海人の夢 第18回 たわむれ皇子

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

近衛天皇が重態に陥ります。流行性眼病が原因といわれていますが、トラホームでしょうか。それだけで死に至るということはないでしょうが、失明したことで生きる気力を失って、外界と断絶してしまった結果、気鬱を併発して死に至ったものと思われます。医療がなく、加持祈祷だけの時代ですから、本人の生きる気がなくなれば重態化します。

高齢と心労で鳥羽法皇の健康にも翳(かげ)りが表れ、衰えが顕著になってきました。こうなると次の権力の座を狙う者たち有象無象(うぞうむぞう)がうごめきだします。政権内部にいる顕官に限らず、下級の公家や武士、町人、百姓に至るまでが、あるいは権益を守ろうとし、あるいは新たな権益を得ようとして陰に陽に活動を始めます。

そうですね、政権が行き詰まって解散風が吹き出すと、一気に選挙ムードが高まるのと同じことです。現在の政権も、「不退転の決意」の総理の意思とは裏腹に、裁判で無罪の判決を勝ち取った選挙屋、蝦蟇(がま)親父(おやじ)がいよいよ表面に出て、政権奪取を狙います。消費税反対、TPP反対、親中国・韓国路線を掲げ、野党以上に野党的な動きを強めるでしょう。これに同調する者も次々現れ、政権は立ち往生するでしょうね。不退転のドジョウが蝦蟇親父に政権を禅譲(ぜんじょう)することはないでしょうから、解散風が立ち始めます。いよいよですかねぇ。

それはさておき、平安期も「これ」といった本命候補がないままに迷走を始めます。

こういう点でも現代に酷似していますね。帯に短し、襷(たすき)に長しです。

M03、この時点で候補になりうる皇子を挙げれば、鳥羽院の子4人がおられたが、雅仁親王のほかは既に仏門に入っており、一代飛び越せば雅仁親王の皇子守仁親王と、崇徳院の皇子重仁親王がいる。

権力者がそれぞれに思惑があります。自分の権力を如何に永続させるかに腐心します。

この場合、最も発言力が強いのは鳥羽法皇ですが、鳥羽法皇はまず出家している覚性法親王を還俗させることを望み、それが否定されると内親王を女帝として即位させることを望みます。崇徳系の皇子は拒否、遊び人の雅仁とその子は嫌い、という理屈です。

鳥羽院が雅仁を嫌ったのは、遊び呆けてばかりいるという態度を嫌っただけではありません。心の底では、その出生を疑っていたのです。「崇徳院同様に、祖父・白河法皇の胤ではないか」という不安です。「自分に似ない子はモノノケ、白河院の子に違いない」という脅迫観念に苛(さいな)まされていたのです。その意味では絶大な権力を握りながらも不幸な人生ですね。家族が信じられないのですから、今話題の「絆」どころではありません。

鳥羽法皇は5歳で天皇に即位し、上皇、法皇となって、このとき既に54歳ですから49年間も権力の座に座っていたのです。当時としてはまれな長期政権でしたが、その前半は、祖父白河院の天下で、やりたいこともやらせてもらえませんでした。

後継者選びでも、結局はわがままを通せずに終わります。

F46、「皆々の言うことを聞き、俺の考えが決まった。法皇様、上皇様、お二人に仲良うしていただく。お二人の間の溝は深いが、それを埋めぬ限り世の乱れは正せぬ。我らはその溝を埋めるために働く。さように決めた!」

平家も去就を迫られます。さて、誰に付き、誰を推薦するのか。これによって将来の立場、地位が決定付けられます。議員総会ですねぇ、一族郎党を一堂に会し、合議の場を持ちます。誰しもが思うことは、なんとしてでも、与党のままでいたいところでしょう。

伯父の忠正は忠盛の遺訓を引き継ぎ、鳥羽院の側につくことを主張します。

一方、弟の頼盛は先物買いで、早めに崇徳院に乗り換えることを主張します。

さらに、この頃は既に平氏の一員になっている妻・時子の弟の時忠が日和見を提案します。

喧々諤々、議論は延々と続きます。こういう話は議長と言うか、リーダが裁断しない限り答えはでません。消費税値上げ法案を巡る民主党内の議論もそうでしたが、全会一致などということはありえませんよね。

清盛の決断は、敢て、どちらにもつかぬ仲裁路線です。天皇家の溝、関白家の対立などが埋めようもないものであることを理解して、その上で仲裁しようというのですから政争から一歩身を引くことになります。清盛の態度は、日和見にも見えますが、実は公卿たちの政争渦中に巻き込まれず、正論を掲げて、大所高所から状況変化を見定めた上で勝ち馬に乗ろうというものです。

現代日本の、みんなの党、大阪維新の会がその路線かもしれませんね。

F47、悪左府の異名にたがわず、頼長は妥協を許さぬ強硬な態度を取った。
慈しんできた息子との間に溝が出来てしまった。忠実は寂しさを感じる一方で、人望を失いかけている頼長から距離を置こうとしていた。

前にも書きましたが、この時代の「悪」と表現される言葉は、一種の敬語です。飛びぬけて優秀な者に与えられる称号ともいえます。悪平太清盛、悪源太義平などもそれです。

ですから水戸黄門の芝居に出てくる悪代官とは違います。「極めて優秀な左大臣」というのが頼長につけられた仇名で、その名の通り博学多才の上に筋の通った理論家でした。彼の思想は聖人君子による政治の追求ですから、鳥羽院や兄の関白忠通の私情による政治が許せません。後継者についても崇徳院の子・重仁親王を新帝に立て、崇徳上皇が後見するという体制を確立すべく突っ走ります。その点では旗色鮮明なのです。

こういうところに源氏の棟梁、為義が惚れていたんでしょうね。体育会系が惚れ込みそうなタイプです。為義はすっかり心酔して源氏を挙げて頼長支援に掛かりますが、肝心の長男、義朝は鳥羽院、関白忠通派に属して親父の言うことを聞きません。それもあって、廃嫡まではしませんが、源氏の後継者を次男の義賢にしようと準備を進めていました。

義賢は関東に、そして暴れん坊の為朝は九州にとこの時期は都にいません。そして、一族の源頼政は為義から一歩引いた立場にいます。平家がまとまっているのに比べ、源氏は思惑がバラバラで、一党の形を成していませんでした。現代の民主党を見るようです。

さて左大臣頼長ですが、為義の率いる源氏の警察力を使った綱紀粛正のやり方が、峻烈さを増してきました。「おい、こら」「ちょっとこい」の戦前の警察のような取締りですから、庶民を含めて世間の人気は落ちます。敬称であった「悪」が、邪悪の悪として使われだします。親の太閤(さきの関白)忠実の忠告にも耳を貸しません。これで藤原摂関家は忠通派、頼長派、一歩引いた忠実派の三極に分かれてしまいました。ブレーキを失った車のように、頼長の暴走が始まります。

各派の思惑が乱れ飛ぶ中で、近衛帝が崩御します。さて待ったなし。次の天皇を決めなくてはなりません。ああでもない、こうでもない、すったもんだの末に、消去法で出現したのが後白河天皇です。守仁親王が成人までのつなぎの暫定内閣。そんな位置づけです。

鳥羽院が「文にもあらず、武にもあらず、遊び人」と嫌っていた雅仁親王が天皇になりました。この決定に強く関与したのが信西です。雅仁政権樹立の立役者、政権の黒幕として、いよいよ本領を発揮してきます。信西が次に狙うのは対抗馬の頼長です。共に学識抜群のライバル同士ですから、どこかでけりをつけなくてはならない宿命にありました。

一方、清盛ですが、平家の棟梁となって大きな集団を抱えることになりました。父・忠盛がその人徳を持ってまとめていた組織だけに、やはりほころびが出ます。まずは伯父の忠正が清盛と距離を置きだしました。当然その息子たちも清盛に対しては冷ややかです。

二代目の苦労というのは、実は内部の結束をいかに維持するかで、仕事の能力以上にその人格、特に包容力が問われます。「清濁併せ呑む器量」などといわれるのがそれですね。

余談になりますが、吉川英治はそういった人格形成について、新平家物語の中で、清盛の成長を語る部分で、次のように述べています。

人間の本当の成長とは、誰も気がつかないうちに土中で育っているものである。

人が言いはやすのは、地表の茎や花でしかない。

人徳、統率力、リーダシップなどという、わかりにくいものを説明するのには、実に良い表現だと思います。芳川英治は菊作りに凝っていて「菊作りは土作り」などと言うほどでしたから。根っこの大切さについては人一倍関心が高かったと思います。

現代人は何事も数値化したがる癖があって、学業の成長度は偏差値で、業務成績も点数化しますが、それは地表に出た見える部分です。仕事に対する取り組み姿勢や、一緒に仕事をする仲間への心配りなどは、心の中の意識の問題ですから周りからは見えません。土の中の部分ですよね。

日々の出来事に何を感じ、何を学び取っていくかはその人の意識のありか次第です。現代は情報化社会などと呼ばれ、便利なハードと優秀な検索ソフトを搭載したスマートフォンなどがもてはやされますが、そういう機械器具を使って、得られた情報を仕事や人生にどう生かすか、これこそ地中の根っこの感受性と、取捨選択判断の問題です。

子供とスマホ、携帯の問題も、要は根っこ次第でしょうね。大人とて、根っこ次第です。