次郎坊伝 06 試練の年1555

文聞亭笑一

亀の丞が帰参し、次郎法師となっていたおとわの心が乱れます。おとわだけでなく、井伊谷の皆の思惑が乱れます。さらに、嫌われ者の小野和泉が死んで、今川家の監視の目が鈍ります。

「亀の丞をおとわの婿に迎え、井伊家を継がせる」

これが、井伊家の人々が思い描いてきた理想形でした。その・・・実現性が見えてきたのです。期待と願望が高まります。何とか実現したい…。この思いは井伊谷の人々すべての願いだったでしょう。ところが…そうはいかないのが現実の政治情勢でした。子会社の役員人事は、親会社の手に握られています。

子会社、孫会社、つまりホールディングス・カンパニーに資本を握られた会社を経営したり、運営したりした方はご理解いただきやすいと思いますが、社長や経営陣の立場でも独自の意志決定はできません。一旦は親会社(株主)にお伺いを立てて、交渉して、了解を頂いて・・・、それからでないと動けません。仮に・・・「エーイ面倒だ!」と独断専行した場合、結果の良し悪しにかかわらずお咎めを受けますねぇ。

信賞必罰

遠州の井伊、今川の子会社です。戦国時代には「石高」という企業規模の概念はありませんでしたが、井伊家の石高(経済規模)は1万石から1,2万石程度だったと思われます。江戸期の格付けから言えば大名ですね。徳川幕府は「1万石以上を大名と呼ぶ」と定義しています。これを現代でいうと、経産省は資本金10億円以上を「大会社」に分類しています。井伊は、ただの地方豪族ではなく、大名格の存在であるということです。そういう子会社の人事権を、今川ホールディングスが見逃すはずがありません。

リーダーシップの基本に「信賞必罰を適正に行うこと」があります。リーダーシップと横文字を使いましたが、「君子は」と東洋表現に替えても、「信賞必罰」は君子の重要な判断事項です。

さて、今川家の立場で「(株)井伊」を見てみましょう。

外様です。元からの今川の配下ではありません。今川の分社でもありません。強制的に買収した会社です。現在の経済社会では「株の敵対的買い付け」という手法がありますが、それでしょうね。戦争という手段に依って、井伊を買収し、子会社化したのです。従って、新野という監査役を送り込み、小野和泉という本社べったりの人間を重用し、専務取締役として内部から、創業社長の一族を監視しているのです。

ドラマの画面では、井伊家の会議の場面が映されます。あれは井伊(株)の取締役会です。

◎代表取締役社長は井伊直盛・・・おとわ、次郎坊の父です。

●井伊直平という直盛の祖父が上席に座ります・・・相談役ですかねぇ。創業者・・・と言った感じ。

〇専務取締役が小野政直でしたが、死にました。小野政次(鶴丸)が世襲しています

●奥山朝利が常務取締役。井伊家の一族ですが、社長からすれば遠縁の親戚です。

●中野直由は取締役、これまた井伊一族の遠縁です。

◎新野左馬之助・・・本社から送り込まれた常勤監査役ですが、どちらかと言えば社長派です。

既にお気づきかと思いますが、井伊家、井伊(株)は、独立派と本社恭順派に分かれ、ギクシャクとしています。買収された企業によくある話で、ちっとも不思議ではありません。至極当たり前の話で、戦国期の地方豪族は、多かれ少なかれこういう経営形態であったと考えるべきでしょう。戦国物語は大会社の話ばかりですが、子会社、孫会社、下請け企業にスポットを当てた今年の大河は、庶民的戦国物語と言えるかもしれません。庶民派・・・は言いすぎですね。中小企業的・・・に訂正しておきましょう。

取締役会の6人を並べて見ましたが◎が社長派・中間派です。●は独立派、○が親会社派です。

そうそう……信賞必罰の話でした。

物語の主人公・次郎坊は今川義元の「小野直次と結婚せよ」という命令に違反した罪人です。義元の下した判決は「生涯を僧侶として過ごすこと」というもので、いわば終身刑のようなものです。

また、亀の丞・直親は死刑囚が逃亡したようなもので、指名手配中の凶悪犯人という位置づけです。

二人とも、懲戒免職の処分を受けた元社員で、今川グループへの再入社などは考えられません。

この二人が恋仲で、結婚して、子会社の経営権取得を認めさせようという話ですから、今川ホールディングスからすると、とんでもない話になります。

しかし、それを…敢えて実現しようというのが、今回のストーリですね。

時効・・・という概念は古代からありました。時が水に流す…という考え方ですが、罪の重さに依って、時効の期間は変わります。飲み屋のツケの踏み倒し・・・のようなものから、殺人罪の15年まで、刑法の規定ができたのは近代になってからですが、戦国期でも持効という考え方は常識でした。敵対して、味方の兵を多数殺害した戦犯でも、次の戦で手柄を立てれば大名にする・・・というような、控訴審判決はザラでしたね。

瀬奈と竹千代

前々回あたりから松平竹千代(後の家康)や瀬奈姫(後の築山御前)が登場します。次郎坊にとっては生涯にわたり関係の深い人物ですから、幼少時からの付き合い、因縁を知っておく必要から物語に登場させていますね。ほぼ同世代の年齢です。

瀬奈姫は鶴姫の愛称でも呼ばれていました。今川義元の母・寿桂尼が幼少の頃から礼儀作法を仕込み、学問も受けさせて、後継者・氏真の妻妾候補に選んだほどの才媛です。寿桂尼は鶴姫だけでなく、亀姫と呼ばれたライバルも育てています。鶴と亀の名前の由縁は、瀬奈の方がほっそりとした長身であるのに対し、亀姫がぽっちゃり型だったからだと言われますが、本当のところは分かりません。性格も体つきの通りだったようで、理性的で利発さが面に出る鶴姫に対し、亀姫はおっとり型で万事控えめであったと言われますが…この辺りは物語作者、小説家の創作のようにも思えます(笑)

今川家のうちうちの宴席や能狂言の会などでは、鶴姫、亀姫共に呼ばれ、義元に酌をするのは決まってこの二人が担当したと云いますから、大のお気に入りだったのでしょう。瀬奈姫は後に家康と結婚して「駿河御前」「築山御前」などと呼ばれます。駿河・・・の方は「駿河から来たから」と、すぐに理解できますが、築山御前というのは松平家(後の徳川家)の家臣たちが、今川流儀を振り回す瀬奈を嫌い、当てつけて作った仇名です。

瀬奈は岡崎城に入ってから、その城の質素さを嫌い、今川時代の豪華な奥御殿を作らせます。その御殿に、築山のある大規模な日本庭園を作らせました。貧乏会社の松平家としては、とんでもない贅沢です。しかも、その庭園に家臣の屋敷や、寺などにあった名木、名石を強制的に移設、移植させました。これが怨嗟を含めて、評判を落とした理由です。松平の家臣たちは家康が人質になっていた12年間を、爪に火を点す思いで倹約を重ねてきましたからねぇ。鶴の一声・・・で、大切にしてきた物を取り上げられるのですから人気は出ません。嫌われます。

しかし、これは瀬奈が命じたものではありません。駿河からついてきたゴマすりの家臣が、瀬奈の知らないところで城主夫人の権威をひけらかせて強制徴用をやってしまっていたわけで、冤罪と言えば冤罪です。瀬奈はそれほど我侭な女ではありません。

一方の家康、1542年の生まれです。この年は武田信玄が信濃侵攻を本格化させた年で、諏訪家を亡ぼした年に当たります。昨年のドラマの真田家なども、幸村の祖父に当たる幸隆が武田陣営に加わったころですね。

1549年に、家康(竹千代)は今川家に人質に出されます。ところが、三河の地侍の裏切りにあって織田家に奪われ、更に、人質交換の形で今川家に戻されるというドラマチックな展開になりました。ですから、7歳で駿府に連れて来られて、1560年に独立するまでの、約12年間を駿府で過ごします。小学校に入る頃から、高校を卒業するまで…、相当な長さです。歳をとってからの10年はあっという間ですが、子供の頃の1年は長いですよねぇ。相当鬱屈したものが溜まったと思います。

この家康に付いていったのが石川数正、鳥居元忠、平岩信吉…などの面々で、家康独立後の徳川家創業時の中核となります。最年長が石川数正、次いで鳥居元忠、平岩は家康と同じ年でした。一種の人質団というか、疎開団ですね。家康や平岩は子供ですから、今川家からの要求を受け、子供たちをまとめていたのは石川数正です。のちに家康を裏切り、秀吉について、徳川家臣団からは卑怯者の汚名を一身に担いますが、人質時代の家康が無事で過ごせたのも、独立後に氏真から瀬奈と竹千代(信康)を取り返したのも、石川数正の活躍でした。

余談になりますが、この石川数正が精魂込めて建てたのが、国宝になっている松本城です。この城を朝な夕なに眺めて育った文聞亭にとっては、特別の思い入れがありますから、自作の小説の最初に取り上げたのがこの石川数正でした。当初は「煩悩の城」という名で書き上げましたが、現在は「深志城挽歌」と題名を改めて、手を入れ直しております。

今回のストーリ―の中で、雀を仕込んでいる家康を見て瀬奈が「雀を仕込んでも、鷹にはなりませぬ」と嗤(わら)う場面があるかと思いますが、瀬奈の言うことは正しい。正しいのですが、家康の仕込んだ雀は獲物を捕らえます。鳶(とび)が鷹の子を産むことはありませんが、仕込めば鼠(ねずみ)、ウサギくらいは捕まえてきます。家康の粘り強さ、地道さと、瀬奈の頭の良さ、理に走る性格を示しておきたい作者の狙いでしょう。

主役たちの結婚

今回の舞台設定は1555年です。今川館では世子・氏真と北条氏康の姫の結婚式が行われました。

今川、北条、武田の三国同盟が成立し、この地域での相互不可侵条約、安全保障条約が成立しました。

今川は後顧の憂いなく西へ、三河の平定から織田領への進撃に専念します。

北条も同じく、武蔵から上野、下野に向けて版図の拡大に邁進します。

武田は諏訪から南へ、そして北へと信濃全域の支配に乗りだします。そして、上野、越後も視野に入ります。信玄は南の海を諦めて、北の海の交通網を獲ろうと動き始めていました。それが、度重なる川中島合戦です。

そんな最中に、今川家の大軍師、雪斎禅師が亡くなります。三国同盟を締結させたのも、今川帝国の経済力を格段に飛躍させたのも、雪斎の功績でした。その柱石が亡くなったのは今川に取って震度7クラスの大地震でしたが、そのことに気づいていませんでしたね。これが、今川義元の大失策でした。

大企業病というのがあります。昨今の東芝事件もその一つですが、順風満帆の時代が続くと、上は社長から、下は平社員、協力会社まで皆、偉くなったような気分になります。自分たちは特別な者、天から権力を与えられた選民のような気分になります。これが、王国崩壊の引き金ですが・・・気づきません。

ともかく、用済みになった瀬奈は家康に下げ渡され、結婚することになります。

井伊谷でも、元服した直親は、重臣の奥山朝利の娘・しのとの結婚が決まります。次郎坊にとっては辛い決断ですが、家を守り、今川に睨まれないためにはそれしかない選択肢でした。