乱に咲く花 10 戦慄と陶酔

文聞亭笑一

ここのところ…非行少年の仲間内のリンチ事件が世を騒がせています。文聞亭にとっても他人事ではなく、隣町の、至近距離の事件です。孫が小学生で私が野球のコーチをしていた時代には、事件現場の近くの河川敷グランドで練習をしていました。孫が中学に入り、大田区の野球チームに入りましたが、その練習場は今回事件のあった水門の対岸になります。そんな意味では…他人事ではありません。

こんな書き出しで始めたのは…実は松陰の松下村塾にも不良少年やヤクザ、あぶれ物がたくさんいて、後に明治の元勲になり、歴史に名を残すような偉人ばかりが育ったわけではないのです。松陰は「来る者は拒まず、去る者は追いかけてでも引き留める」という教育方針でした。一期一会と言いますが、一度でも松陰の門をくぐった塾生は、何としてでも育て上げるという、熱血先生でもありました。二宮尊徳が言う

可愛くば 五つ教えて三つ褒め 二つ叱って良き人とせよ

を実践していたのです。損得抜き、まさに尊徳の世界で指導に当たっていたようですね。

松陰門下生には3人組の不良少年がいました。頭が悪い、志がない…などと言う上等なレベルの劣等生ではなく、大人を困らせて喜ぶ、周りから疎外されてこそ自己実現だ、と思うのが非行少年で、彼らは世の常識では測れない感受性と、寂しさを共有しているのだと言います(童門冬二・小説吉田松陰)

一時期の暴走族、現代のLINE仲間…彼らに共通するのは「目立ちたい」の一念でしょうか。世の中の正規の仕組みの中では目立つだけの才もなく、目立つような努力もせずに、目立つ方法は世間から嫌われる者になることでしょうね。こういう若者は洋の東西を問わず、時代を問わず存在します。これが大規模になったのが世界の嫌われ者…アルカイダであり、イスラム国と名乗る暴力団でしょう。

松陰の門下生に音三郎、溝三郎、市之進という3人組の非行少年がいました。いずれも17歳前後のハイティーンと言う世代です。彼らはいつもつるんでいます。つるんで悪戯をしますから目立ちます。

彼らの論理は単純明快です。「自分たちは不幸である」という認識に立ち、その原因を作った世間に「復讐するのだ」と攻撃を始めます。

ただ、彼らの弱みは仲間割れで、仲間の中に一人でも裏切り者が出ると組織が崩壊してしまいます。リンチ…は仲間防衛、組織防衛のために避けて通れないのでしょう。赤軍派による浅間山荘事件などもそうですが、彼らにリンチはつきものです。処刑、粛清などと言葉を操りますが、所詮は見せしめのリンチです。恐怖で組織を維持しようとします。

……こんな書き始めになったのは、今回は吉田稔麿が中心になるようだからです。松下村塾の3人の非行少年は吉田稔麿と一緒に入門してきました。稔麿がいる間は良かったのですが、稔麿が江戸に留学してからグレだしました。理解者を失った寂しさ…そんなものが疎外感→不幸・不運の想い→復讐・報復という悪魔のサイクルに乗せるのでしょうか。

日本は、この列島の地理的環境という、ただ一つの原因のために、ヨーロッパにはない、極めて特異な政治的緊張が起こる。外交問題がそのまま内政問題に変化し、それがために国内に火の出るような騒乱が起こり、政府と在野が対立する。

司馬遼は「この国のかたち」の中でも触れますが、日本の地理的環境と歴史は、密接に影響しあっているという論者です。私も…何となくそう思っています。少なくとも山賊と海賊は同じ賊でもタイプが違うと実感しています。

山賊村の故郷に帰ると…同じ文化で育った気安さに、心がノビノビと動き始めます。

また、異文化の海賊さんたちとの付き合いも気安いですねぇ。互いに文化の源が違いますから、自由に意見が言えます。「所詮は根っこが違うのだから、意見が合わなくても当たり前」のような安心感があります。

日本人にとって「海」と言うのは、外部からの夷敵の侵入を守る巨大な堀・壕の役割を果たしてきました。太平洋は当然ですが、日本海、東シナ海も「お堀」としては巨大です。シェルターとして実に安全な地理的環境に安住してきました。そして徳川期の260年間防衛努力を何もせずに鎖国ができました。こんな安上がりな防衛ができる国家は、世界中に類を見ません。敢えて言えばオーストラリアとニュージーランドでしょうか。

しかも、鎖国時代は貿易すらしませんから、自給自足です。地産池消です。

外交問題が深刻な国内問題になる…と司馬遼は言いますが、これは明治以降の話ではないでしょうか。それ以前に深刻な外交問題があったでしょうか。敢えて挙げれば卑弥呼の時代、天智天皇の時代、元寇…程度しか見当たりません。

幕末以降、外交の内政問題化は頻繁に起こります。ペリー来航、条約締結、度重なった戦争の時代、そして安保、TPPなど…これからも起きるでしょうね。「和を以て貴しとなす」国柄が、和を乱す外国の出現で揺れるのです。

この列島にある権力は、外圧と言う水平線の向こうから来る、怪物によって左右される。この国の人々の地理的特殊心理は、水平線の彼方の外国を、その実体を実体として見ることができず、真夏の入道雲のように奇怪な、いわば恐怖を通しての像か、それとも逆に…甘美な、いわば幸福と理想を造形化したような幻想としてしか映らない。
戦慄と陶酔は常に水平線の彼方にある。

司馬遼の歴史観としての核心の部分だと思って読んでいます。皆様方それぞれが、それぞれの仕事を通じで身に付けた国際感覚と言うのも、この一文と似ているのではないでしょうか。私などは、妙に納得します。

「日本らしさを…」と口にはしますが、グローバルスタンダードという一言にすべてが粉砕されてしまった経験は、なんとも無念です。ここら辺りが明治維新の光と影でしょうね。そして戦後の価値観の大転換へと続き、昨今のグローバリズムの流行でしょう。

GlobalとLocalを合成してGlocal(グローカル)などという造語を唱える人がいますが、世界標準に合わせるだけではなく、GlobalとLocalを融合してきたのが「和を以て貴し」の精神ではないかと思っています。さらに言えば難解な宗教問題も「八百万の神」と消化してしまったのが日本人の智慧だと思います。

維新の時代の日本人、全国通津浦裏で熊さん、八つあんが攘夷だ、開国だと騒いでいたと思います。戦慄と陶酔…どちらを取るかの差ですね。現代も大して変りはありません。西洋に陶酔し東洋に戦慄している与党、西洋に戦慄し東洋に幻想を抱く民主党…、いや、この対比は政権を取った時の民主党の小鳩菅時代の話です(笑)

この藩の行財政改革には、二つの推進派があって、いつも厳しい政争を繰り返していた。
争ったのは、後に高杉晋作たちが「正義派」と名付けた村田清風・周布政之助のグループと、「俗論党」と名付けた坪井九右衛門・椋梨藤太のグループである。
村田派は…生産者と結んで財政改革を行おうとした
坪井派は…豪商、豪農と結んで財政を好転させようとした

藩主導で流通改革を計ろうとするのが正義派、金融資本による景気回復策を打とうとするのが俗論党……という対立軸でしょうか。この当時の産物の多くは農産品、手工業製品ですから、インタネット直販と農協みたいな話でもあります。松陰は藩による直営流通で財政再建を図る主張をしていますから村田派、周布政之助の系統に属します。従って椋梨藤太からは睨まれます。

どちらの派の意見にも「そうせい」と言っていた「そうせい公」毛利敬親という経営者は、考えようによれば名経営者ですねぇ。対立する両派に交代で政権を担当させますから、バランスの良い経済運営になっていたような気もします。

この当時の全国諸藩は、多かれ少なかれ…似たような藩内対立を抱えていました。

二大政党による政権交代が、「藩」と言う単位では実現していたのです。この当時の先鋭的攘夷藩である水戸藩も改革攘夷派の天狗党と俗論党が対立していましたね。薩摩藩も開明派の島津斉彬と、弟の久光では同様な経済政策での対立がありました。1万石、2万石と「村」程度の藩でも似たような政争を繰り返していました。ともかく、幕末と言う時代は不景気という表現を越えて「恐慌」に近い経済状態でした。

戊辰戦争の時には各藩とも例外なく、尊攘派と佐幕派に割れて藩内抗争をやっています。

何れも根っこにあったのは経済政策についての意見の相違ですね。

余談になりますが、吉田稔麿は後に被差別部落出身者を組織して、高杉晋作が創設した奇兵隊に加わります。松陰が始めた松下村塾の基本方針である「平等」を、徹底的に追求した一人でした。この吉田稔麿、久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一の四人を松下村塾四天王などとも呼びます。