13 山科言継(2020年4月08日)

文聞亭笑一

しまった、今日は水曜日だ!・・・と気が付いて「泥縄」を始めます。県知事からの自粛要請に始まり、緊急事態宣言が出そうだというのでスケジュール変更をし、そして昨日の『宣言』で殆どの会合、行事を中止にしました。

その連絡やら調整やら…結構大変です。連絡漏れがあったりして叱られたり、へそを曲げられたりと、・・・コロナのせいで迷惑です(笑)

そんな事情があったので橘の記の在庫切れに気づかず、今週はお休みです。

光秀の婚礼

今週はこの出来事から入るようですが、結婚に至るプロセスがあっさりし過ぎですね。

主役の結婚にしては・・・あっさりし過ぎの感があります。

元々、史実が無いことではありますが、今までの通説(小説やドラマ)では「煕子が疱瘡にかかり、顔にあばたが残った。煕子はそれを気に病んで求婚を断る。

しかし光秀は『容姿ではない。心を娶るのだ』と強く求婚し、二人は固い絆で結ばれた」・・・ということになっていますが、江戸時代の作り話でしょうかねぇ。

今回の原作者は恋愛物語が苦手なのかもしれませんね。しかし、そこのところをしっかりと描かないと女性視聴者の人気は取れませんねぇ。

望月東庵のモデル

京の医師・望月東庵なる得体の知れぬ人物(配役;堺正章)が登場し、京や東海地方をめぐります。織田信秀と双六をして遊ぶという間柄ですし、京でも松永弾正などと交流します。

一見、ありえない・・・舞台回しの都合上の架空の人物と思って観ていましたが、いましたねぇ。東庵のような人物が実在していました。「山科卿日記」の作者、公家の山科言継がモデルでした。

戦国物の資料と言えば、信長の家臣だった太田牛一の書いた「信長公記」が有名ですし、秀吉がお抱え作家・大村幽古に書かせた「太閤記」があります。このどちらかをベースにして、江戸時代にそれぞれの大名家が家譜や伝記を書いています。

信長公記にしても太閤記にしても・・・最終的に校正、発行検閲をしたのは秀吉です。秀吉にとって都合の悪い所を消させるのは勿論のこと、秀吉がでっち上げた物語を挿入させたりすることも多く、太閤記の作者・大村幽古は執筆の途中で「これ以上嘘を重ねることはできぬ」と逃げだしてしまいました。困った秀吉は、太田牛一を呼びだして続きを書かせています。

信長公記、太閤記よりも信頼できる資料・・・と云われているのが「山科卿日記」です。この日記は1527年から1576年までの50年間の出来事を綴っていて、この期間は信長が生きていた期間にほぼ一致します。

作者・山科言継は公卿・藤原家の本家筋の公家です。自分の領地・荘園が京の近郊、山科にあったので山科の名で呼ばれていました。この人は母の出自が低く(町娘)少年時代は街中で育った時期もあったようで、下世話の事情にも通じます。たまたま、兄弟が女ばかりで、唯一の男子だったので山科家を継ぐことになりました。公家としては変わり者ですね。

公家の商売…と言うか収入源は、古典伝授や詩歌管弦、蹴鞠などがありますが、この山科さんは多芸多才だったようで、この他に製薬に通じ、内職として医者の真似ごともしていたようです。

ただ、山科卿の医師としての腕はどうやら「藪」だったようで、自分の息子が病気になったときは、名医と呼ばれる医師を呼び寄せたと、正直に日記に書いてあります。

1533年(信長の生まれる前年)には尾張の織田信秀を訪ね、天皇家に献金するよう説得していますね。この時、信秀に双六を教え、家老の平手政秀に蹴鞠を教えたと日記に書いてあります。平手政秀とは特に気が合ったようで、田舎にしては稀な教養人と持ちあげています。それもあってか、平手政秀は織田家の外交官的な役割を務めました。

今回、東庵先生とお駒ちゃんは駿河に向かいますが、駿河の太守・今川義元の母・桂春尼は、東庵のモデル山科言継の叔母に当たります。山科が駿河を訪ねているのも事実ですし、駿河では双六よりも蹴鞠の方が人気だったようですね。今川義元も蹴鞠が得意だったようです。後のことですが、蹴鞠に熱中するあまり家を潰してしまった今川氏真も、山科卿から直接、蹴鞠の手ほどきを受けたかもしれません。

東庵先生が山科卿だとすれば、この後も折に触れて物語に絡んできそうですね。13代将軍・義輝が暗殺された後の、後継者争いには朝廷の代表として山科卿が登場します。

平手政秀切腹(諌死)

文聞亭は信長、秀吉、家康と言った主役には食傷気味で、脇役に興味が向きます。

平手政秀、織田信秀の二番家老で外交官、そして嫡子信長の守役・・・と、ここまではどの物語でも共通して紹介し、父の死後のヤンチャばかりして殿様らしくしない信長に反省を求めて切腹した。いわゆる諌死、「死んで御諫め申しあげる」という忠臣の鏡として江戸期にもてはやされました。

・・・がこの話、どうやら江戸期の儒教家が作った小説のようです。

信秀の死後、織田家の内部では「新しい物好きの信長」を支える派と、「伝統的殿様像」に近い弟・信行(信勝)派に分かれて、水面下の争いが始まりました。

信長を支える派の代表が、2番家老の平手政秀

信行(信勝)を担ごうとするのが、1番家老の林秀貞と、3番家老の柴田勝家

二人から信長の無作法、奇抜さ、独善的経営手法などを指摘され、その責任を追及されて平手は精神的に参っていましたね。信長は注意したらいうことを聞くタイプではありません。反発して、行動をますますエスカレートさせるタイプです。批判を抱え込んでしまいました。

さらに、息子の五郎左衛門と信長の間が気まずくなります。平手五郎の持ち馬は「駿馬」と評判の名馬でした。これを、信長が「俺にくれぃ」と所望したのですが、五郎左衛門は「馬は武士の道具、譲れぬ」と突っぱねました。このことで息子と信長の間がぎくしゃくし、政秀にストレスが溜まります。どちらも信長の我侭が原因なのですが、そういう風に育ててしまったのは、幼いころから守役・教育係を担当した自分の責任だと、矛先が自分に向かいます。

信長と信行派の林、柴田との板挟み、信長と息子・五郎左衛門の板挟み、上下左右から挟まれて神経をやられての自殺でしょうね。信長にとって平手の切腹はそれほど大きな反省材料にはなりませんが、政秀の名をそのまま採った「政秀寺」を建立し、菩提を弔ったということは、政秀への感謝の念が強かったといえるでしょうね。

今週は「聖徳寺の会見」の場面をどう描くか、テレビを視てからの楽しみにします。