どうなる家康 第3回 厭離穢土

作 文聞亭笑一

「今回からは・・・少し真面目になるのではなかろうか?!」と期待してテレビ桟敷に向かいましたが、やっぱり初回の延長線上でしたね。

マンガチックでした。

「NHK大河ドラマは歴史物語である」という私の思い込みが間違っているのでしょうか? 

およそ歴史とはかけ離れたストーリー展開で、調べたり、解説したりする気も起きません。

文学、小説、物語の世界では歴史物を扱うのに4つのジャンルがあります。

歴史小説・・・実在の事件、事実を重視して、資料のない部分を想像で補う。

   山岡荘八、司馬遼太郎をはじめ、多くの小説家が戦国を描きます。

時代小説・・・時代背景を借りて、そこに現代の社会課題を織り込んだ架空の物語を展開する。

   江戸の捕物帖など、多くのシリーズ物・人気小説があります。

架空戦記・・・歴史に「if」は無いのですが、「もしも・・・」を前提とした物語を描く。

   井出孫六の書いた「戦国自衛隊」などがその典型ですね。

関ヶ原の合戦にジープと自動小銃を持った自衛隊が乱入します。

伝奇物語・・・歴史に時代背景だけ借りて、奇想天外・大胆な発想で怪奇な物語を作ります。

  「鬼滅の刃」などがその代表作でしょうか。歴史とは離れた想像の世界です。

今回の物語は・・・この四つのジャンルをゴチャ混ぜにして、しかも、ゲーム世代の伝奇物語の感覚を多分に盛り込んでいますね。

若者向けかもしれませんが・・・ナンジャコリャです。時代考証をしている小和田さんは何をしているのか・・・と「時代考証とは何か?」を調べてみました。

時代考証・・・映画、テレビや演劇などで、用いられている衣装や道具や装置、風俗や作法などが題材となった時代のものとして適当なものか否か、考証すること・・・となっています。

この範囲では小和田さんを批判できませんね。

しかし、桶狭間の段階で信長がマントをまとっている・・・ありえへ~ん! 

信長が西洋文化に触れたのは、上洛後に堺と交渉が始まってからです。

十年早い。

桶狭間の戦いに鉄砲が使われている!? 

しかも、三河の田舎侍である大草松平が鉄砲を使っている・・・ありえへ~ん。

桶狭間の戦いに鉄炮が使われた記録はありません。

この時代の鉄炮は伝来地の種子島と、薩摩など九州の一部でしか使われていません。

これを見逃したのは時代考証の小和田さんのミスでしょうね。

万一、商業都市・尾張に鉄砲が伝来していても、それは貴重品です。

織田家に数丁あれば凄いことで、弾丸、弾薬を含めたら一丁が億円の単位です。

まぁ、多少の救いは番組の最後の方で家康が自立したらしい展開でしょうか。

主役がオロオロしている物語では落ち着きませんからね。

もう少し我慢してみますが・・・

このままの展開では・・・筆を折ることになりそうです。

厭離穢土 欣求浄土

今回の大河では大物俳優? 高ギャラ俳優を気楽に使い捨てますね。

第1回目は野村萬斎、そして2回目は里見浩太朗でした。

松平家の菩提寺・大樹寺の住職で、岡崎に戻った家康にとっては駿河の雪斎に代わる勉学の師です。

3回目以降で重要な役割を担うのかどうか? 

前回の放送ではチョイ役でした。

厭離穢土、欣求浄土を修行中の榊原康政に語らせる・・・このあたりも「ありえない」仮説です。

配役、俳優との関係でしょうか、実年齢と違いすぎるのにも違和感を覚えます。

登場人物   生まれ年   桶狭間の戦い  配役   年齢

徳川家康   1543   17才     松本潤  39才

石川数正   1534   26才     松重豊  59才

酒井忠次   1527   33才     大森南朋 50才

大久保忠世  1532   28才     小手伸也 49才

本多平八郎  1548   12才

榊原康政   1548   12才

みんな若い、幼いのです。

石川教正役の松重は歳をとりすぎの配役ですよね。

そういう点でも無理があるのが今回の布陣ではあります。

中1の本多や榊原が高校生の家康に説教している・・・

いくら時代が違っても「ありえへ~~ん」物語ではないでしょうか。

戦国時代とは、暴走族のチンピラ達の勢力争いではありません。

百姓、町人、庶民の生活がかかっています。

勿論、本多平八郎は桶狭間が初陣ですから戦場に赴いています。

元服年齢ではないのに無理矢理元服して戦について行ったと云われていますが、戦場での役割は「偵察」でした。

戦闘員ではありません。

切腹しようとする家康の介錯など・・・きる腕ではなかったと思いますよ。

「厭離穢土 欣求浄土」は浄土宗の仏教用語です。

厭離を「おんり」と読むか「えんり」と読むかは2説ありますが、いずれにしても穢土(汚れたこの世)を抜け出して極楽浄土に行きたいと言う信者の願いを表します。

そのためには念仏を・・・となりますね。

家康は生涯を「厭離穢土 欣求浄土」の旗印を掲げ戦います。

家康の馬印とも言われますが、武田信玄の「風林火山」の旗印に匹敵しますね。

次回、第3回は登誉上人から説教され、この旗印を授けられる場面でしょうか。

それにしては・・・・・・前回の最後の方で、家康は大樹寺から出て行ってしまいました。

十四松平

大樹寺に、家康の首を取りに押しかけたのは親戚筋の大草松平でした。

松平一門も幾つかに枝分かれしていますが、三河出身の松平家は十四家あります。

三代目の別れで①竹谷、②形原、③大草、④五井、⑤深溝、⑥能見、⑦長沢

四代目の別れで⑧大給、⑨滝脇

五代目の別れで⑩福釜、⑪桜井、⑫東条、⑬藤井

六代目の別れで⑭三木

親戚とて、代が代われば全く当てにできません。

むしろ、本家争い、主導権争いで敵に回ることの方が多いですね。

これら十四家がまともに家康に従うのは江戸幕府ができて以降です。

これら親戚筋で有名人が出るのは⑦の長沢松平から「知恵伊豆」と言われた川越藩主の松平伊豆守がでます。

三代家光、四代家綱に仕え、キリシタン騒動の島原の乱を鎮圧します。

川越松平の墓所は新座市の平林寺(へいりんじ)です。

幕末には⑧の大給松平が函館と佐久に五稜郭を作ります。

文聞亭は、一昨年は佐久の五稜郭を見てきました。昨年は平林寺に紅葉狩りに行きました。

十八松平

ついでなので徳川家の親戚を紹介しておきます。

家康の代・・・以前からの親戚が十四松平です。

そして、家康以後の分家や、褒美として与えた松平姓などが「十八松平」ですが十八には収まりません。

そもそも「十八」という数字が松平という文字からコジツケされています。

「松」という字を分解すると「木」と「公」に分かれます。

更に「木」を分解すると「十」と「八」になります。

松平十八公・・・言葉遊びの産物ですね。

古典落語の世界でも漢字の分解が題材になっています。

松平伊豆守の菩提寺・平林寺に関して

「たいらばやし」か「ひらりんか」「一八十の木木」と「平林」を分解して遊んでいます。

ちなみに私などもこのアイディアをパクって、本名の「勝」を分解した「券月」を短歌などの雅号に使います。

券月・・・英訳するとTicket for Moon   あはは、格好付けすぎです。

十八松平の中心は家康の子どもたちやその末代に繋がる分家8家と、後に褒美代わりに与えられた外様大名10家です。

外様組10家・・・仙台伊達、加賀前田、因幡池田、備前池田、安芸浅野、長門毛利、筑前黒田、肥前鍋島、土佐山内、薩摩島津・・・江戸時代中期以降は、みんな松平です。

家康の血筋では長女の嫁いだ奥平松平、次男・秀康の系統の越前松平、出雲松平、高松松平、その他数多・・・。家康の異父弟の久松松平(松山)とその分家、秀忠の弟・会津松平

更に御三家・尾張松平の分家で桑名松平、紀州の分家の松平、水戸の分家の松平・・・数えきれません。幕末のお江戸の地図は松平だらけです。

自立への模索

家康としては、今川の枷から離れて独立したいのですが、それだけの力はありません。

まずは今川の傘下での自立を目指します。

岡崎をまとめて、今川西部戦線・軍団長の地位を獲得しようと動きます。

そのためには三河を固めなくてはなりませんが、抵抗勢力の1番手があちこちの松平だったのが皮肉です。

親戚筋というのは、つきあいを間違えると厄介な存在になります。

「遠くの親戚より、近くの他人」という成語がありますが、この時の家康にとっては石川、酒井、鳥居、大久保と云った祖父清康以来の家臣が頼りでしたね。

彼らの担ぐ神輿の上で、彼らの望む方向に流されていくしかなかったと思います。

そして、この時期に最も活躍したのは大久保忠世を筆頭とした大久保党でしたね。

酒井でも石川でもありません。

ましてや本多や榊原のようなガキではありません。

徳川家の自立は大久保一党の活躍によって成し遂げられた・・・とも言えます。

それにも関わらず・・・幕府設立後の褒美が少ない・・・と、三河時代の家康と大久保一族の活躍を描き、幕府に抗議したのが天下のご意見番・大久保彦左衛門の書いた「三河物語」です。

それをベースに書かれた宮城谷昌光の「新三河物語」も、なかなかに面白いですよ。

時代考証の小和田さんのブレーキ機能に期待します。

「鬼滅の家康」は見たくありません。