海人の夢 第15回 政争・政局

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

専制君主が現れ、武力で言論を封印しない限り、いつの世でも政権は安定しません。

が、安定しないでこそ、自由があり、挑戦があり、進歩があります。

現代の日本において今、起こっていることは、歴史を繰り返しているだけのことです。

これは日本に限ったことではありません。世界中のどこの国でも日常的に起きていることで、安定している国家というのは北朝鮮くらいしかないのではないかと思われます。

あそこは、…軍部独裁で、将軍様に逆らったら死刑になる国ですからねぇ。(笑)

それに順ずるのが中国、ロシアなどですが、ロシアも揺らぎが始まっているようですし、カダフィーのリビアは倒れ、シリアも揺らいできています。

日本の現在の政局について語ることは、このシリーズの本意ではありませんが、与党民主党は野田総理と小沢一派で真っ二つに割れ、連立与党の国民新党も、たった5人の集団ですら割れています。自民党も一枚岩ではありませんし、その他の野党も思惑が乱れます。

同じことが起こっていたのが平安末期のこの時代で、平家が清盛と家盛で割れ、源氏は親子の間がギクシャクしだしています。更に、藤原家でも関白忠通と内大臣頼長の兄弟の間が険悪になってきています。天皇家とて例外ではなく、鳥羽院と崇徳院の間は怨念が渦巻く状態になってきていました。

こういうときに活躍するのがロビースト、策略家です。藤原信西が活躍する機会が高まりつつあります。ロビーストとは日本語で「廊下鳶(とんび)」ですかねぇ。

F35、鳥羽院は雷で炎上した高野山の大塔と金堂の再建を忠盛に命じた。得子は近衛帝の健勝を祈願する塔も忠盛に建てさせたいと進言する。忠盛は引き受ける代わりに希望を申し述べた。
「畏(おそ)れながら、…高野山の宝塔建設は、この清盛を私の名代としてはいただけませぬか」

忠盛、清盛の平氏も、家盛の死でふさぎこんでばかりではおれません。色々な勢力がしのぎを削っている政治情勢の中で、空白の時間を作ることは勢力の衰退に繋がります。特に、藤原摂関家は武士の台頭が面白くないと思っていますから、平氏の不幸に付け込んで何を仕掛けてくるかわかりません。他人の不幸は蜜の味などとも言うとおり、口先では同情した振りをしますが、腹の底ではチャンスだと、ほくそ笑んでいるのです。

東日本大震災、タイの大洪水と、日本の輸出企業にとっては未曾有の天災に見舞われて、昨年一年間は大変不幸な年でしたが、諸外国の企業にとっては、日本企業のマーケットを奪う絶好の機会でした。事実、自動車、電機の分野では多くの日本企業が苦戦しています。

にもかかわらず、しかも借金大国だというのに、円高で追い討ちをかけます。

まぁ………世の中はそんなものなのです。

鳥羽院、得子はそれぞれに思惑は違いますが、平家を試してきます。高野山の建設工事は莫大な資金を要します。この工事を請け負うということは、自らの財力を弱めることで、家盛を失った痛手に、更に塩をもみこむようなものです。

その犠牲を払う代償として、忠盛は清盛への後継者指名を院に認めさせます。藤原頼長が反対する人事を、院との直接交渉で通してしまいます。こういうところは、………忠盛はしたたかな政治家でしたね。

F36、僧は西行…………かつての佐藤義清だった。西行の草庵に赴(おもむ)いた清盛と盛国は、近況を尋ねた。西行は長い旅から帰ってきたばかりだという。
とりわきて 心も凍(し)みて冴えぞわたる 衣川(ころもかわ)見に来たる今日しも
西行は平泉で詠んだ歌を二人に披露した。

高野山の建設現場で、清盛は佐藤義清に再会します。出家して西行と名乗っていますが、清盛にとっては懐かしい同僚に代わりありません。

西行は1944年に出家してから48年間を修行、遊業に過ごします。最初に衣川を訪ねたのは出家したその年の秋ですが、その後も2度、あわせて3度も奥州に足を運んでいますね。政争に明け暮れ、庶民生活が荒んだ都に比べて、藤原三代による安定した政権が続いていた奥州平泉は、西行にとって理想郷だったのかもしれません。昨年、中尊寺金色堂、毛越寺など、平泉の遺跡は世界遺産になりましたが、「天国に通じる風景」がそこにはあったのでしょう。

この歌の意味は良くわかりませんが、長尾宇迦の「西行法師北行抄」では以下の通りです。

「おお、やっと会えた。これぞ世の歌枕に伝えられたる衣川か」

川岸に走り下ると横殴りの吹雪は笠をさらおうとし、黒衣の裾を容赦なく巻き上げる。

吾はこれを仏の丁重なおもてなし、南無大慈大悲と受けとった

と記述されています。京から平泉までの長い道のりを経てたどり着いた理想郷、その感動を詠んだ歌なのでしょう。

余談になりますが、佐藤義清の姓である「佐藤」は「左衛門尉(さえもんのじょう)の藤原」から来ています。

つまり、「左」「藤」です。下野守、藤原(俵)藤太の末裔だといわれています。

このほか「佐(すけ)(次官)」の「藤」原からきている家も多いようで、藤原家と何がしかの関係を結んだ家のようです。全国で10指にはいるほど多い苗字ですから、平安期の藤原家の勢力の大きさがうかがい知れるともいえます。そのほか、加藤、遠藤、近藤、後藤なども藤原系の苗字ですね。

F37、忠通の言葉に、忠実はわなわなと震えた。
藤原摂関家の争いは激しさを増していた。

藤原摂関家は父の忠実が白河法皇と対立して引退した後、長男の忠通が関白を引き継いでいます。忠通は温厚な性質で、法皇と対立しません。平家を筆頭とする武士の台頭にも、それほど神経を尖らせていません。一方、次男の頼長は藤原全盛期への回帰を目論見ます。

引退して宇治の平等院に籠っていた忠実が、期待していたのは頼長です。

この二人が、近衛帝の中宮に誰を入れるかで争うのですが、忠通は鳥羽法皇と得子の養女になっていた娘を自分の養女にもらいうけて中宮に推挙します。まぁ、一種のゴマスリですね。

一方の頼長は、自分の娘を推挙します。娘が皇子を生み、その祖父として権力を握ろうという、藤原家の過去の栄華の姿を踏襲しようという目論見です。

忠実は、自分が勤めていた藤原家の氏の長者の地位を頼長に譲ります。これは藤原党の党首の座ですから、本来であれば忠通に譲るべきものです。これには藤原氏の所有する荘園の財産権が絡みますから事は重大です。忠通は関白(首相)ではあっても財産権がなくなってしまいました。

現代でも総理総裁分離論などといって、党首と総理を分離して別人が担当するというケースがありますが、それって異常事態ですよね。そこまで行かなくとも総理、党首の言うことを聞かず、迷走している与党がありますが、藤原家の末期にそっくりですねぇ。

こういう政権では何も決まりません。したがって何もやりません。無為無策のままに…、いたずらに時が流れゆきます。

F38、夜が明けた。その場に倒れ付している清盛の横で曼荼羅(まんだら)が朝日を受けて輝いている。
その曼荼羅に宗子が見入っていた。
「家盛!……家盛が……兄上によろしゅうといっておる」
曼荼羅に微笑みかけながら宗子は清盛に言った。

平氏の家庭内の騒動は家盛の死と、宗子の諦めで片がつきましたが、まだまだ火種は残っています。忠盛の弟、忠正は清盛とどうしても折り合いがつきません。性格の不一致というのか、趣味が異なるというのか、それとも過去のしがらみか、事毎に対立してしまいます。忠盛が健在であれば表面化しませんが、忠盛亡き後の火種です。

一方の源氏、藤原家一辺倒の父の為義と、武士の世を目指す義朝の意見が合いません。

義朝は鳥羽院に認められ、評価されたことから、徐々に藤原離れをしていきます。

こうなれば、色々な立場の者が、それぞれの思惑を胸に合従連衡の工作にかかります。

特に、そのような政治を得意としてきた公卿衆の動きが活発になります。彼らは主流派についていない限り、職を失うのですから必死です。現在の主流派鳥羽院に付くもの、そして政権交代を狙って非主流の崇徳院に付く者、互いに誹謗中傷を含めた泥仕合になっていきます。世は、保元の乱に向かって、まっしぐらに進んで行きます。何かのきっかけがあれば火が点きます。一触即発ですね。

民主党の内紛も、まさにその危険を孕んで進行中ですね。どうなることやら。