海人の夢 第8回 太宰府の大弐

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

妻を迎えた清盛は、平氏の中で当主忠盛の後継者としての地位が明らかになって行きます。

同時に、朝廷における地位も従四位下に任じられ、父親と同じ地位にまで達しています。

この官位は、現代の中央官庁の部局長クラスに当たります。軍隊の位で言えば少将、大佐というところでしょうか。

海賊退治の功績で主将の忠盛に褒賞を与えれば、既に四位であった忠盛は三位に昇進し、殿上人、公卿の仲間入りをしてしまいます。それを阻止するために藤原一門が取った苦肉の策で、息子の清盛のほうを昇進させたのです。公卿、つまり政策決定メンバーは藤原一門で独占する…というのが、400年かけて達成した藤原一門の成果なのですから、ここだけは譲れなかったのでしょう。長期政権というのは、多かれ少なかれその傾向があって、独裁体制をかたくなに守ろうとします。アラブの春で倒された政権、がけっぷちの政権、そして中国、北朝鮮、ロシアなどでも同じことです。

15、冬に入ってから、急に平清盛は大宰府の大弐を朝廷から仰せ付けられた。
役目は形だけで、現地へ行かなくてもよい場合があるが、今度は 清盛自身、直ちに九州の大宰府に赴くように、という朝命であった。

大宰府といえば太宰府天満宮、菅原道真ですよね。天神様です。

東風吹かば 匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ

菅原道真は、風神、雷神と同一視されることも多い悲運の人として印象に残っていますが、藤原一門との政争に破れ、大宰府の地で悶々として生涯を終えた人です。道真が死んだのは900年ですから、清盛にすれば、かなり昔の人です。道真以来、大宰府は厄所、その長官である大弐は、左遷の場と思われて、公卿たちにとっては忌むべきポストでした。

現在で言えば福岡支店長でしょうか、九州全域を管理する立場ですが、九州経済は全国の一割もありませんから、中央から見れば島流しです。菅原道真はすっかりグレて、歌三昧でしたが、現代の支店長さん方は酒場通いか、ゴルフに精を出します。どこの会社でも役所でも例外なく「博多に赴任したらゴルフが上手くなる」と言われる通り、腕を挙げます。

では、楽な場所か…というと、そうではありません。九州のマーケットは実に難しい場所で、理屈どおりに行かない所なのです。情が濃いと言うか、中央に対する反骨精神が旺盛で、一筋縄ではいかないのです。九つの州(旧国名)から成り立ちますから九州ですが、それぞれに自己主張が強くて、扱いかねます。現在は7つの県に編成されていますが、今でも県と言うより国単位の文化が根強いですね。豊前(北九州)、豊後(大分)、筑前、筑後(福岡)、肥前(佐賀、長崎)、肥後(熊本)日向(宮崎)、薩摩、大隈(鹿児島)の、地域ごとに独特の文化がありますし、その地方文化に誇り高き人々が住んでいます。

それはそのはずで、縄文文化も、弥生文化も、統一国家としての日本も、ここから始まっているのです。卑弥呼の邪馬台国がどこにあったかが、百年来の議論になっていますが、邪馬台国のありかと関係なく、九州が日本国の起源であったことは確かです。

この誇り高き感情は、京都人を中心とする関西人が、東京を蔑視する感覚に似ていますね。「本家はこっちだよ、分家のくせに偉そうにするな」という感覚ですが、九州からすれば「何を偉そうに。総本家はこっちだ」となります。

いずれにせよ、清盛は難しい役職に挑戦することになります。

F15、博多は平氏と深くかかわっている町だ。館には平氏を顧客にしている宋の海商が出入りし、この日も購入した大量の品々を運び入れた。家貞が立会い、清盛たちもその場に居合わせたが、宋の海商が帰ってしまうと盛国と兎丸がやたらと不思議がった。
宋との取引は大宰府を通さなければならないという決まりがある。

平安時代は、鎖国の時代です。日本が鎖国をしたのは、江戸時代だけではありません。

江戸時代は長崎を唯一の例外として門戸を開いていましたが、平安時代は、博多が唯一の海外との接点でした。しかも、ここに出入りする中韓の舟は、すべてが密貿易船です。

中国とも、朝鮮とも国交がありませんからね。通商協定などあるはずがありません。したがって、商売は全て密貿易になりますから、悪いことをしているわけではないのです。

ただし、朝廷は「全ての海外取引は大宰府を通すこと」と決めていましたから、大宰府は税関機能を持っていたんですね。

平家は大宰府抜き、関税抜きの取引をしていました。これが平家の財源ですし、その利益は白河法皇、鳥羽上皇の「院」に還元され、大宰府経由の天皇には届かない仕組みが出来上がっていましたね。だからこそ、天皇の権威よりも上皇、法皇のほうに権力が集まったのです。世の中万事金次第…今も昔も変わりません。これを金権政治というのなら、金権政治こそ、人類が営々と続けてきた社会システムなのです。

東部方面軍司令官の源氏が貧困に喘ぎ、西部方面軍司令官の平家が富を集め政治力をつけていくのは当然の流れで、平忠盛と源為義に、それほど大きな能力の差があったわけではありません。通商立国を目指す平家と、農業立国を目指す源氏の差、それだけです。

まぁ、TPP議論のようなものですねぇ。

16、自分が大宰府の大弐として任官してきた以上、朝廷よりの命令は、必ず守らせる。そして、私闘を行うことは許さない、もしも大宰府の触れを聞き入れない場合は、討伐の軍勢を差し向けるゆえ、さよう心得るよう。
そういう清盛からの下知であった。

ドラマでは、清盛が博多に出張して土産を買ってきた程度に描いていますが、清盛は一年近く大宰府に滞在しています。かなりな行政改革をやっていますね。引用したような施政方針を九州全域に発布しています。これは、百年来誰もやっていなかったことで、当然、九州の豪族は反発するか、大宰府に擦り寄るかに分かれます。反発したのが、日向の虎・武藤頼平。擦り寄ってきたのが筑前の原田種賢です。清盛は原田党を砂金の力で取り込み大宰府の勢力に取り込みます。

さらに、藤原純友の乱以来、荒廃していた大宰府を再建します。城郭としての機能も補強します。権威の象徴は建造物ですから、大宰府が「城跡」では様になりません。

平家の家臣は200人足らずですが、原田一党の兵と、建設関係者で、千を超える兵力を大宰府に駐留させていたと思われます。引用したような、高飛車の指令書を、九州全域に配布すると言うことは、戦を覚悟していなければできることではありません。

日向から、武藤の軍が大宰府を襲撃しに遠征してきました。中央政権が権力を回復することは、地方豪族の権益を奪われますから、大宰府は従来通り無力な飾り物がよいのです。

清盛は修築した土塁、堀によって防戦し、敵が前方ばかりに注意をしている隙に原田党に後方から襲わせ、武藤頼平を捕虜にしてしまいました。

これで、北九州における平家の評価を高め、大宰府、朝廷の権威を回復します。こういう活躍があればこそ、後の平家の実力向上に繋がっていったのです。物見遊山に九州に修学旅行に行ったわけではありません。

F16、「今のままでは何も変わりませぬ。もっと根本から変えねば。それには万事豊かで、全てが花開く美しい国、宋国を手本にするがよいと存じ、ぜひ朝廷にお諮りいただけますよう、内大臣様にお願い申し上げまする」

島流しにしたはずの清盛が、大宰府で大手柄を立てるとは…内大臣の藤原頼長にとっては面白くありません。平家の実力、評価がますます高くなり、鳥羽上皇の信任が厚くなれば藤原一門にとってはピンチです。

そこで目をつけたのが平家のやっている宋との密貿易で、このスキャンダルを材料に平家の追い落としを画策します。まぁ、国会でやっている問責決議と似たようなものですね。

頼長は院宣偽造などの証拠を集めて、現代の魔女狩り裁判(オザワ裁判)を仕掛けますが、深追いすれば、平家にクーデターを起こされる不安がありますし、大宰府が平家なしには機能しなくなっている現実もあります。

それもあって、引用したように清盛に逆襲され、しかも政策面では頼長が向かう方向と同じ事を提案されてしまいました。頼長も宋の政治システム、社会システムを研究中で、藤原氏による行政改革を推進しようとしていたのです。

ただ、二人の違いは、頼長が天皇と藤原一門による政権運営を目指したのに対し、清盛は広く人材を集めた合議政治を目指していました。一方が世襲政治を前提にしたのに対し、もう一方は実力主義を志向しますから、全くかみ合いません。それに天皇親政と、院政という権力争いが加わります。保元平治の乱への伏線ですね。