海人の夢 第13回 禁忌(タブー)への挑戦

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

吉川英治の「新平家物語」が色濃く頭に残っている文聞亭からすると、今年の大河「清盛」は、どうも??…と違和感を覚えてしまっていました。「なんか違う」という感じですね。

ところが先日、図書館で宮尾登美子の「宮尾本・平家物語」に出合いました。パラパラ通し読みしてみると、どうやら、こちらのストーリーを下敷きにした脚本ではないかと思い当たりました。それもあって、今回から宮尾本からの引用も含めます。

村上本の引用は無印のNo、NHK脚本藤本脚本からがF印、宮尾本からがM印、そして、そのうちY印のNoが登場しそうです。勿論、Y印は吉川本です。番号がややこしくなりますが、こちらの勝手な目印ですから無視してください。

ところで、今回から歴史上の事実に基づいた事件が出てきます。祇園騒乱、神輿射撃事件と世の中に変化の兆しが現れます。現代では「アラブの春」ですが、平安時代の終焉が、この事件から一気に加速していきます。事件が起きたのは1147年、清盛29歳の初夏です。当時の年齢構造から行けば清盛も既に若者を卒業して、中堅、働き盛りという歳です。若気の至りとはいえませんね。確信犯です。そう、今や人気の大阪市長、浪花の徹チャン、といった感じでした。新興勢力のエースです。

M01、清盛にはかかわりの深い祇園社の御霊会(ごりょうえ)は天皇御願の祭礼だが、その翌日も、摂関家をはじめ諸家、諸流の祈願がなされる日であった。六波羅の平家でも、清盛が一族繁栄を念じて田楽を奉納することになり、踊り手と囃し方の一団を率いて社域の中に入った。ところが、田楽団を守護していた清盛の配下たちが弓矢を背負い、武具を着けていたということから、社家の若い人が不穏当であるとそれを咎め、ちょっとした争いとなった。

祇園祭は祇園社のお祭りとして、現在も盛大に行われていますが、平安期から京の町衆にとっては、最も身近なお祭りでした。現代の祇園祭は豪華(ごうか)絢爛(けんらん)な装飾で飾りつけた山鉾巡行がメインですが、今でも神輿が練り歩くことは、あまり知られていません。

しかし、神事としては神輿がメインで、山鉾が脇役です。

宮尾登美子が「清盛にはかかわりの深い祇園」と書くのは、この祇園社の近くに祇園女御の屋敷があったからで、清盛は母の面影を慕って、何度もこの地に足を運んでいたからです。東山の山麓一帯で、平家の根拠地である六波羅は五条、祇園は四条ですから、歩いて通える隣町といった距離になります。祇園で飲んで、ふらふらと五条の家まで何度も帰ったことのある文聞亭にしてみれば、通いなれた道や景色ですが、当時の祇園も庶民の町だったようですね。清盛が放蕩と無頼を働いていたのも、この辺りだったのでしょう。

清盛が奉納しようとした田楽舞は、豊作祈願の田植え踊りです。踊り手の五月女(さおとめ)と、笛、太鼓のお囃子(はやし)を引き連れて賑やかに神域に入っていったことでしょう。庶民たちにとっても豊作は喫緊の願いですから、大勢の群集が取り巻き、大きな隊列を組んで山門をくぐっていったものと思われます。

祭りを主催する祇園社の神主、巫女たちから見たら、平家の人気が主催者の面目を傷つけるようで面白くなかったでしょうね。弓矢を背負い、武具を着けというのは、何も珍しいことではありません。祭りに喧嘩はつき物ですから、武装した警官隊が出動して警戒に当たるのは毎度のことです。ですから、警備のやり方についてイチャモンを付けたということでしょうか。

テレビでは兎丸たち盗賊仲間の喧嘩として、面白おかしく描くようですね。

F31、賀茂川の河原で強訴の大衆を阻んだのは為義、義朝たち源氏の武士だった。神聖な神輿を避けて矢を射る源氏勢だが、そこへ畏れ多くも一本の矢が神輿に突き刺さった。あたりは静まり返る。土手を見上げると馬上の清盛は弓を手にしている。それは清盛が放った矢であった。

神社の境内で騒動を起こし、流血事件を起こした責任を取れ…と、祇園神社が朝廷に訴えて出ます。が、平家びいきの鳥羽院はこれを却下します。ここから騒ぎが大きくなるのですが、この根っこには祇園社と平家の利権争いが絡んでいます。先に触れたとおり、祇園と六波羅は隣町です。祇園(四条)には門前町があり、ここで商売をする商人たちは祇園社に寺銭(てらせん)を払います。一方、六波羅界隈(五条)も平家に用心棒代を払う商人達がいます。

この二つの勢力が、六波羅の急速な発展で境界を接し、勢力争いが起きていました。

祇園は伝統的な老舗が幅を利かす町、一方の六波羅は宋との貿易で手に入れた新商品、新技術を売り物にする新興商人の町、となれば、経済戦争が起きて当然です。従来型商店街とスーパーマーケットとの争いに置き換えてみれば、判りやすいですよね。

祇園社での乱闘事件は、起こるべくして起きた事件で、そのこと自体は大した事件ではありませんが、裏に利権が絡みますから、双方一歩も引き下がりません。祇園社側は親会社の比叡山に働きかけ、僧兵を大挙入京させて抗議活動を始めます。神輿を持ち出し、抗議のデモ行進です。安保騒動が起こったようなものです。「清盛を流罪にせよ!」「平家を潰せ!」こんなシュプレヒコールを唱えながら、京の町中を、神輿を担いで練り歩きます。

警備に当たるのは警察である検非違使・源氏ですが、平家も一方の当事者として、軍隊を出動させて警戒に当たります。こうなれば衝突が起こって当然です。が、一本の矢が神輿に突き刺さります。清盛の放った矢でした。

神輿とは、天皇家の象徴、神仏の化身と信じられていましたから、これに矢が刺さると、天変地異が起きるに違いと信じられていました。デモ隊の群衆は蜘蛛の子を散らすように逃げ出します。催涙弾を打ち込まれたよりも、もっと恐怖を感じたのでしょう。比叡山の僧兵とて、日頃から天罰、祟りを売り物にしていただけに、退散せざるを得ません。

そこまで計算して矢を放ったとすれば、清盛は実に理知的です。

F32、頼長は忠盛親子の流罪を主張する。
「平氏が分際をわきまえず世に煌(きらめ)こうとして、かように世が乱れることとなった。
法皇様が今なされるべきは、これら白河院の敷かれた道を、しかと断ち切ることと存じます」
「いつまでも過ぎし栄華にすがることこそ国を乱すもと」信西が皮肉る。

神輿を矢で射るとは、天皇家をないがしろにすると同じ意味に捉えられます。反逆者の烙印を押されても仕方がありません。藤原摂関家としては、新興勢力の平家を排除する絶好のチャンスです。内大臣頼長はこのときとばかりに攻勢を仕掛けます。最近では野党が、大臣の失策、失言を捉えて問責決議を連発しますが、それと同じことです。

それに対して皮肉を浴びせかけるのが、法皇に取り入っている信西です。摂関家の長期政権こそが問題の本質だと指摘し、平家などの新興勢力に肩入れします。ここらも政治的駆け引きですね。ここで平家を救って恩を売ろうという作戦です。

結果的に、罰金刑で収まります。罰金刑といっても前科が付くことに変わりはありません。

前科者が昇進する前例はありませんから、平家の躍進、出世もこれまで……と安心して、頼長も鉾を収めます。

F33、平氏にも一門を裂く動きが始まっていた。その中で、清盛の立場は次第に危ういものになっていく。

平家の躍進、出世もこれまで…ということに、最も危機感を受けたのは、弟の家盛でした。

前科者の清盛が平家の後継者では、平家会社の発展もこれまで…と、清盛に引退を迫ります。これには母の宗子や藤原家成もからみ、伯父の家正も同意して、家庭騒動になって行きます。現代の企業でもよくある話ですが、後継者争いが起き始めると、雪だるま式に派閥が膨らみ、手がつけられなくなりますよね。しかも、こういう話は表面に出ず、ひそかに広がっていきますから、厄介です。

骨肉の争いほど醜いものはない…という教訓は、古今東西変わりはありませんが、いつの世になっても醜い争いが続きます。権力があればあるほど、財力があればあるほど、この問題は大きくなります。小は家庭の財産分与の話から、大は総理の椅子まで、例を挙げるに困ることはありません。永田町では小沢と野田が争っていますが、あれも兄弟喧嘩のようなものです。消費税、TPPなどで政策の違いを云々していますが、そんなものはタテマエで、権力が欲しいというのがホンネです。それを批判している自民党も、この間までそれをやっていましたし、今も火種がくすぶります。自民党を飛び出した平沼、与謝野、亀井、渡辺、枡添なんて連中も、みんな同じ穴の狢(むじな)でしょう。

同時配信している「篤実一路」では、片桐且元と貞隆の兄弟を描いていますが、この二人の家が明治まで生き残ったのは、財産も権力もなかったからでしょうね。