寧々の学校(第16回)

文聞亭 笑一(市川 笑一)作

今回は主役の江や茶々、初の三姉妹から離れて、秀吉の妻である寧々を追いかけてみたいと思います。どの物語を読んでも寧々を悪く書いたものが見当たらないんですよね。理想の女房…内助の功のスーパヒーローという扱いです。

寧々は播磨の国で生まれて、父を失い、母親とともに尾張に流れてきます。浅野家の養女になるのですが、尾張に来るまでの間は、多分、京辺りで幼少期を過ごしたと思われますから、言葉は関西風の雅さがあったのではなかったかと思います。清洲、いまの名古屋界隈は河村市長のような尾張弁が中心ですから、京訛りの言葉を話す女の子というのは、なんとなく都会っ子の雰囲気がしたでしょう。容姿も並より優れ、明るく機転が利いて、言葉も都風となれば、男どもが憧れてもおかしくありません。

そんな中ですから、藤吉郎時代の秀吉にとっては高嶺の花に近かったと思います。恋の手練手管というよりは、ほとばしる情熱で押しに押し、心を捉えたのでしょう。目標を持ったら全身全霊を賭けて挑戦するという心のパワーが秀吉の凄いところだと思います。

戦国の世ですから、寧々も出世の見込みのある男を選びます。現在の収入よりも、将来に賭けて秀吉のところに嫁いできたのでしょう。このあたりはしたたかに計算していたはずです。秀吉は自らを「太陽の子」と触れ回っていましたが、明るさと、エネルギーの大きさは人一倍だったでしょうね。

現代でも、社員を採用するときの着眼点としてネアカ、ノビノビ、ヘコタレズなどという言葉がありますが、秀吉はまさに、この言葉そのものだったのでしょう。

39、茶々は、松の丸の声が、かすかな媚を含んでいるのを感じる。側室になるなど、考えるのも嫌だった。ましてや、あの猿の妾など……。すっぱい味が、茶々の口いっぱいに広がった。

大阪城の奥には色々な人たちがいます。ここに出てくる松の丸をはじめ、側室と呼ばれるものたちだけでも両手に余ります。その殆どは人質としての意味が強く、秀吉の女漁りというばかりではありません。ただの人質というのでは居心地が悪かろうと、側室という身分で、身内にしてしまったのでしょう。この点では家康とは、女性観が随分と違います。

寧々から見たら松の丸は、性的関係においてはライバルになりますが、それが表に出ないのは、寧々自身がその道に関して淡白だったからではないでしょうか。もしかすると、産婦人科系の疾患があったかもしれませんね。

前号でも書きましたとおり、側室を「産む機械」ないし「女性従業員」と考えていれば、昼の担当、夜の担当などと役割分担をさせ、秀吉の面倒を見させていたのでしょう。この点は多いに割り切っていたと思われます。特に、寧々には子供がいませんから、子供がらみの嫉妬心は出ませんし、不安もありません。

松の丸とは京極龍子のことです。浅井家の前主家・京極家の生まれで、その母親は浅井長政の姉ですから、三姉妹とは父方の従姉です。浅井家に養われ、そして今は秀吉に養われて生きていますから、媚びるのはある種当然で、秀吉の庇護がなかったら名門京極の家も絶えてしまいます。弟の高次以上に京極家の再興を望んでいますから、女の武器を最大に使って、秀吉に「おねだり」を繰り返していたでしょうね。これも女の戦いです。

京極家…足利幕府の重鎮であった佐々木道誉の直系の家です。名門中の名門です。

40、年の瀬が迫る頃、徳川家の次男、11歳になる於義丸が秀吉の養子となって大阪城に入った。養子とはいえ、秀吉が家康に申し入れていた和睦の証、つまりは人質としての入城である。

於義丸…後の結城秀康です。徳川家の次男でありながら家康に嫌われ、弟の秀忠に後継者の座を奪われてしまったのですが、そうなった経緯は本人に全く責任がありません。

母が家康の嫌った築山殿の召使だったということと、一度だけの交わりで妊娠したということから、本当の息子かどうか疑っていたためのようです。生まれてから名前すらつけてもらえず、魚のギギに似ているというので便宜的につけられた呼称がそのまま名前になってしまいました。ギギとは瀬戸内ではオコゼと呼ばれるカサゴの一種です。

家康は顔すら見ず、もっぱら重臣の本多作左衛門に育てられます。本多作左衛門は「一筆啓上火の用心」で名高い、徳川家きっての頑固親父です。

父親に無視されていた息子ですから、人懐っこい秀吉や寧々が、まるで実の親に見えたでしょう。戸籍上は養子ですが、本人は実子のつもりで大阪になじんでいきます。同様に、秀吉、寧々夫妻には大勢の養子や預かり人がいます。信長の4男秀勝、姉のともの息子たち、黒田官兵衛の息子松寿丸、これに親戚から預かった市松(福島)虎(加藤)など数人が加わりますから、男の子だけで10人を越えます。さらに、大名家から預かった女の子が加わりますから20人は下らなかったでしょう。これが皆、寧々の管理監督範囲です。

まぁ、学校でしょうね。寧々校長の下に利休や曽呂利などが加わり、教授陣は豊富です。

秀吉は、自分の無学を補うために、御伽衆と呼ばれる大勢の官房スタッフを集めてきましたから、いずれもが当代一流の文化人ばかりです。

41、しかし寧々は苦労も、運命の皮肉を感じることもなく、むしろ楽しんでこの役目をこなした。生まれついての子供好き、教育好きの性分がおねを羽柴家の母として、生き生きと輝かせてもいた。

子供ができなかったからかもしれません。寧々は大の子ども好きです。ここでいう運命の皮肉とはそういうことで、自分の子がいなかったからこそ、好き嫌いせず、愛情が偏ることなく、均等に目が行き届いたのでしょう。

後の世に二宮金次郎(尊徳)が出ますが、金次郎は教育の原点を次の歌に託しています。

可愛くば 五つ教えて三つ褒め 二つ叱ってよき人とせよ

教育者の一番大切なことは、この歌の冒頭にある「可愛くば」でしょうね。預かった子供たちの一人ひとりが可愛くなかったら、教育などをしても心には響きません。特に、社会学系の学問(哲学、倫理道徳、心理学、法学など)は先生と生徒の信頼関係がなかったら、馬の耳に念仏です。覚えるだけでは何の役にも立ちませんし、なまじ、余計な知識がある分だけ狡賢くなって、犯罪に手を染めます。

「食っていくために」教職にある方々が教えるのは「知識」ですが、社会学系の学問は、親や、地域や、職場で教えるしかないかもしれません。「新人など手がかかるだけで役に立たん。学校は何を教えてるんだ」などと文句を言わずに、「可愛くば」教え導いてください。

体育会系の出身者が入社試験で有利なのは、この種の学問を運動部の中で身につけてきているからです。知識だけでなく、物の見方、見識もあるからでしょう。

42、秀次は必死というより、半ばやけで、これらの戦いに加わっていた。
あの失敗以来、伯父・秀吉の気持ちが自分から離れかけているのを秀次はいたいほど感じていた。何も、後を継ぎたいという野望があったわけではない。だが、武士として認められず、周りか蔑まれたままでいるくらいなら、いっそ戦場で果てた方がましだった。文字通り死ぬ気で秀次は戦い、結果、勝利を重ねたのである。

秀次が犯した失敗というのは、小牧長久手の戦いで家康に負けたことですが、負け方が悪すぎました。弁解の余地がないほどの大失敗、大失態です。

まずは陣形を間違えました。大将が一番後ろを進んだのです。秀次軍は奇襲部隊ですから、迅速な動きが第一です。桶狭間の信長、中国大返しの秀吉、いずれも奇襲作戦ですが、大将が先頭に立って突撃しています。

さらに、軍は四大隊で進んだのですが、隊列の間隔を空けすぎました。先頭の森武蔵(蘭丸の兄)、二番手の池田勝入は桶狭間、山崎、賤ガ岳などの経験者ですから、迅速に進みます。三番手の堀久太郎は、あまりに遅い秀次隊を待つために中間に位置するしかありません。秀次隊は、呑気に、朝の弁当を食うのだと休憩していますから、奇襲部隊とは言えませんね。いかに大軍でも、四つに別れてしまったら家康軍より少数になり、それが逆に、後ろから奇襲を受けたのですから、負けて当然です。大将の秀次が命からがら逃げたのでは、軍隊はバラバラ、戦争になりません。完敗です。

秀次に与えられた敗者復活戦の舞台は四国攻めでした。四国全土に勢力を張っていた長宗我部元親との戦いです。圧倒的兵力の差で攻め込んだのですが、長宗我部の兵は一領具足で知られる通りの精強部隊です。随所で苦戦しますが、秀次が先頭に立って攻め込み各個撃破していきました。大将が先頭に立つと、武将や兵卒にも元気が出るのです。呑気に弁当など食っていると負けます。災害復興も同じこと、戦争です。