海人の夢 第19回 弟連合

文聞亭笑一

【紺色文字は引用でF数字は藤本有紀著、数字だけは村上元三著「平清盛」です。】

今回のドラマでは、吉川英治、宮尾登美子、村上元三などが取り上げなかった鳥羽上皇の時代を克明に描きます。私などから見れば資料も先入観もありませんから「さもありなん」とストーリを追っていますが、源氏内部の分裂、清盛から伯父の忠正が離反していく経緯(いきさつ)については、やや説明不足でしょうね。親子兄弟、親族が敵味方に分かれて戦(いくさ)、つまり殺し合いをするのですから、相当根の深い対立があったと考えるべきでしょう。

源氏については後述しますが、平氏の内部の亀裂は、忠盛の存命中から深く静かに進行していました。清盛の弟、家盛が左大臣頼長に取り込まれた時、忠正やその子息たちも頼長に近づいています。鳥羽法皇やその取り巻きとは忠盛、清盛が窓口になりますから、忠正が得る情報は間接情報でしかありませんが、頼長からは直接情報が入ります。情報の信頼性は、どうしても直接情報が優先されます。

さらに、忠正の読みとしては雅仁、後白河に天皇位が移る可能性など、全く考えていなかったと思います。崇徳上皇の子である重仁が即位するに違いないと考えるのが常識的です。

法皇寄りの清盛に対して、先手を打って崇徳上皇や頼長に近づいておけば、清盛を追い越して平家の実権を握ることが出来ると考えても不思議ではありません。藤原摂関家も弟の頼長が氏の長者の座にあります。平氏も忠盛の弟である自分が棟梁になってもおかしくないと考え、さらに源氏も弟の義賢に家督を譲るようですから、藤原頼長、平忠正、源義賢で「弟連合」を組んだものと思います。

F48.新しい帝を決める話し合いに、参加できなかった頼長にとって、雅仁の即位は、不本意極まりないものだった。それでも頼長は自らの手腕に自信を持っている。

新帝を決める御前会議に頼長は参加を許されませんでした。これは、政治的駆け引きではなく、宗教的な問題です。実は、妻が亡くなって、頼長は喪中だったのです。喪中のものが昇殿することは宮中の禁忌で、このルールを破ることは出来ません。ですから御前会議どころか、御所内に入ることすらできない時期でした。

これは天皇家を頂点とする日本神道の伝統で、死者を忌むという考え方は現代にまで残っています。忌引休暇というのがそれで、親や身内の葬儀においては何があろうとも最優先で、重要会議や取引の場への欠席が許されます。「チチキトク、スグカエレ」の電報は黄門様の葵の印籠の如くに通用します。国際化が進んで、海外との交渉ごとには通用しませんが、日本国内ではそれが当たり前で、仕事を優先したりするほうが顰蹙を買いますね。

そもそも、死者を忌むというのはどこから来たのでしょうか。

思うに…伝染病が原因だったように思います。医学がない時代に伝染病にかかれば、手の施しようがありません。本人の自然治癒力だけが便りですから、隔離して、加持祈祷に頼るしかありません。が、「近くに居たものに移る」ということが分かっていますから、死者の近親者は一定期間を喪に服して病菌が自分に移っていないことを証明しなくてはならないのです。初七日、四十九日など仏教と神道が習合して出来上がった儀式に思えます。

ともかく、頼長にとっては意図せざる展開になりましたが、だからといって滅入っている訳にはいきません。鳥羽院、後白河天皇の側近として力をつけてきている信西、藤原南家の台頭を許せば、宮廷内の力関係が怪しくなってきます。

F49、それでも頼長は一縷の望みをかけて鳥羽院御所に出仕した。鳥羽院は謁見を許してくれるだろうか。不安を抱えて廊下を歩いていた頼長は、「信西殿」「信西様」と、いかにも機嫌をとるような呼びかけを耳にして、声のする方に不快そうに目を向けた。公卿たちが揉み手をしながら信西についていく。

泣きっ面に蜂とも言いますが、頼長には冤罪が降りかかってきます。愛宕山呪詛事件というのがそれで、頼長は近衛天皇を呪い殺したという噂が広がりました。ここでも、医学の未熟な時代の弊害が出ます。近衛天皇は眼病が原因(直接原因かどうかは不明)で亡くなったのですが、その原因が頼長による呪詛の結果であるとされました。調査の結果、愛宕神社の神像の目に釘が打ち込まれていたのです。

こういう噂を立て、頼長を陥れたのは信西の仕業でしょうね。信西と頼長は博学多才で、宮廷の理論家としてライバル同士でした。どちらから見ても、互いに目障りな存在です。

信西が、この絶好のチャンスを見逃すはずはなく、頼長の抹殺にかかります。

無実を証明しようと鳥羽法皇に面会を求めて昇殿すると、そこはもはや信西の天下でした。

「藤原家の氏の長者が政権の中枢として天下を仕切らねばならぬ」とする頼長の思想、哲学からすると、許せない現象が御所内を覆っています。

吉川英治は新平家物語の中で次のような語録を残しています。

「幻想が不平を育て、不平が幻想を培(つちか)う」

かつて共産主義という幻想がありました。その幻想からすれば資本主義の世の中ほど不公平、不平等なものはありません。労働者が天下を取れば世の中は良くなるに違いないと考えられたのですが、ソビエト連邦の崩壊を受けて幻想は消えつつあります。代わって、イスラム原理主義という幻想が、地球上のあちこちで火を噴いています。イスラムの教えに戻れば世の中は良くなるという幻想が、先進国による搾取という不平になり、更に思いを深めているんでしょうね。

「政権が変われば、世の中は良くなる」これもまた幻想でしょうね。

今年は、世界中で元首の選挙があります。変な幻想に左右されないで欲しいものです。

F50、義平の軍勢は、義(よし)賢(かた)と秩父重隆が本拠にする大蔵館に襲い掛かった。義賢と重隆の軍勢は懸命に応戦するが、次第に形勢が不利になり、館内にいた女や子供たちは逃げ惑った。その中には義賢の子、駒王丸(後の木曽義仲)が居る。

源氏では為義の命を受けた義賢が、関東の地盤を義朝から取り返そうと北関東を中心に勢力拡大を図ります。相模、上総など南関東には義朝の子、悪源太と異名を取る義平が勢力を張っていますから、中央に広がる武蔵野国をどちらが治めるかで関東の趨勢が決まります。武蔵の国…現在の埼玉、東京都、川崎市と横浜の東部です。北武蔵の秩父に陣を張る義賢、鎌倉から北を狙う義平、同じ源氏ながら、源氏の正統を争います。兵の数では義賢が有利でしたが、戦上手の義平が奇襲作戦の夜襲に出て、一気に義賢と秩父重隆を討ち取ってしまいます。

義賢の次男、駒王丸は中山道を落ちて木曽に匿われることになりました。

後に木曽義仲と頼朝、義経が戦いますが、親の代の対立が子にまで伝わります。

身内の争いほど深刻で、怨恨を残すものはありません。「兄弟仲良く」は、現代にも通ずる幸福への基盤でしょうね。

M04、この南殿の御所に、この春から不食(ふじき)という病いで、鳥羽院はずっと伏せており、油断ならない容態が続いている。
6月に入ると腹、手足が腫れ、一旦は持ち直されたが、7月2日の未明、お目を閉じられたきり、ご遺言もないままに息絶えた。

鳥羽法皇の病気は…ここで引用したような病状だとすれば胃がんか、食道がんですね。

食べ物が喉を通らず、痛がりながら、やせ細っていったようです。

実力者、鳥羽院の死は、当然のことながら政権の不安定を呼びます。今までの院政を踏襲するならば、当然崇徳上皇が政務に就くのですが、関白忠通、信西は天皇親政を主張します。天皇が幼少であれば上皇、法皇が政務を見るという理屈が成り立ちますが、後白河天皇は既に30歳を超えた成人ですから院政の必要はないと、崇徳院、頼長派の要求をはねつけます。こうなれば…頼長の考えることは只一つ、軍事クーデターしかありません。

それぞれが、それぞれの伝(つて)を頼って多数派工作を繰り返し、戦支度を始めますが、この日のあるのを予測していた平氏は、すでに大津周辺に軍事物資の集積を完了していました。名目上は比叡山、園城寺の悪僧に不穏の動きがあるということにして、食料、弓矢、馬などを用意していたのです。清盛が政治家として和戦両様に構えをしていたことが窺えます。

さて、現代の国内政治ですが、どうなりますかね。違憲状態の議員定数是正を先送りして解散できない環境を続けようとする、小汚い戦法を画策しているのが与党執行部のようですが、そういうミエミエのあくどい手を打つ党には誰も見向きもしなくなるでしょうね。憲法をないがしろにし、自分らの綱領も持たない政党が、マニフェストという御伽噺のような夢物語を掲げます。そんなものは、もはや通用しません。夢物語であったことは、明々白々の事実なのです。おそらく、少数に分裂した党派での戦国選挙になりそうですね。

平安末期のほうが、まだマシかもしれません。