海人の夢 第7回 瀬をはやみ
文聞亭笑一
【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】
白河法皇の時代の宮廷内の性関係の乱れは、現代人には想像も付かないほどで、その関係を整理して、理解するだけで疲れてしまいます。「モノノケ」といわれる所以の一つでしょうが、まぁ、ムチャクチャでしたね。
鳥羽上皇も崇徳天皇も白河の子ですから、父系で見れば兄弟になりますが、崇徳の母は鳥羽上皇の后ですから、母系で見れば連れ子、子にあたります。男が女の家を訪ねて性行為をするということが当時の風習であったにしても、息子の嫁を相手にするなどということは許されざる行為でした。鳥羽上皇から見て崇徳天皇は、到底弟としての愛情の対象ではなく、不義の子、許されざる存在と写ったでしょうね。政権を譲らず、抹殺してしまいたい気持ちもわかる気がします。
今回のタイトルには、百人一首にも残る崇徳天皇の歌の発句を持ってきてみました。
瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の 割れても末に逢はむとぞ思ふ
……急流が岩にあたって砕け、二つに裂けて流れていくけれど、いつかきっとめぐり合う
あなたとの恋は引き裂かれたが、いつかきっと会える日が来るよね
この時代の和歌は、ラブレターとして使われることが多かったですから、「瀬をはやみ」という激しい恋心を、誰かに邪魔された男の心境を読んだものだと言われています。
しかし、崇徳は恋をして遊んでばかりいたわけではなく、政権担当意欲が旺盛でしたし、鳥羽上皇の政治に不満を持つ公卿、公家が政権奪取を煽動しますから、不満がたまります。そうですね、黒幕の誰かさんがTPP、増税など事毎に反対するので、「何も決められない」総理大臣の心境が「瀬をはやみ」でしょう。
そういう点から解釈すれば、上記の歌は「乱れた世を正そうと気は焦るが、上皇という邪魔者に遮られて思うに任せない。しかし、いずれは私の手元に権力を奪取しよう」ともなります。歌にしても文章にしても、作った本人の思いと、それを読んで解釈する人では受け止め方が異なります。崇徳天皇が何を思ってこの歌を読んだか、それは本人しかわからないことでしょう。
今週のNHKドラマでは清盛の恋の話が中心になりそうですが、こちらの物語、海人の夢では、時代が大きく変わる前夜の景色に焦点を当ててみます。
F13、この賑々(にぎにぎ)しい凱旋(がいせん)は、兵士が貴族の世に武士の力を見せ付けるに十分効果的だった。
海賊を討伐して都に凱旋する平家の軍勢は、それまでになかったほどきらびやかに、且つ整然と行軍して都を練り歩きます。羅生門(らしょうもん)から烏丸通に入り、右に折れて五条大橋を渡り、六波(ろくは)羅(ら)の屋敷までの盛大な軍事パレードです。
都人にとっては華々しさよりも、「整然とした行進」が、何とも魅力的に映ったのではないでしょうか。治安が乱れた社会にあって、組織的に行動する軍隊というものは「彼らに任せておけば…」という安心感を与えます。
これは、常日頃、自衛隊を「うんさくさい。無用の長物」と眺めていた者達が災害救助を受けて「頼りがいがある」と見直す気持ちに似ています。軍隊とは、もともとそのような性格を持つ存在なのです。それだけに、政権がしっかりしていればシビリアンコントロールが利きますが、為政者が「飼い犬」程度にしか思っていないと、「飼い犬に手をかまれる」つまり、クーデターに繋がります。
「麻呂は軍事には素人じゃ。これがホントの文民統制。ほほほ」といっていたかどうかはわかりませんが、殿上人、公卿たちは平成の防衛大臣と似た心境だったのです。
「我々を守ってくれるのは公家ではない。武士だ。とりわけ平氏だ」
こういう世論を、意図して企画したとすれば、平忠盛は相当練れた政治家でしたね。
13、「公卿の天下がいつまでも続くと思っているのか。庶民の苦しみを知らず、風流にその日を送っているうちに、それがおのれたちの墓穴を掘ることになる、とやがて気がつくであろう」
そっくりそのまんま・・・現代の政治家に通じますねぇ。
「選挙で当選してしまえば、もはや好き放題で何でもできる」と思っているのが現代の政治家に見えます。永田町という宮殿の中で、手練手管をこね回して、党利党略に現を抜かしています。彼らこそ現代の公卿でしょうね。借金まみれの国家財政を尻目に、「お金の欲しい人寄っといで」とばかりに子供手当て、高校無償化、農家個別補償、そして最低保証年金をばら撒きます。そのくせ、最高裁から違憲判決を受けた定数是正などには手をつけません。定数を削減すれば議員失業に繋がりますからね。今回も適当に数合わせをして、お茶を濁すだけでしょう。
「何も決まらない」から、「何もしない」というのが現代の政治ですが、平安末期の政治も似たようなものでした。税金の取立てだけは一所懸命ですが、民政は代官任せでほったらかしです。とりわけ商工業などには目が向いていません。経済といえば「天候が良く豊作ならば良し、凶作ならば神に祈る」というお気楽政治でしたね。
「景気が良くなれば…」「円高が収まれば…」と、神に祈るに等しい議論をして、「国民のために一生懸命議論をしている」と胸を張るのですから、平安の公卿と変わりありません。
F14、義清は内裏に召しだされ、崇徳帝と謁見した。義清が呼ばれたのは、義清の歌の才能を聞き及んだ崇徳帝直々の意向だという
佐藤義清(後の西行法師)の文学の才はずば抜けていたらしく、あちらこちらの歌会に誘われます。自作の歌を披露するのは勿論ですが、他人の歌を、相手が満足するように解釈し、参加者に解説してあげるのが巧みだったようで、褒め名人といったところです。
天皇自らが呼び寄せた…ということが本当にあったのかどうかは疑問です。ましてや、崇徳天皇の「瀬をはやみ」の歌を講釈するなどということはなかったと思います。
というのも、その頃、藤原定家が編纂していた歌集に自分の歌が載るかどうかで随分と気を使っていたという記録もあるようですから、歌の世界で第一人者とはいえなかったと思いますね。義清の歌が光を発するのは、出家して西行となってからだったと思われます。
ただ、北面の武士、天皇の護衛官ですから、天皇が外出する折に牛車の脇につき、言葉を交わしたりすることはあったと思われます。
14、その日も、あくる朝も、清盛は五条橋の袂(たもと)の仮小屋に行って、難民たちへ食料を与えた。その一方、六波羅の館では、仕事のない難民たちに、道普請、橋の修理などの仕事を与え、帰りには食物を渡した。
災害時の炊き出しに自衛隊が出動している姿を想像してしまいます。この時代の物語では、やたらと「飢饉」の文字が目に付きますが、凶作でなくても飢饉は起きます。アフリカの政情不安定な国や、北朝鮮では、現代でも飢饉のニュースが流れる通り、治安の乱れや、流通の滞り、災害復旧の遅れなど、食糧不足の原因はあまたあります。
天候異変による災害、凶作が続いたと、飢饉の原因を捉えがちですが、同じ時期に東北の平泉の地では藤原三代による豪華絢爛たる文化が花開いていたのです。食糧不足に喘いでいたら、金色堂や毛越寺などの世界文化遺産が作れるはずがありません。日本列島で凶作が起きるとすれば、最も被害を受けやすいのは東北、北陸のはずです。米が取れない原因の最たるものは冷害ですからね。
飢饉が起きていたのは都周辺だけだったでしょう。地方領主は「凶作」と「盗賊」を言い訳にして納税や米の流通を停止していたのです。政治への信頼が地に落ちていますから、納税意識などありません。そういった点でも現代に良く似ています。
食糧危機の都では、平氏に限らず余裕のあるものたちが炊き出しをしていました。これには理由があります。正社員として郎党を雇い入れるほどの余裕はなくても、アルバイトとして雇い入れ、平家シンパにして非常時に備えるという政策は取りえます。食料を求めて集まってくる人々の中から、才能のあるものを発掘し、登用するという採用面接のようなことをしていたのが清盛だったと思いますね。
力が強く、精悍なものは兵士として刀槍の稽古をつけ、建設関係の腕の良いものは、その技能に磨きをかけさせて、朝廷からの寺社建築の要求に備えて組織化していきます。さらに、情報能力の高いものや、盗賊まがいの者などは、忍び、隠密として公卿たちの動きを監視させます。この時代の物語には、傀儡師(くぐつし)という芸人が登場しますが、彼らは戦国時代の乱破、忍者と同様の役割を果たしていたと思います。
源氏の為義と、平家の忠盛で政治力に差がついたのは、彼ら傀儡師という情報要員を組織として抱えていたか、いなかったかの差のような気がします。