乱に咲く花 11 話の尾鰭

文聞亭笑一

今週のドラマは文をめぐる縁談や恋物語から、久坂との結婚へと向かう筋書きのようです。まさにホームドラマですから、文聞亭などが口出しできる部分ではありませんねぇ。

そこは女流脚本家の腕の見せ所ですから、映像を楽しむことにします。

さて、吉田稔麿(栄太郎)の向かった江戸ですが、中央政府である江戸の幕府は、外交という今までに経験したことのない事態に大混乱しています。政権が長くなり、官僚機構が固定化してしまうと「前例がないこと」には身動きできません。ましてや徳川幕府の法制というのは法律の骨子だけが決まっていて、それに付帯する諸条項は役人の裁量に任されています。大岡裁き、遠山裁きなどと言われるのは、裁量の余地が大きいからこそできることで、現代の緻密な法制度ではとてもできることではありません。

現代の公務員の皆さん、国家公務員も地方公務員も法律に縛られて身動き取れずにいます。私のような民間育ちからすると「四角四面でなく目こぼししたらいいのに」と思う些細なことでも法に縛られているんですねぇ。民生委員(特別地方公務員)になって、色々とお勉強させられたり、公務員諸氏と付き合うようになってご苦労さが理解できました。

余談ですが、先日の川崎の事件で容疑者の青年は少年鑑別所を出てきたばかりの人物のようですね。こう言う人には保護観察として保護司という民間人が付きます。これも民生委員と同じくボランティアですが…「保護司は何をしていたのか!」などと責められたら気の毒です。捜査権も強制力もない只のオジサン、オバサンですからねぇ。

それも知らずに誰かを攻めて溜飲を下げているマスコミの脳天気…結構な稼業ですねぇ。

ハリスの江戸入りは10月14日、派手派手しい金モールの大礼服を着て、行列も賑々しく江戸へ乗り込んできた。品川から九段下にあった蕃書調所まで、どの道を通ったかは定かではないが、ハリスの日記によると、見物人が「距離が7マイル、一人分2フィート、それが五重になっていた」とある。これから計算すると9万2千人になるのだが、大勢の出迎えにハリスは大満足であった。             (半藤一利;幕末史)

この辺りは添付している「攘夷でござる」にも書いていますから重複しますが、ハリスの江戸入りという事件(儀式)は攘夷熱に火を点けました。話に尾ひれがつくと言いますが、実態以上に誇張され、歪曲されて全国に発信されていきました。私の小説では登場人物が幕府側にいて、登場人物も開国派の者が多いですから事実だけしか記述していませんが、噂として流れた情報は幕府に対する悪意に満ちたものが大半であったようです。

というのも、この時期全国を遊説して回っていたのは、水戸藩の関係者が圧倒的に多く、更に、その遊説に同調した土佐、薩摩、熊本などの脱藩浪人が情報伝達の中心でした。どちらかと言えば西国出身者が多く、幕府に対して批判的な人たちです。情報と言うものは、伝達回数に応じて誇張され、単純化され、伝える者の意志が色濃く乗ります。現代の「ネット炎上」などもその類ですが、いったん広がり出したら止め様がありません。風評という現象で、表現が過激であればあるほど広く、遠くに伝播します。

江戸市民が大勢沿道に繰り出しましたが、歓迎した人はほとんどいなかったでしょうね。「珍しい者が通る、夷人という珍獣が通る」という感覚で繰り出した野次馬でしょう。江戸でこれだけの人が繰り出しても一向に不思議ではありません。当時でも江戸の人口は100万人いたと言われています。世界でも有数の大都市なのです。

沿道の人たちは物見遊山に見世物小屋に繰り出した感覚なのですが、言葉が通じないのが幸いしてハリスは「歓迎された」と意気揚々です。当時のワシントンやニューヨークで、これだけの人が繰り出すことは…まずありません。調子に乗って老中の堀田正睦の屋敷では大演説をぶっています。曰く、

「条件が緩いアメリカと通商条約を結び、それをひな形に列強と条約を結ぶのが得策だ。

イギリスやフランスのような海賊と条約交渉をするのは大変ですよ。彼らはすぐに海軍を連れてきて大砲をぶっぱなす。それで、いいようにやられてしまっているのが中国です」

この情報が長州に伝わったころには「アメリカ艦隊が江戸湾に侵入し、幕府はその脅しに屈して条約を結んだ」ということになっていますが、ハリスの江戸入りでは、ハリスの乗船した軍艦が横浜辺りまで送迎しただけです。

ともかく日本人は珍しいものが大好きです。オリンピック、万博、花博、ワールドカップ…猫も杓子も繰り出します。北陸新幹線もしばらくは満員が続くでしょうね。

日本の諸物価は鎖国下における日本人の必要量しか生産していない。それを、開国・通商と同時に、外国が求めた茶・生糸をはじめとし諸物資が一気に横浜港に流れ込んだ。もともと国内消費量しか生産していないのだから、物は不足する。当然、物の値は上がる。それは、茶や生糸だけではとどまらない。あらゆる物の値が上がってしまった。 (童門冬二)

通商条約の最大の課題はこれでした。…が、このことをわかっていた者は密貿易の経験のある西国諸藩です。あるいは、他藩との商売によって財政を立て直している藩でした。その意味で維新の主役になった薩長土肥などの藩は「わかっていた」者たちです。

徳川幕府というと、士農工商の身分制度と短絡的に考えますが、経済を取り仕切っていたのは勘定奉行所と豪商、豪農(名主、庄屋)です。勘定奉行に才覚のある者がいて、他藩や江戸への輸出品の殖産に熱心だった藩ある程度裕福でしたが、産業振興を計らなかった藩は財政赤字、借金地獄の底です。維新の波に乗れず、賊軍扱いされた藩などがそれに当たります。売るものが米しかない…という藩が大赤字でしたね。

ですから、藩によっては商人を大事にしていました。「士商工農」という序列の所もあれば「士工商農」もあります。さらに農の中には足軽身分も入りますからね。長州藩は、どちらかと言えば商を重んずる藩で、桂小五郎も、高杉晋作も勘定奉行所系の役人身分です。

猛烈なインフレで、庶民は塗炭の苦しみを味わうことになります。

「幕府とは外国の脅迫にこれほど弱いものなのか」諸藩の者たちは、通商条約のことを知って、幕府に対する畏敬の念が一瞬で覚めた。これが「悔幕」になった。

諸侯はそれまでタブーとされていた幕政批判を堂々とするようになった。その代表を挙げれば水戸の徳川斉昭、外様として口出しできないでいた薩摩の島津斉彬、土佐の山内容堂、越前福井の松平春嶽、伊予宇和島の伊達宗城などである。    (司馬遼太郎)

尊幕が悔幕になり、そして討幕に向かいます。

この引き金を引いてしまったのが、ペリーの黒船来航時に老中・阿部伊勢守が行った「万人から意見を徴す」という施策でした。「お上に物申してはいけない」「直訴などしたら打ち首・獄門」と思い込んでいた下級武士や熊さん八さんまでもが「ワイワイ・ガヤガヤ」的な意見書をゴマンと出しました。一種の言論の自由の解放ですね。

それに力を得て「まろの出番かいなぁ」と鎌首を持ちあげたのが御公家様たちでした。

攘夷を旗印に「尊皇」の看板を掲げる水戸藩・徳川斉昭と藤田東湖のコンビがスポンサーです。悔幕、反幕の意思を持った脱藩浪士たちは京に集まり始めます。

更に、阿部伊勢の後を継いだ老中・堀田正睦が勅許を得ようと京に上ってきます。これは国民全体に対して「幕府より天皇が偉いのだ。天皇が最終承認者である」というイメージを強く意識づけました。

家康、秀忠、家光の3代にわたって強固な獄舎に繋いでおいた「天皇の権威」という怪物の檻を開けてしまいましたね。私はこれを大政奉還と位置付けます。後に徳川慶喜がやった「大政奉還」は儀式、形式だと思っています。

もう一つの悔幕(ぶばく)現象は、それまで幕府に対して何も発言権のなかった京の朝廷・・・

公家・・・が居丈高になって幕府の外交弱腰を痛罵し始めたことであった。

「なぜアメリカと戦う覚悟を持たぬのか」という過激攘夷論である。むろん、公家が自分の思考でそれを言い募るのではない。公家を取り巻いている志士や学者たちが「入説」と称して攘夷論を吹き込み、公家が鸚鵡(おうむ)返しに言い募るだけのことである。  (司馬遼太郎)

公家たちが言い募るのに脚本を書いたのは誰か。それが井伊大老による「安政の大獄」で獄死、刑死、自刃した者たちです。 山本貞一郎(松本藩)、梅田雲浜(若狭藩)、橋本佐内(越前藩)、梁川星巌(学者)、頼三樹三郎(頼山陽の子孫・学者)などなど…。

この時の公家たちの役割というか、パフォーマンスが、現在テレビに出てきてニュース番組を担当しているタレントや、専門家と称する人たちですね。テレビ局から渡された台本に沿って、感情表現豊かに迫真の演技をします。アドリブなども入れながらテレビ局の意思を強く視聴者にアピールします。彼らは、二言目には「我々庶民にとって…」と言いますが、当時の公家衆は「帝にあらしゃりましては…」を連発したでしょうね。

庶民の顔をした御公家様(タレント)が世論誘導をしているのが現代でしょうか。