海人の夢 第14回 兄弟相克

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

後継者問題は、いつの世にあっても争いの元です。財産や権威があればあるほど、その争いは深刻になり、かつ、周りを巻き込んで大きな騒動になってしまいます。その意味で、貧乏人は幸せなのですが、貧乏人にしても借金があると、その借金を誰が受け継ぐかで争いますから同じことですね。となれば、財産も借金もないのが理想になりますが、なかなかそうはいきません。誰しも、住む家くらいは保有しますし、いざという場合に備えた貯金や生命保険くらいはあります。これが…子供たちの争いの元になるとしたら、悲しいですねぇ。

平家の場合、これは一つの家というより、企業です。本社のある京・六波羅には数百人の郎党を抱えていますし、本拠地の伊勢は勿論のこと、この当時忠盛が預かる尾張、越前、但馬があり、清盛は安芸、家盛は常陸の国主です。さらに家正、家貞なども領地を持ちますし、今まで忠盛が国主を歴任してきた播磨、備前などの国々には商売のための出先機関があります。更に、北九州には宋との貿易拠点もあります。

これらすべてを引き継ぐのですから、莫大な財産と権益になります。もめて当然と言おうか、もめないほうがおかしいですね。

M02、祇園社の一件は清盛にとって良い薬になったのは紛れもない事実であり、それ以降はいっそう内裏の奉仕に精進するのであった。
また、忠盛、宗子の夫婦は乳父母の役で、たびたび重仁親王のもとに上がり、お相手をあい務めたが、親王は崇徳上皇の第一皇子ではあっても、鳥羽院と得子皇后の猶子となっており、宗子はこのとき皇后との接触を深めていったらしい。

祇園での乱闘事件から日吉神社の神輿に矢を放った事件は、政界に大きな衝撃を与えました。タブーとされてきた数百年の歴史を破り、宗教的権威に挑戦したのです。

現代の日本では、デモ隊に発砲するなどという事件は想定外もいいところで、全く考えられませんが、それをやってのけたのです。デモ隊のプラカードを銃撃したようなものですね。比叡山に限らず、宮廷も庶民もビックリ仰天です。しかも、そのことに対する裁定が罰金刑という微罪であったことも驚きでしょう。この事件と、その罪科の裁定で、政治に関する武力使用の道筋がつけられたともいえます。平氏、源氏などの武士団の地位が、いやおうなしに高まったといえます。

鳥羽院が、そこまで計算して裁定を行ったかどうか? 少なくとも、藤原摂関家とは対立する立場にありましたから、その対抗勢力の平氏は温存しておきたかったのでしょう。

鳥羽院は、白河院同様に、かなり我侭な政治を行っていますから、前例を持ち出して行動を制約してくる藤原家よりも、使い勝手の良い平氏、あるいは源氏の武士団を味方にひきつけておきたかったのだと思います。

さらに、わが子を天皇にし、自らも皇后になった得子の思惑が絡みます。自らの勢力を拡大するためには、藤原摂関家は眼のうえのタンコブでした。忠盛、宗子を味方に抱え込み、平氏の力で藤原摂関家を抑えようとします。

とはいえ得子は、乱暴者の清盛より、おとなしくて、使い勝手の良い家盛を平氏の棟梁にしようと、忠盛、宗子に誘いかけていたでしょうね。忠盛は慎重ですが、宗子はすっかりその気になります。

M03、家盛は小さい頃から蒲柳の質でよく熱を出し、母宗子も乳父惟綱もずっと気をもみとおし、まるで腫れ物に触るようだと傍の者たちは見ている。
それでも性格は石の如しといわれるほど固く、生真面目で、特に祇園社事件のあと常陸介に登用された辺りから、鳥羽院の恩寵に報いるべく一人励んでいる様子であった。

清盛には5人の弟がいます。

次男の家盛と5男の頼盛が正妻である宗子の産んだ子で、三男の経盛、4男の教盛、そして6男の忠度は忠盛が外に作った子です。忠度(ただのり)は歌人としても有名ですが、戦上手でも知られます。後に薩摩守を拝命したことから、薩摩守といえば無賃乗車の隠語として使われもしました。そう・・・タダ乗りです。

清盛と平氏の相続権を争うとしたら、家盛しかいません。経盛、教盛は六波羅に引き取られてから、ずっと清盛と一緒に暮らしていますから、実の兄弟同然の親近感があります。

一方の、家盛、頼盛は母の手元で育てられていますから、自然に派閥が出来ますね。

正妻派 対 妾派…どうしてもこういう対立構図になってしまいます。

腕白ぞろいの妾の子と、優等生のわが子が、事あるごとに諍(いさか)いを起こすとなれば、宗子ならずとも、清盛一派を後継者にはしたくありません。

余談になりますが、物語のこの時期、6男の忠度は熊野で育てられています。3男と4男を六波羅に迎えて認知したとき、忠盛は宗子からきつく「今後浮気をしない」旨、誓わされていますが、忠度はその後に出来てしまった子です。人目につかぬところに隠したんですねぇ。いつの時代でも浮気の始末には苦労します。

忠盛と忠度の母は歌人としても有名です。二人の恋歌を載せておきます。

有明の 月も明石の浦風に なみばかりしかよると見えしか     忠盛

雲井より ただもり来る月なれば おぼろげにてはいわじとぞ思ふ  忠度・母

F34、頼長の邸に呼ばれた家盛は、頼長から賀茂の祭りでの舞を賞賛され、正妻の子が平氏の跡継ぎになるのは当然、と誘い水を掛けられていた。
「兄、清盛の数々の不始末を補ってあまりある。そなたのごとき優れたものが世にきらめくが道理じゃ」

後継者争いというものは、当事者だけでなく、平氏の身内の郎党や、対抗勢力や、さらに野次馬にとっても面白いものです。とりわけ藤原摂関家にとって見れば、新興勢力の平氏の結束に皹(ひび)を入れ、力を弱めてしまうチャンスです。

乱暴者で、藤原家に良い印象を持っていない清盛を手なづけるのは大変ですが、マジメで、公家社会に尊敬の念を持つ、優等生の家盛に目をつけたのは当然です。

おだてあげ、便宜を供与し、位階を上げていけば、家盛のほうが清盛よりも格上になって行きます。そうなれば、平氏の郎党たちが動揺するのは目に見えますし、さらには家盛派が勢力を持つことになります。

こんなことは藤原家が飛鳥、奈良朝からやってきた常套手段で、赤子の手をひねるほどにたやすいことです。ましてや公家文化に憧れている家盛が相手ですから、頼長にとっては実に簡単な工作だったでしょうね。

M04、往路はことなく一同熊野神社参詣をすませた三月、帰路もゆるゆると道をとって宇治川のほとり、落合村まで来た十三日、馬上の家盛が突然苦しみ始め、あわや落馬せんばかりに悶(もだ)えるのを見て、従者たちは急いで家盛を馬から下ろし、道の脇に休ませた。

平家物語には熊野詣の話題がよく出てきます。法皇、上皇、帝なども頻繁に熊野社に参詣していますね。熊野神社は、日本に渡来した南方海人族の守り神です。この国に縄文土器をもたらした先住民でもあります。弥生式土器の時代に入って、稲作や国家の統一がなされたのですから、為政者にとっては先住民との融和というのも、国の重要な政治課題だったのではないでしょうか。「和を以って尊しとなす」という聖徳太子の憲法も、先住民との融和を大切にするという意味に思えます。

熊野、熊襲…どこか似た響きを持ちます。熊野神社は全国いたるところに末社がありますが、その殆どが海岸に近いところにあります。私の住む町も鎮守の社は熊野社ですが、今は海岸から10km以上離れています。しかし、神社のある山のふもとから大きな貝塚が発見されているところを見ると、古代はこの辺りまで海だったんですね。ちなみに、貝塚のある場所は海抜10mしかありません。東京湾に東北大震災並みの大津波が来たら、危ないですねぇ。「ここより下に住むな」の「ここより下」に住んでいるのが現代人です。

それはさておき・・・

このときの熊野詣に、清盛は護衛の役から外されています。護衛の隊長は父の忠盛、副官として指名されたのは、弟の家盛でした。この辺りにも藤原頼長の計算が潜んでいたような気もします。

帰路、京都まであと一息というところで家盛が倒れます。死因はよくわかりませんが、小説の記述から推測すれば、心臓発作のようですね。心筋梗塞でしょうか。

発病したのが夕方で、その日のうちに息を引き取ってしまっています。