海人の夢 第20回 保元の乱前夜

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

人間の感覚とはおかしなもので、異常が50年もの長期にわたると、それが通常になり、正常なことが異常に感じられます。白河、鳥羽と50年以上続いた院政という異常事態がいつの間にか常態となり、天皇の宣旨よりも、院の出す院宣が公式命令となっていました。

現代でもよくある話で、新聞辞令などというものがそれです。政府や企業が発表するよりも早く、特ダネと称して新聞やテレビが重要事項を発信します。それが世界中に瞬時に広がって、抜き差しならぬことになることが激増していますね。これは明らかにマスコミの横暴で、マスコミの思い込みや主義主張で、国家や企業の意思決定を誘導したり、圧力をかけるなどという行為は許されません。どうも最近は事実を伝えるだけでなく、報道記者の主義主張が入っているようで、気になります。マスコミ第四帝国などという言葉もある通り、報道の自由を振りかざす彼らの専横が過ぎると、マジメに議論する意欲を損ないかねません。北朝鮮の密告社会と同様、マスコミへのリークが社会を動かすようでは民主主義社会とは言えないのではないでしょうか。

民主党政権になってから、特にその傾向が目立ちますねぇ。自信のない政権と、それを揺さぶって面白がっているマスコミ。かれらは戦国乱世に暗躍した乱破(らっぱ)集団に見えます。マスコミ各社に自制していただくのは当然ですが、われわれもマスコミ報道に振り回されないように、彼らの「主張」と「事実」とを見分ける能力が求められています。

さて、いよいよ戦が始まってしまいました。

親子兄弟入り乱れての殺し合いです。現代人には考えられぬ展開ですが、一夫多妻制度では親子の情も、兄弟の情も、希薄になるんですねぇ。皆様も隠し子などは作らぬほうが身のためですよ。遺産相続で「乱」が起こります。

F51、頼長は、崇徳院を担いで、前面に押し立てるつもりであった。
崇徳院の目に力が宿り、爛々としてきた。辛酸を舐めてきたばかりの人生に、三度目で本当の好機が来るのなら逃がしたくない。今度こそという夢が膨らんだ。

頼長には自信がありました。目の上のタンコブ、鳥羽院さえいなくなれば、時価や苦労中に取り籠めてある崇徳を飾り物に押し立てて、意のままに国政を牛耳ることが出来るという確信です。待ちに待った鳥羽法皇が崩御されれば、これからは自分の思うとおりです。

信西が後白河天皇を使って、いかに宣旨を出そうとも、世の中は天皇の宣旨よりも上皇の院宣の方が効き目が強いのです。院宣とはトランプのスペードのエース、水戸黄門の印籠のような魔力がありました。

崇徳上皇にとっても、好機到来です。「院」と名のつくものは自分しかいません。院宣さえ発令すれば、それに逆らうものは朝敵として抹殺されます。

天皇になっても飾り物、わが子を天皇として法皇になろうとしても弟に天皇位を奪われ、挫折ばかりの人生に最後のチャンスがやってきました。張り切って当然です。

三度目の正直…という言葉があったかどうかはわかりませんが、そんな気分だったでしょうね。しかし、二度あることは三度あるという諺も、これもあったかどうかわかりません。

ともかくも、当代きってのやり手である頼長が味方に付けば、その判断に間違いがあるはずはないと腹を決めました。後白河天皇になった雅仁の旧悪を暴露し、失政を咎め、退位に追い込むという戦略です。

蝦蟇・鳩の旧悪をあげつらい、解散に追い込もうという野党の戦術にも似ています。

こういう、公家的なイジメ戦術…文聞亭は好きではありませんねぇ(笑)これと散々戦ってきましたからねぇ。

F52、これは時の帝・後白河帝と上皇崇徳院というご兄弟の戦いであり、関白忠通様、悪左府頼長様という藤原摂関家ご兄弟の戦であり、信西入道と頼長様という当代きっての二人の学者の戦でもあった。
されどこの戦いの行方を握っているのは、朝廷の番犬と呼ばれた武士であった。

戦支度にかかったのは信西のほうが先です。頼長のイジメ戦術を読みきって、短期決戦に出でます。後白河の不行跡など掃いて捨てるほどありますから、時間が経つほど不利になります。言語道断、武力による抹殺、これこそが信西の基本戦略でした。信西の自信の裏づけは清盛の平家です。NHKドラマでは清盛が決断を鈍る想定にしていますが、実際は既に密約があったと思うべきでしょう。NHK脚本の藤本さんは「吉川平家と違う、新しい清盛像を」と頑張っていますが、ちょっと無理がありますね。

信西の仕掛けは、まず、源義朝に踏み絵を踏ませます。頼長邸を襲わせたのです。

これを義朝がやるかどうか、それが一つの賭けです。賭けの確率はサイコロ同様、丁か半か、確率1/2です。丁の目が出ましたが、半の目が出たときに、清盛の武力がなくては勝負になりません。清盛に、忠盛以来の念願である公卿の地位を約束して、義朝を試したと考えるのが戦略家の発想でしょうね。

控訴される前に復党を許した政権与党、なにか保証があったのでしょうか。この時期の急いで復党を認めるとは…司法に対する圧力と疑われても仕方ありませんね。控訴したのは指定検察官役の弁護士の意地でしょう。

F53、清盛兄上は棟梁といえども平氏の血が流れぬお方。この一大事に平氏の命運を賭けるわけにはいかぬ。……今宵のうち、できる限り兵を集めよ。我ら一党は道を分かち、上皇様にお味方する。

テレビでは、頼盛が清盛に逆らって崇徳方につこうとし、その身代わりとして伯父の忠正が崇徳方に廻るという設定ですが、これも無理ですねぇ。ならば、なぜ、今まで清盛の敵役を演じさせていたのでしょうか。多分、この後の展開で、清盛が頼朝の処刑を許すための伏線でしょうね。

頼盛は政治には無関心な文化人です。母の池の禅尼が手塩にかけて育てた公家です。

平家を公卿の家にする、というのが忠盛と宗子(池禅尼)の悲願で、そうなった暁にこそ頼盛が登場する場面が廻ってきます。保元の乱前夜、頼盛の出番はありません、宮尾本平家では、母の指図がなければ戦支度すら出来ない青公家として描かれています。

平忠正が息子たちを引き連れて上皇方に走ったのは、清盛に対する反感ですね。清盛に乗っ取られた平家本流を取り戻すという執念でしょう。あえて、不利なほうに味方するというのは死ぬ覚悟がなくてはできぬことです、自分ひとりならイザ知らず、3人の息子たちともども賭けに出るというのは、それだけの勝算がなしにはできぬことです。

多分、為義とは気脈を通じていたのでしょう。

M05、7月10日の夜、上皇軍は軍議を開いたが、このとき総指揮の為義は三策示した。
1、至急、宇治か近江に下向し、来援の兵が集まるのを待つ
2、上皇に関東に下向していただき、東軍の兵を集めて上洛する
3、1,2、でなければ、先手を打って御所に夜襲をかける
それを聞いて頼長はせせら笑った。

為義、忠正が上皇軍の主力です。信西の動きは忠正が把握していますから、「まともに戦ったら勝ち目はない」ことは、重々承知です。忠正が提案したのが1案でしょうね。

近江には清盛が予め集めておいた兵と軍事物資があります。これを、清盛の命令と騙して味方にしてしまえば、物量作戦の不安はありません。宇治には平等院に頼長の父、忠実が日和見しています。これを武力で脅し、味方につければ、奈良、吉野の僧兵、武士が味方に付きます。事実、上皇方が短期決戦で勝つ戦略はこれしかなかったと思います。

2案は為義の提案です。このままで戦ったら負ける。そのくらいのことは自明の理です。

ましてや息子の義朝が敵方に与して、先遣隊として頼長邸を襲うなどという活躍をしています。ここはじっくり長期戦と、上皇を供奉して関東に向かい、東国の田舎者に官軍の名誉を与えるという戦略です。八幡太郎義家への信頼と尊敬が八幡宮を祀る土地柄ですから、上皇自らが下向するとなれば、義朝がいかに抵抗しようとも、関東武者はこぞって上皇方につきます。戦に強いのは貧しい土地の兵たちです。関東、東北、九州…時代が変わっても、兵隊の強い土地柄は変わりません。京大阪は「またも負けたか八連隊」なのです。

保元の乱は、1か2の作戦が採用されていたら、どうなったかわかりません。

が、頭の中だけ、机上論を弄する頼長に、戦という体育会系の論理は通用しません。

関が原での石田三成、太平洋戦争での大本営もそうでしたが、現場の意見を無視した作戦は失敗します。3案の夜襲まで「品位にかかわる」と拒否されて、既にこの時点で崇徳方の負けが決まりました。残るは鎮西八郎為朝などの、悲劇のヒーローの活躍だけです。