、徳川の人質にされかねません。佐治一成の水軍は海戦には強くても、陸上から攻められると一たまりもないのです。江が人質になれば、茶々や初も秀吉の言うことを聞かなくなります。これでは公私ともに困るのです。佐治家が健在のうちに、避難させておこうということです。勿論、佐治の煮え切らない態度と、領主として水軍をまとめきれない力量に見切りをつけたということも、原因になったでしょうね。

僅か15歳の若さで、この難しい局面に立ち向かわされた佐治一成は、気の毒としか言いようがありません。秀吉につけば徳川方に攻め滅ぼされますし、徳川につけば江を人質として取られてしまいます。

城を捨てて、秀吉方の津の伯父、織田信包の元に逃れる…これしかなかったでしょう。

それが、離婚の原因にされるのですから気の毒としか言いようがありません。

36、「妹がその夫ともども追放の憂き目に会えば、これを悲しまぬ姉はあるまい。それに、わしはお市様から仰せつかっておる。姉妹三人を守ってくれと。…背くことはできぬのじゃ」最後はうめくような声だった。茶々は、つと胸を衝かれた。

秀吉から見れば「追放」「改易」の処分になりますが、佐治一成から見たら、城を徳川に攻め取られて、伯父の下に逃げ込んだということです。秀吉は江を嫁にやることで自分の傘下に入った、直属の家来であると思ったかもしれませんが、世間知らずの佐治一成は、依然として織田信雄の家臣のつもりでした。豊臣などという出来立てで急成長している会社より、その親会社であった織田家の方が格上だし、居心地が良いと思っていたのでしょう。

現代でも、財閥系の会社の名前を、社名の冠に使うところがあります。三菱某、三井某、住友某…、そこの若い従業員には冠として使う名前にプライドを持つ人が多いのですが、会社というのは名前ではなくて中身です。間違えないようにしたいですね。

江の不幸を出汁に使って、秀吉が殺し文句を吐きます。お市の遺言とも言うべき手紙の文句を口にします。使うタイミングといい、言い回しといい、絶妙だったのでしょう。

こういうところが名優秀吉の、誰にも真似できない能力なのです。演技力が必要なのは昔も今も変わりません。男と女の会話でも、会社と会社の契約交渉でも、膠着状況を打開するのは言葉よりの態度ですからね。

「理屈は通っているけれど…信用できない」これが現政権ともいえます。「理路整然と間違う」ことを繰り返しますから、危なくて仕方がないのです。

37、秀吉が目指すものは天下統一である。しかしその裏に、ひそかな、切なる願いが潜んでいることを、寧々は生来の繊細さと、妻の鋭敏さで早くから見抜いていた。
最高の権力者となれば、お市の長女、さしも頑固なあの茶々も、少しは思いを寄せてくれるのではないか……。そんな青臭い思慕である。

秀吉と寧々、面白い夫婦ですねぇ。相思相愛の夫婦、というより共同経営者というべきでしょうか。事業は秀吉が一手に引き受け、人事や総務的な管理部門は寧々がこなします。

特に、人材育成という点では、寧々の育てた若者たちが豊臣会社の幹部として、それぞれの分野で能力を発揮し始めています。営業(実戦部隊)としては加藤清正、福島正則といったところが目立ちますが、浅野幸長、黒田長政なども父親をしのぐ活躍をしています。

長浜時代に採用した石田三成、長束正成、増田長盛なども内政面で辣腕を発揮しています。

後に、大阪落城の座回しをすることになる片桐且元は、物流、購買面で能力を発揮していました。尾張、岐阜時代に入社した者達の多くが事業部長、支社長として地方を担当し、近江採用のものたちは本社勤務、そんな色分けになって行きましたね。こういう色分けが固まりつつありましたが、それを派閥にさせないのが寧々の手腕でした。

秀吉が異例の昇進をして、関白、太政大臣まで上り詰めたのは、外交手腕もありますが、ひとえに金の力でしょう。信長もそうでしたが、秀吉は宮廷、公卿たちに領地を与えず、金銭をふんだんに与えました。独立した企業とは認めず、サラリーマン化してしまったのです。言うことを聞かなければ金の流れを断つ。秀吉の意に沿えばビックリするほどのボーナスを支払うのですから、公卿たちは尻尾を振って秀吉に従います。

このボーナス査定…これこそが秀吉の名人芸でもありました。天皇に花を持たせつつ、自分の思うとおりに公卿たちを制御してしまいます。この当時の宮廷は平安期以来の金回りのよさで、豊臣政権の永続を願っていました。だからこそ、秀吉によって飼いならされた公卿たちをもてあまして、締め付けを強化して無力化することに苦慮したのが、後の徳川幕府です。関が原から大阪夏の陣までの14年間は、家康の公家対策の期間でもありました。

38、寧々に対する暖かな好意が胸に広がるのを感じながら、内助の功という言葉を江は噛みしめていた。結婚しながら江には努める機会もなく、その意味もつかめないままで終わったが……。

江は、姉たちに比べると活発で、活動家のタイプです。考えてから行動するのではなく、行動が先にたってしまいます。

昔、笠信太郎のエッセイに「ドイツ人は考えてから行動する。フランス人は行動してから考える。イギリス人は行動しながら考える」という文章がありました。教科書にあったのか、試験問題にあったのか忘れましたが、江はまさにフランス型だったようです。原作者の田淵さんはそのように江の行動パターンを意識して物語を進めていますね。もしかすると…茶々はドイツ型、初はイギリス型と性格設定をしているのかもしれません。

江にとって、秀吉と寧々の関係などは、とてもわかるものではなかったと思いますよ。

秀吉は女子社員を採用する気分で、次々に側室を連れてきては寧々の部下にします。

寧々には「後継者作り」という重たいミッション(命題)がありますから、製造機械のつもりで受け入れます。かつて「女は産む機械だ」と発言して罷免された大臣がいましたが、寧々に言わせれば「側室は産む機械」でしょう。大切な機械ですから手入れもしますし、油も差します。嫉妬心など起きようがありません。

が、その寧々にも茶々だけは特別でしたね。ただの女子社員、産む機械ではないのです。

秀吉が、寧々の管理範囲を超えて、惚れ込んでしまっているのですから始末に終えません。更に、信長の姪です。さしもの寧々でも、機械として見ることが出来ませんでしたね。