海人の夢 第12回 ややこしい系図
文聞亭笑一
【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】
物語は現在1140年ごろをたどっています。この年は佐藤義清の出家と、崇徳天皇から近衛天皇への譲位が行われた年です。定かではありませんが同じ頃、清盛の最初の妻である明子が亡くなります。残された子供は二人、清太(重盛)と清次基盛ですが弟の方は、明子の実子ではなさそうですね。清盛が町人との間に作った子だという説が一般的です。
この頃の家族関係は、現代人の一夫一婦制の考え方では理解できません。とりわけ、白河法皇のような怪物にいたっては、手当たり次第ですから系図の書きようがないのです。
ついでですから整理しておきましょう。
物語に登場するだけで、白河法皇には4人の息子がいます。長男が堀川天皇で、この人は若くして亡くなり、その息子の鳥羽天皇が後を継ぎます。白河法皇からすると孫です。
年齢からゆくとその次、次男に当たるのが清盛ですが、白拍子の娘との間の子ということで除外されます。三男が崇徳天皇ですが、この子は鳥羽天皇の后・璋子の子でもあります。
ですから白河の孫の鳥羽帝からすれば、息子であり、伯父であるという変な存在なのです。
ただ、自分の子でないことだけは確かで、妻の連れ子ということになりますかね。
そんな関係ですから、可愛くありません。にもかかわらず、祖父・白河の鶴の一声で次期天皇に指名しなくてはならぬのですから、憎たらしい存在でしょう。鳥羽は最後まで崇徳を「伯父」と呼んで、息子としての扱いをしませんでした。
更に四男が後白河天皇です。テレビではやんちゃな雅仁親王として登場しています。彼も、崇徳の場合と全く同じ組み合わせでの出生ですから、鳥羽からすれば伯父になります。
となると…白河を初代として鎌倉幕府が開設されたときの11代後鳥羽まではどういう関係か? これをなぞってみます。
初代 白河天皇 もののけ大王ですよね
二代 堀川天皇 白河の長男で、鳥羽天皇の父親です
三代 鳥羽天皇 堀川の一人息子です 父が早くなくなったために幼年から皇位継承
四代 崇徳天皇 白河の三男で、形の上では鳥羽の長男 鳥羽は伯父に皇位を譲った
五代 近衛天皇 鳥羽の長男で、崇徳の養子 つまり正統に大政奉還した形になる
六代 後白河天皇 白河の四男で、鳥羽の次男 近衛が幼くして死亡し皇位が転げ込む
七代 二条天皇 後白河の長男
八代 六条天皇 二条の長男
九代 高倉天皇 後白河の次男で六条の伯父に当たる 母親は清盛の妻・時子の妹
十代 安徳天皇 高倉の次男、清盛の娘徳子の子
十一代 後鳥羽天皇 高倉の長男
明治政府から戦前までは、こういう関係をあるがままには書けませんから、ずいぶんと色々な関係を創作しています。清盛を「皇位を穢した極悪人」としていましたが、清盛が白河の次男であれば、後白河と入れ替わって天皇になっていても、おかしくありません。
清盛が後白河の胤であるというのが嘘か、真か、…後に天下をとった源氏からすれば「嘘」としておいたほうが、都合がよかったでしょうね。清盛が悪人であればあるだけ、朝廷から幕府に政権を奪ったことの罪が減免されます。
F28、この頃、平氏は強大な武力と財力を駆使し、鳥羽院を脅かす強訴をたびたび退けていた。こうした平氏一門の働きに、鳥羽院は知行国や地位を与えることで報いた。
この頃の平氏にどれだけの知行国があったか? それを考えて見ます。
1179年に清盛が軍事行動を起こし、後白河法皇を幽閉してしまったときには、日本の約半分、32カ国の知行国を有していました。平時忠が「平氏にあらずんば人にあらず」と豪語した頃の最盛期ですが、この時点、1140年頃はどうだったでしょうか。
伊勢はもともとの出身地ですから、清盛の祖父・正盛の時代からの知行国です。
忠盛の代になって、肥前、筑前が加わり、さらに播磨、但馬が加わります。
多分、この程度だったと思います。が、もしかすると備前、安芸、讃岐、伊予の一部まで勢力化におさめていたかもしれません。瀬戸内の海岸線は平家の縄張りになっていましたからね。正規の税収ではなく、縄張り代、みかじめ料などの名目で収入源になっていたと思われます。
法皇にしてみれば、平家に預けておけば、海外との密貿易による分け前も懐に入るという計算だったでしょう。大宰府経由の公式ルートでの利益は天皇の元、つまり藤原家に入ってしまうのです。この頃、平家の貿易拠点は大宰府の監視の目が届かない肥前の唐津に移っていたようです。肥前ならば自分の知行国ですから、大宰府の査察を拒否できます。
さらに、忠盛の大番頭、平時貞が自らを「薩摩の平六」と名乗っています。もしかすると一門の時貞や忠正なども知行国を貰っていたかもしれません。経済音痴の院や、公卿は、忠盛に位階を昇進させない代わりに、知行国を大判振る舞いしていた可能性があります。
考えてみれば財界と官僚機構のもたれあいのようなものです。経済利権を与える代わりに裏金を懐に入れる仕組みですよね。そう考えると、安全保安員と電力会社、原子力関連メーカも平安末期と同じ穴の狢(むじな)かもしれませんよ。
F29、清盛の館に僧衣の高階通憲が訪ねてきた。今は出家し、信西と名乗っているという。
鳥羽院や藤原頼長に失望し、これ以上の出世も望めそうにないので出家した、という信西に、清盛は言葉を失った。
物の本によれば信西、高階通憲は政治よりも学問の道に関心が高く、もともと高階家の伝統的地位である朝廷の公文所筆頭の地位に復帰することに執念を燃やしていたといいます。
高階家の先代がなくなったときに、北家にその地位を召し上げられ、「返せ、戻せ」というのが信西の主張だったようです。ところが北家は手に入れた美味しい地位を離しません。
現代で言えば、文部大臣、兼東大総長でしょうか。
この頃に家元制度があったかどうかは判りませんが、似たような権威はあったようですね。
歌聖といわれた西行ですら、藤原定家の編纂した古今和歌集、百人一首などに自作の歌を載せてもらうために、かなりな貢物をしたと記録にあります。
信西は、その地位を「奪い返すには政治力だ」と見極めて、藤原頼長に近づき、雅仁親王を担いで努力するのですが、鳥羽院は関心を示してくれませんし、頼長は収入源を離す気配はさらさらありません。残るは…幼少の近衛帝が死んで、政権が雅仁親王に転げ込むという、僥倖を待つばかりです。
となれば…政界の表にいるよりも裏に回って、雅仁親王の天皇昇進を画策していたほうが、目立たなくて動きやすいと踏んだのでしょう。
自民党を飛び出して、中間勢力になって、キャスチングボードを取ろうと狙う亀井、与謝野、舛添、それに渡辺などが、その後継者でしょうかねぇ。いや、もっとぴったりの大物がいました。小沢一郎です。
信西と清盛の関係を、今回のドラマでは随分と親しい関係に描きますが、果たしてどうでしょうか。清盛の最初の妻は高階一族の娘ですから、接点はあったでしょう。このあとの保元の乱までは、同志として鳥羽院の下に集まりますが、その後は敵味方に分かれます。
どちらも経済に明るく、しかも金銭に関心が高い男ですから、長続きはしませんね。
F30、「一朝事あるときは、東国の武士をことごとく引き連れ、法皇様の御許へ駆けつけまする」頼もしい義朝の言葉に鳥羽院は、都に留まって忠勤を励むように言い渡した。
関東遊説を終えて義朝が帰国します。孤立無援の中で、曽祖父・義家の地盤、看板を頼りに駆け回ってきただけに、人間的には大きく成長しています。特に、関東の武士たちをまとめて、源氏とのパイプを強化したことは、源氏の大きな財産です。
義朝を都に留まらせ、院の勢力につけようと画策したのは、多分、信西入道でしょう。
父の為義から独立させて、院の直属の地位と知行地を与えます。為義の後継者なら検非違使、つまり警察庁ですが、軍として平氏と競争させる位置付けに置きました。平家が海軍と海兵隊ならば、義朝の源氏は陸軍・陸軍騎兵隊です。この当時、都の周辺にいる軍隊は、馬の扱いは余り得意ではありませんでした。しかし、義朝が関東で味方に引き入れた軍隊は騎馬武者が多かったのです。後に義経と共に鵯越などを敢行する源氏の精鋭たちは、このとき、義朝が手なずけてきた面々なのです。熊谷直実、畠山重忠、那須与一・・・。
余談ですが、1140年ごろは馬という戦力は戦車と同等の威力ある武器でした。歩兵の持つ武器も薙刀が中心で、槍は使われていません。ですから鎧を着ていれば、斬られて死ぬことはあまりなく、薙刀での殴り合いのような戦争でした。最も有効な武器は弓矢です。
流鏑馬(やぶさめ)のように、馬上から撃つ弓で敵をしとめます。さらに、一騎打ちがルールでした。
団体戦になるのは、後の、元寇以降です。「やぁやぁ我こそは…」の時代でしたね。