海人の夢 第21回 為朝の弓勢

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

今週の清盛は、基本的に戦争場面です。保元平治の戦いといいますが、二回の戦いを併せて呼んだ呼称で、保元の乱と平治の乱は全く別物です。平安末期の混乱、宮廷内部の勢力争いを一括して呼んだものです。が、戦いを繰り返すたびに武士の力が強くなり、公卿支配の平安時代は終わりを告げます。今回の『清盛』はその一回戦、保元の乱の24時間だけの物語が放映されます。

F54、清盛たち平氏一門が高松殿に入ったのは保元元年(1156)7月10日の深夜だった。清盛は庭にひざまずき、御簾の向こうにいる後白河帝に着陣の挨拶をした。清盛の背後には経盛、教盛、頼盛、・・・たちが、ずらりと並んでいる。

平家の着陣は源氏よりもかなり遅れます。

先に駆けつけていた義朝率いる源氏軍のほうが、後白河、信西などから頼りにされたことは間違いありません。清盛が遅れたのは、意図してのことだったか、それとも平氏内部でイザコザがあったためか…、その双方があったと思います。

今回の脚本では末弟の頼盛が上皇方につこうとし、それを忠正が身代わりになるというストーリですが、従来の吉川本、宮尾本とは異なる推理です。忠正は、亡くなった家盛が上皇方に接近してから、すでに頼長方についており、出陣直前に六波羅を抜け出し、頼長のもとに走ったのでしょう。それに、頼盛は自ら兵を引き連れて敵方に走る気概、決断力のあるタイプではありません。どちらかといえばマザコンで、母の池禅尼に尻を叩かれて、嫌々ながら従軍したというほうが正しいと思いますね。

清盛は、忠正一派の離脱による平家党内の動揺を収め、軍を一枚岩にするべく時間をかけていたのでしょう。さらには、「信西の言いなりにはならぬ。平家の値打ちを宮廷に見せ付ける」という魂胆から遅参したものと思います。平家が天皇方につかなければ、双方の兵力は互角です。それに、上皇方のエース為朝の連れてきた九州勢は一騎当千の兵ぞろいで、都の兵10人から20人分に相当します。

というのも、この当時の主力の武器は弓矢です。しかも、双方互いに名乗りあって一対一で戦うのですから、後々の集団戦とは違い、強いものは相手を何人でも倒せます。横綱が褌担ぎを相手にしたら20人でも30人でもやっつけられるのと同じです。為朝はその意味で大横綱、連れてきた連中も大関や三役クラスですから、京やその周辺の兵士では歯が立ちません。

平家の参陣で、ようやく、天皇方が敵の倍近い勢力になりました。

F55、「孫子に曰く『利にあえばすなわち動き、利にあわざればすなわち止まる』
我らは今、兵の数で劣っておる。それで攻めるは理に合わぬ。大和の軍勢が着くのを待つのじゃ。 (略) また孫子に曰く「夜呼ぶものは恐れるなり」夜に兵が呼び合うのは臆病の証し。されど、孫子に習うまでもなく、夜討ちは卑怯なり」

頼長、信西ともに孫子の兵法を持ち出しますが、「利あれば…」という一説があったかどうか? 念のため孫子を読み直してみましたがぴったりくる文章は見つかりませんでした。

こういう文章があったとしても、始計篇か作戦篇、謀攻篇など戦う前に考えるべきこと、手を打つことです。既に戦いが始まっていますから、いまさら持ち出しても手遅れです。

更に「夜呼ぶもの…」の一節は行軍篇にある言葉で、開戦直前に相応しい言葉ではありません。いずれも脚本家の引用ミスでしょうね(笑)

源氏の武者にとって「孫子」は家訓に等しい書物です。そもそも、前九年、後三年の役で中興の祖とも言うべき八幡太郎義家が愛読した書で、源氏武者にとっては必須の教科書です。戦になれば「兵は奇道なり」が本来で「迂直の計」「風林火山」「火攻、水攻」などを駆使すべきですから、夜討ち、朝駆けは当たり前です。戦争になってしまったら「卑怯」などという倫理観は邪魔になるだけです。なにせ、殺し合いですからねぇ。

そもそも、頼長や信西が作戦に口を出すことが、下記引用のように孫子に違反します。

それ将は国の輔(ほ)なり。将優れたれば、すなわち国強く、将隙あらば国弱くなる。

故に君の軍に憂う所以(ゆえん)のものに三あり

(将軍は君主の補佐役である。将軍を信頼していれば軍は強く、信頼関係に隙間風が吹くようだと軍は弱体化する。君がしてはならぬことは三つだ)

として、以下の三つを具体的に説明しています。

  1、軍の進退(進め、退け)に口出しすること

  2、軍の陣立て(組織編制、人事)、作戦に介入すること

  3、指揮系統を無視して、むやみに命令を出すこと

シビリアンコントロールとは、戦をするかしないかを決断するまでの過程で、戦争が始まってしまったら、軍事司令官に一任するのが筋です。それくらい、将軍と為政者は信頼関係がなくてはいけないと孫子は強調しています。

福島原発事故における菅首相と原子力保安委員会、東電、発電所長……

孫子の、この言葉を知らなかったようですねぇ。余計な口出しで混乱させてしまいました。

危機管理、災害対策というのも戦争なのです。平和ボケしていてはいけませんね。

F56、為朝の強弓は疲れを知らず、次々に後白河帝方の軍勢を倒していく。

両軍共に公卿の要らざる口出しで夜襲は出来ませんでした。それでも先に動いたのは天皇方で、早暁に攻撃に移っています。鴨川の上流から義朝軍が、下流から清盛軍が攻めかかります。清盛に立ちはだかったのが、上皇軍で最強の鎮西八郎、為朝です。人並みはずれた強弓だったようですが、鎧武者一人の身体を貫通して、もう一人も傷つけたという話は「白髪三千丈」の同類でしょうね。それほどの至近距離ではないはずですから現在の鉄砲よりも威力があったとは思えません。が、冒頭にも述べたとおり、一騎打ちの世界ですから横綱と幕下の差は歴然と出ます。清盛は強敵を避けて別の門に向かいます。現場判断としては当然ですね。卑怯でも何でもありません。

平家物語では、数々のエピソードを面白おかしく紹介していますが、一騎打ちの世界というのは相撲か野球の試合に似ています。投手と打者、それが代わる、代わるに射し、防ぎます。落馬すれば、郎党たちが寄って、たかって首を奪い合うというやり方です。その点、戦国時代の合戦はサッカーに似ていますね。集団戦法です。

サッカー型を最初に取り入れたのが源平合戦の義経です。が、後に「それは卑怯だ」となり、また一騎打ちに戻りましたが、蒙古来襲で散々にやられて、戦国型が定着しました。

18、その日の昼過ぎまでに勝敗は決し、上皇方の公卿は四方へ逃れ、将兵は、あるいは討たれ、あるいは捕らえられた。
天皇の元へ、戦勝が報告されたのは、未の刻(午後二時)であった。

勝負を決めたのは、やはり「兵は奇道なり」の火攻めです。

風上からの放火で、視界が悪くなり、さすがの為朝も狙いが定まりません。さらに、火に驚いた頼長以下の公家たちが、慌てて騒ぎ出します。孫子が、「してはならないこと」と注意していた「3、指揮系統を無視して、むやみに命令を出すこと」を乱発します。こうなれば上皇軍は、戦わずして崩壊します。

下位の兵士たちが、我先に…と逃げ出します。そうなると、いかに為朝が剛球投手でも、野手が引き上げてしまって、守るものがいないのですから、打たれたら総てランニングホームランですよね。崩れだしてからの上皇方は、逃げるのに必死で、弓を捨て、薙刀を投げ出し、てんでんバラバラに四方に散ってしまいました。

戦闘開始が午前5時頃、終わったのが午後1時頃です。

この戦いで、清盛の平氏は大した活躍をしていません。それだけ兵士の損害も軽微でした。むしろ大活躍をしたのは義朝で、父や弟を相手に死に物狂いで戦いましたから、部下も多数討ち死にし、負傷者も多数出しました。が、現場を見ていない信西からの恩賞は平家以下です。義朝が不満を持っても当然でしょうね。

この戦いで清盛にとっては、二つのメリットがありました。

一つは、忠正以下の内部不満分子を、合法的?に、筋を立てて、整理できたことです。

それにもう一つ、源平武士団の中で、トップの座が転げ込んできたことです。

保元の乱以前の戦力は、源氏6に対して平氏4の割合でした。それが、源氏が真っ二つに割れ、為義派の「3」が消滅してしまったのです。したがって清盛「4」に対して義朝「3」となり、武士団の第一党に躍進したのです。これは、この先の政治力の発揮に大いに影響を及ぼします。清盛躍進の発端になったのが保元の乱でした。